弘法大師 空海
(宝亀5年6月15日から生誕1238年)
帰命頂札遍照尊
宝亀五年の六月に
玉藻よるちょう讃岐潟
屏風が裏に誕生し
御歳七つの其時に
衆生の為に身を捨てて
遂に乃(すなわ)ち延暦の
末の年なる五月より
藤原姓の賀能らと
遣唐船(もろこしぶね)に乗りを得て
しるしを残す一本(ひともと)の
松の光を世に広く
弘め給える宗旨をば
真言宗とぞ名づけたる
(弘法大師和讃より)
弘法大師 空海
(宝亀5年6月15日から生誕1238年)
帰命頂札遍照尊
宝亀五年の六月に
玉藻よるちょう讃岐潟
屏風が裏に誕生し
御歳七つの其時に
衆生の為に身を捨てて
遂に乃(すなわ)ち延暦の
末の年なる五月より
藤原姓の賀能らと
遣唐船(もろこしぶね)に乗りを得て
しるしを残す一本(ひともと)の
松の光を世に広く
弘め給える宗旨をば
真言宗とぞ名づけたる
(弘法大師和讃より)
先日、京都の丹後、兵庫の丹波をドライブ。
あの界隈をドライブするのは、楽しいです。
その途中に、一期一会倶楽部という看板を見つけました。
・・何かを思い出した感覚。
もう随分昔、20代の若い頃、社会に出て働き始めた頃の話に遡ります。
北鎌倉駅から鎌倉駅まで歩いた事があります。
もう、どのルートを歩いて通ったか覚えていませんが、途中に洞窟の洞穴のような入り口があって、入ってみました。
銭洗い弁天という場所でした。
お金を洗うと、お金が貯まるというご利益が有るとの事で、その通りにしました。
当時は全く先入観が無くて、今はとても有名な場所です。
その銭洗い弁天を後にして、テクテクと歩いて鎌倉駅まで目指したのですが、その途中に今尚記憶に残るのが、一期一会倶楽部という看板でした。
「一期一会」・・一生に一度きりの出会いかな?
鎌倉駅に着いて、駅前の「扉」という喫茶店で一服。
その後、当時暮らしていた東京の調布のアパートヘ帰宅。
あの日を振り返れば、何か予期せぬ未来ヘの扉とその伏線となる個人的な不思議な一日でした。
あの日、東京に戻ってからの生活・・ほとんどお金を使わない日々となりました。
職場の上司から、取材は日中、その打ち合わせ、編集会議、その時間がほとんど外出先の夕方過ぎにと変更指示があったのです。
つまり個人的な遊興費を使う時間がない代わりに、仕事として打ち合わせ食事代もほとんど経費として領収証を貰うことが日常となりました。
その上司は、僕が瀬戸内海の小さな貧しい島、百島から上京、苦学してマスコミの世界に入ったと同情してくれたのかもしれません。
カメラも文具等々、ほとんど必要経費として、会社費用で購買。
外出先がない日にも、必ず昼食も夕食も御馳走になりました。
それから数年、お金を使う事がなかったので、ある程度のお金が貯まりました。
当時、友人だった朝日新聞記者の高額給与よりも、僕の給与は少ない額でしたが、支出が無い分、僕の方が余裕があったような気もします。
その後、1年間の休職期間を希望取得、英国に渡りました。
その1年後、もう日本には帰国したくないという気持ちになり、退職。
それから2年、約3年間ほど海外でブラブラと遊学。
その生活資金の貯えは、今でも銭洗い弁天とT上司のお陰様だと感謝しています。
余談ですが、日本三大弁財天は、神奈川の江の島、琵琶湖の竹生島、広島の宮島にあります。
いつか、百島も著名な弁財天になりますように❗
因みに何の縁なのか、今暮らす福井の我が家からの東京調布までの距離、広島尾道までの距離、その直線距離は、ほぼ同じ距離となります。
二等辺正三角型の頂点に、福井が位置しています。
東京、福井、広島の三拠点生活が、僕の理想かも?
一期一会・・人生で一度きりの大切な出会い。
再び出会った一期一会倶楽部。
これからの人生、百ほどの大切な思い出があっても善いでしょう、ありますように。
百会倶楽部を立ち上げます。