桜田門(高麗門)の石垣。
この門を通る大名を眺め続けて来た歴史証人に感じました。
大気の不安定な状態が少しは緩和されたのか、今日は朝から青空が見えていました。
皇居外苑散策の続きです。
徳川幕府の統治は約264年もつづきましたから、江戸城自体が歴史の舞台と言えます。
江戸城の中でも、私が一番歴史の舞台と感ずるのは、桜田門です。
江戸末期の大老、井伊直弼がこの桜田門の近くで暗殺された事件「桜田門外の変」は必ず日本史の教科書に登場します。
それほど有名な桜田門の実物を今まで見たことがありませんでしたので、皇居正門を見学したあと、桜田門まで足を延ばしてみました。
以下の内容は殆ど受け売りです。
江戸城の殆どの城門は枡形門と言う構造になっています。。
枡形門を上空から見ると、四角の空間となっていて、二つの門を通ってその空間を通過するようになっています。
だから、枡形には必ず二つの門が存在することになりますので、桜田門も二つの門があります。
外側に面した門は高麗門、内側の門は渡櫓門と呼ばれますが、一般的には内側の渡櫓門が立派な作りなので、写真にも紹介されて私たちの城門のイメージを作ったように感じます。
下部一番目の写真が外側の高麗門の様子ですが、天下の江戸城にしてはそんなに大きな門に感じません、門の目的が敵の侵入を防ぐ為なので当たり前と言えば当たり前の作りなのですけどね。
二番目の写真が高麗門を枡形側から眺めた様子です、三番目の写真は高麗門外側から枡形内部を眺めた様子です。
四番目の写真は枡形から渡櫓門を眺めた様子です、この門を通過してかつては西の丸下(現在の皇居外苑)と呼ばれるエリアへ入ることができます。
五番目の写真は、皇居外苑側(江戸城内部側)から渡櫓門を眺めた様子です、この写真が結構はびこっていて桜田門のイメージを作っているのではないでしょうか。
六番目の写真は、高麗門を背にして眺めた様子です。
正面の建物はご存じ警視庁の建物です、刑事小説の世界では桜田門と言えば警視庁のことを表しますね。
実際の桜田門外の変は、画像の右奥側が舞台だそうです。
しかし、江戸城の直ぐ近くでこんな大事件が発生するとは警備上考えられないのですが、当時は大老の行列を襲う等と言うことは想定外だったと書かれた本を読みました。
公儀(幕府)の威光(権力)を持ってすれば、江戸城の近くで大名行列に対して狼藉を働く輩など存在しないと考えていたようです。
大体、大名行列の見学は一種の定番コースになっていたようですから、幕末を除けば本当に平和な時代だったのだと思います。
だから、井伊直弼の暗殺は公儀の威光をさらに失墜させた大事件だったと言えるわけです。
警視庁の建物を眺めながら、東京の治安を守る要である警視庁のお膝元で、こんな歴史上の大事件が発生したのも、何か皮肉めいたものを感じました。
で、皇居正門(西の丸大手門)の件です。
江戸城の門は枡形門が基本となっていますが、石橋の先に見える皇居正門は渡櫓門様式ですよね。
とあるWebで得た情報ですが、江戸時代は枡形門の様式だったのが、明治期になって高麗門を撤去して、渡櫓門を正門にしたのだそうです。
まあ、高麗門よりは渡櫓門の方が押し出しが立派ですから、現在の用途からすればこれで良いのだと思います。
現在の皇居の門は、高麗門を撤去してしまった門がいくつか存在するようです。
桜田門(高麗門)正面。
枡形内部から高麗門を眺める。
高麗門正面から枡形内部を眺める。
枡形内部から渡櫓門を眺める。
押し出しは、渡櫓門の方が立派に見えますね。
渡櫓門を皇居外苑側から眺める。
高麗門を背にした眺め。
正面は、ご存じ警視庁です。
桜田門案内板を撮影してトリミングしました。
門が枡形(四角の空間)になっている様子が良く分かります。
現在位置表示の右側が内側の門にあたる渡櫓門、横向きに描かれているのが外側の門にあたる高麗門です。