■一触即発 / 四人囃子 (東宝)
日本の芸能史において、ロック部門に多大なる功績を築いたのが四人囃子というバンドです。
と、また本日も堅苦しい書き出しになってしまいましたが、やはりサイケおやじとしては四人囃子を語る時、姿勢を正さざるをえません。その存在感は、日本のロックが全く売れるものではなかった昭和40年代中頃からの数年間、まさに圧倒的!
そして昭和49(1974)年に発売された本日ご紹介のデビューアルバムには、そうした真実がしっかりと記録されていますが、内容に触れる前に、サイケおやじが四人囃子に出会った衝撃を書いておきたいと思います。
それは昭和46(1971)年11月の某大学祭で行われたステージでした。
当時のサイケおやじは高校で入れてもらった同好会のバンドでロックな青春時代を謳歌していたのですが、これまでも度々書いてきたように、その頃は歌謡フォークが全盛でしたから、ロック好きな洋楽ファンは大勢存在しながら、エレクトリックなバンドをやっている者なんか、時代遅れという風潮が確かにありましたし、国内のプロのバンドにしても、GSブームが去っていたこともあり、そのほとんどはゴーゴー喫茶のハコバンあたりが主な仕事という有様で、きっちりロックバンドとしてレコードを出していたミュージシャンは数えるほどでした。
で、そんな状況の中でプロの模範(?)演奏に接することは、前述のゴーゴー喫茶あたりへ行くしか無かったわけですが、それは夜の営業でしたし、そういう場所は不良のたまり場という世間の認識がありましたから、いくら同好会のバンドをやっていたからといっても、高校生が簡単に出入りできるはずもありませんでした。
もちろん外タレのコンサートが、今とは比較にならないほど少なかったのは言うまでもありません。
ですから大学祭で主催されるコンサートは、堂々と行けるイベントであって、しかも先輩達からのチケットの斡旋があるのですから、その時は同好会のバンド組全員でウキウキしながら会場へ行きましたですねぇ~♪
ちなみにお目当ては当時、和製ブリティッシュロックのトップバンドだったブルース・クリエイションで、他にも数バンドが出た中に、前座で四人囃子も含まれていたというわけです。
しかしステージに何んとなく(?)登場した四人囃子は、どう見てもアマチュアバンドみたいな佇まいでした。ただし機材は全員が立派な楽器を持っていましたから、演奏がスタートする前に先輩から、「四人囃子は高校生だよ」という情報には???の気分に……。
う~ん、なんでプロのステージに高校生が出られるのか???
ちょいと不条理なものを感じたのが、その時の正直な気持です。
ところが実際に演奏が始まってからは、吃驚仰天の大ショック!!!
まずメンバー4人の出す音が際立ってはっきり聞こえ、なんだかアドリブの集合体みたいな展開は、それでいて纏まりが素晴らしいのです。
当時も今も、この時の四人囃子が何の曲を演じていたのかは不明ながら、それは第一期ディープ・パープルのようでもあり、サンタナのようでもあり、またクリームだったかもしれませんが、良く言われるようにピンク・フロイドだったような気もします。
そして、とても高校生とは思えない演奏の習熟度には、そんなに年下でもなかったサイケおやじがペチャンコにされるほどの威圧感があり、とても勝てないなぁ……、と心底思うばかりでした。
ちなみに当時のステージライプは、所謂ころがしのモニターは無くて、ボーカルアンプぐらいしか頼りにならない状況の中で、これほどきっちり纏まりをつけた演奏が出来るという実力は、大袈裟ではなく驚異!!!
そのショックがあまりにも大きくて、お目当てだったブルース・クリエイションが何を演じていたのか、コンサートが終わった後でも全く印象に残らなかったほどです。
以上、これがサイケおやじの四人囃子初体験談なんですが、この時のメンバーは森園勝敏(g,vo)、坂下秀美(key)、中村真一(b)、岡井大二(ds) というオリジナルの4人でした。そして後に知ったところでは、この時の彼等は既に高校卒業後はプロになる事を決意し、きっちり楽器も揃え、しかもその支払いのためにゴーゴー喫茶や各地のイベントに出演することで稼いでいたというのですから、実力があった事は言わずもがな、流石に頭が下がります。
というか、ほとんど生活していけない日本のロックに就職するという、その心意気も凄いところ!!!
そして案の定というか、四人囃子のレコードデビューは、なかなか実現しませんでした。しかし本格的なプロ活動に入った翌年からは、様々なライプの現場で高評価を得ていたようですし、サイケおやじが次に接したライプの昭和48(1973)年7月には、日本語歌詞のロックオリジナルを演じていましたですねぇ~♪ しかもそこからは、ピンク・フロイドやディープ・パープルの影響をモロに滲ませつつも、日本的な哀愁やジャズフィーリングが濃厚という、なかなか別次元のサウンドが提供されていたのです。
さて、そこでようやくご紹介のデビューアルバムですが、今では良く知られているように、これは決して四人囃子のファーストレコーディングではありません。
実は我国の業界各社では、ライプ活動の評判から四人囃子の契約を求めて争奪戦があったとされ、またバンド側も納得する制作環境を必要としていた事から、既にデモ録音や映画のサントラ音源制作等々が、デビューアルバムのセッション前に行われていたのです。
このあたりは、ちょいと考えるとマイナス要因かと思われがちですが、実は英米に負けない本格的なロックサウンドを作り出すスタジオ技術を煮詰める上では、結果オーライ!
そして前述のサントラ音源制作の条件をクリアした四人囃子が、晴れて世に問うたのが、この「一触即発」と題された名盤でした。
A-1 hamabeΘ / ハマベス
A-2 空と雲
A-3 おまつり
B-1 一触即発
B-2 ピンポン玉の嘆き
まず驚くのがジャケットのシュールな感性で、パイプを咥えた猿と亀と象!?
しかも造りそのものが完全に輸入盤を意識したもので、アルバムタイトルや曲目、スタッフクレジット等々は全て英語で書かれ、加えて曲名も初っ端の「ハマベス」が英語の発音記号になっていた中で、唯一漢字によるバンド名が四人囃子!
おまけにレコード盤そのものが、紙製の内袋に入れられていたという凝りようは、尋常ではありません。
さらに刻まれた音そのものが、当時の日本プレスのレコード中では、かなり音圧が高かったように思います。
そして演じられている各曲の完成度の高さは圧巻!
まず冒頭の「ハマベス」は擬音中心の前衛的な短い露払いという感じですが、続く「空と雲」がマイナーコードを用いつつも、実にジャジーな和製ロックの決定版! ヘヴィなビートが意外とソウルっぽいところもニクイばかりですが、当時の四人囃子と組んでいた専属作詞家の末松康生が書いた日本語詩が、はっぴいえんどっぽくもあり、また妙な郷愁を誘うという味わい深さです。しかもメロウグルーヴと言って過言ではないエレピのアドリブや細かい作業を丁寧に演じたギターも凄いですよ♪♪~♪
そして「おまつり」は、今や日本語のロックでは伝説的な定番となった名曲名演!
ミディアムでクールなビートを土台にしているところは、ピンク・フロイドを否定しようもありませんが、中間部で第一期ディープ・パープルに転進するところは痛快無比で、おそらくは緻密なテープ編集やダビングを繰り返して作り上げられたトラックなんでしょうが、全体のグルーヴは些かも疎かにされていません。
ニューソウルっぽく蠢くベース、全体を俯瞰しながら叩いているようなドラムスの緻密なビート、ジャジーなキーボードに夢見るような鋭いギター、さらに妙に人懐こいボーカル♪♪~♪ 覚え易い曲メロも感度良好だと思います。
とにかくこれは、もう、聴いていただく他はないわけですが、千変万化に躍動する歌と演奏はライプでも絶対的な威力を発揮していましたですねぇ~♪ これを当時、二十歳前後のメンバーがやっていたという事実だけでも、圧倒されるんじゃないでしょうか。
ちなみに曲には「やっぱりおまつりのある街へ行ったら泣いてしまった」というサブタイトルがあって、これも末松康生が特有の文学的香りが漂う歌詞と相まって、実に忘れ難い印象を残します。
そしてレコードをひっくり返せば、今度はアルバムタイトル曲の「一触即発」が危険きわまりない姿勢で登場するのですが、実はサイケおやじの鬱陶しい文章とは逆の、実に分かり易い演奏が秀逸! それはスバリ、第一期ディープ・パープルがモロのハードロックから「狂気」以前のピンク・フロイドの良いとこ取りという感じなんですが、ここでも末松康生のシュールな日本語詩が強いインスピレーションを呼び覚ましますから、たまりません。
特にギターとオルガン、そしてロックビートの熱い盛り上がりは、ちょいとニール・ヤングのエレクトリックセットさえ想起させられるほどですし、また同時に後にフュージョン路線の萌芽が確実に存在していることに仰天させられますよ。
おまけに終盤ではオールマンズがキングクリムゾンしてしまったかのような、重傷プログレ症候群ですから、これ以上ないほどの興奮を覚えてしまうのですが、オーラスのパートで突如として鳴り響くピンポン玉の効果音が、そのまんま次曲の「ピンポン玉の嘆き」へと繋がる展開も流石に用意周到です。
で、この「ピンポン玉の嘆き」は、ゆったりとした変拍子のインスト曲ではありますが、その呪術性はロックそのもので、これをピンク・フロイドの亜流と決めつける事は簡単だと思いますが、しかしリアルタイムでここまでやれた日本のロックバンドは皆無だったはずです。
ということで、何度も書いてしまいましたが、これは日本のロックに一石を投じた名盤だと思います。
まず何よりも日本語で歌われていながら、歌謡フォーク味が無く、それでいて歌謡曲っぽいメロディも隠し味的に使われ、さらに全体の音がブリティッシュロックの基本構造に依存するという方向性は、メンバー各人の凄いテクニックと広範な音楽性に支えられていることが明らかでした。
今となっては四人囃子のフロントマンか森園勝敏だったことから、どうしてもリーダーだったと誤解されがちですが、実はメンバー相互の力関係は均等だったことが、このアルバムを聴くほどに痛感されます。
またレコーディングの緻密さも全く同様で、随所に使われるエコーやディレイの使い方の上手さ、またテープ編集の細かい芸は当時の最先端を行くものだったと思います。
そのあたりは、例えば後年に発売された昭和48(1973)年のライプ音源を纏めた「'73 四人囃子」あたりを聴けば納得されるはずで、ここに提示されたスタジオでの詐術も含めて、それをステージの生演奏で立派に再現出来ているバンドの実力には、ひれ伏すばかりでしょう。
いや、本当はライプの現場で練り上げられた歌と演奏が、このスタジオレコーディングで完成されたと言うべきかもしれません。
ただ、それゆえに現在の耳では録音が綺麗すぎるような気も致しますが、リアルタイムでここまでロックしていた日本のレコードは無かったわけですし、失礼ながら、これ以前に日本語のロックとして売っていたキャロルやミカバンドあたりの作品群と比べても、大衆性は劣るかもしれませんが、その本質は明らかに四人囃子の方が核心に迫っていたように思います。
ただし四人囃子は所謂プログレなので、R&R性感度の高さでは前述のバンドに加えて頭脳警察あたりも、決して侮れないでしょう。
つまり当時は、まだまだ日本のロックはGSブームの盛況には遠く及ばず、それでもジワジワと勢力を強めていたという面白い時期でした。
それが昭和49(1974)年の実相であり、その年には外道やサンハウス等々が表だった注目を集めたことからしても、この四人囃子のデビューアルバムは出色!
個人的には決して忘れられない1枚です。