ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

赤松の城址

2014年08月05日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
今回、百島から帰福の際、途中、兵庫県朝来市に立ち寄って参りました。

天空の城と呼ばれる「竹田城跡」へ。



前々から、百島関連の私的好奇心で行ってみたかったのですが、そうこうしている間、いつのまにか日本の人気スポットになっていました。

兵庫県姫路から、生野銀山を越えて、朝来へと。

平日の雨、ほとんど車ともすれ違いません。



ところが、麓の駐車場の着くと、観光客が大勢いる・・驚きました!



とりあえず、杖を携えて、歩き始めました。

百島が、まだ桃島と呼ばれていた室町時代の嘉吉年間に、この山城は築かれたようです。

当時の瀬戸内海は、来島村上と因島村上が、対立していたはずです。

山頂に続く道を歩きます。



一昨日の百島ライブの活況ぶりを思い出しながら歩いています。

手弁当でのライブ・・これから維持するのに大変かなぁ。

突然、集団で来られた観光客と出くわしました。

これぐらいの人が集まると・・ライブも盛り上がるかなぁ。



何もない山城・・天空の城というネーミングで、これだけの人が来るのか?・・という驚きです。

百島ライブも・・ネーミング次第かな?

歩きながら、考えました。

当時、来島村上は、芸予諸島(愛媛県側)南部を制しており、瀬戸内海を全制覇するには、どうしても芸予諸島の北端にも拠点が欲しかったはずです。

そこで、因島村上を牽制しつつ、姻戚関係、和議を企み、息子たちを送り込んだのが、当時の桃島です。

嘉吉の乱後、赤松一族が、桃島に逃れてきました。

それを庇護したのは、来島村上です。

何故なら、因島村上は、赤松一族と敵対関係にあったはずです。

桃島に赤松一党が棲みつくと、面白くないのは因島村上です。

さて、まもなく頂上の城址跡です。





素晴らしい観光ガイドさんも常駐されています。



眺めが、素晴らしかったです。





来た道と橋も見えます。





赤松一党は、戦国の世の倣い・・来島村上の家臣としては不服でしょう。

新たに、桃島を百島に名を変えて、百島村上としての、今で言う、企画戦略を練ります。

独立した百島村上であれば、赤松一党が支えているという隠れ蓑にもなるからです。



その後、瀬戸内海は、豊臣の世になります。

村上水軍の衰退でもあります。

村上水軍と言えば、脚光を浴びる能島村上の村上武吉・・ぼくの考えでは、来島村上と因島村上に挟まれて、その総大将であるという自負や誇りが、村上水軍全体の行方を危めたのだと思います。

ところで、当時の百島村上も生き残るのに大変だったと思います。

来島村上から、百島村上を独立させ、実効支配したのが赤松一党です。

室町幕府設立に多大な貢献して巨大な守護大名だった赤松一族もバラバラとなり凋落していく一方です。

それでも、村上源氏を流れとする赤松も村上も独自のネットワークを諸国に張り巡らしていたはずです。

豊臣秀吉が、朝鮮出兵の折、百島村上は、第二次朝鮮出兵に際、日本軍総大将の小早川家の十二家臣の一つになっています。

どういう工作をしたのか分かりませんが、何とか生き残っています。

そして、この「天空の城」の最後の城主は、赤松広秀という悲運の武将です。

朝鮮出兵に参加しているのです。

つまり、百島村上と同じく歩調を合わせた動きをしているのです。

その後、関ケ原の戦いは、西軍につきます。

その関ケ原の戦いで、西軍から東軍へと裏切った歴史上有名な大名がいました。

この裏切りがなければ・・西軍が勝利していたかもしれません。

そう、小早川秀秋です。

そして、実は、この赤松広秀も、同じく東軍へと寝返っています。

この竹田城は、生野銀山を傘下に置いていました。

徳川の世になった途端、その後、生野銀山は、徳川幕府直轄の財源となりました。

その後、家康は、赤松広秀には、鳥取大火の「不始末」を理由に切腹を言い渡しています。

・・悲劇の生涯でした。




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