OLD WAVE

サイケおやじの生活と音楽

ワイルド・ワンズもロックだぜっ!

2011-06-19 15:29:23 | 日本のロック

青空のある限り / ザ・ワイルド・ワンズ (東芝)

先週から引き続き、また今週も仕事が縺れること必定という確信しか無いサイケおやじが、ついつい何時もの如く口ずさんでしまったのは本日ご紹介のシングル曲です。

 本当さ、誰のせいじゃない

 わっかてる あいつのせいじゃない

 だけどもこの胸が重いだけ

 わかってる あいつのせいじゃない

とにかく今の状況と心境にジャストミートの歌詞がリアルなんですよ……。

まあ、ここを訪れて下さる皆様には説明不要とは思いますが、歌っているワイルド・ワンズはGSブーム期の人気バンドで、しかもありがちな不良性とは一線を画するスマートなイメージは、現在も継続中の活動からも充分に納得されると思います。

つまり当時も今も、所謂ロックというよりもフォークロックや歌謡フォークに近い音楽性を前面に出していたわけですが、しかし通算4作目として昭和42(1967)年秋に大ヒットさせた「青空のある限り」は、例外的にハードな切迫感が大きな魅力♪♪~♪

それはなんと言っても、エレキギターによるリードもリズムも、とにかくファズを使いまくったジージージリジリのサウンドが強烈で、特に間奏のソロパートではファズ+低音弦奏法が冴えまくりの名演になっています。

ちなみに当時のワイルド・ワンズは加瀬邦彦(g.vo)、鳥塚繁樹(g,vo)、島英二(g,vo)、植田芳暁(ds,vo) という4人組でしたが、この曲はリードボーカルがドラムスを敲きながら歌うという植田芳暁の十八番芸に加え、合の手のキメフレーズを弾く加瀬邦彦が、その時にギターを垂直に構えるというアクションも最高でしたよねぇ~~♪

ですから安井かずみの書いた歌詞の不条理感が、このバンドにはあまり合っていないという先入観をブッ飛ばす勢いで演じられたのも、例によって加瀬邦彦が作るキャッチーなメロディがあればこそでしょう。

 青空のある限り~~~♪

という些か楽天的な解決策は、今のサイケおやじには持てるはずもないんですが、何故かこの歌と演奏には勇気づけられるのでした。

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ペトゥラ・クラークも素敵なおねえさま♪

2011-06-18 16:14:54 | Pops

My Love / Petula Clarl (Warner Bros. / Vogue)

綺麗なおねえさまが大好きな少年だったサイケおやじが、当然のようにシビレたのがぺトゥラ・クラークでした。

それは昭和41(1966)年、テレビで唯一度だけ接したミニスカ姿で歌う彼女にグッと惹きつけられたのが最初であり、そういえばラジオで聴いたことがあった「恋のダウンタウン Down Town」や本日ご紹介の「My Love」は、この人が歌っていたのかっ! という、せつなくも甘酸っぱい思い出が、今も鮮烈に蘇ってくるほどです。

実はぺトゥラ・クラークは戦前から子役で人気があったイギリスの女優さんであり、サイケおやじが好きになった時の彼女は、33歳という所謂熟女でありましたが、そのグルーヴィといって過言ではない素晴らしい歌唱力と正統派の声質、さらには強靭なリズム感を兼ね備え、アメリカでも大ヒット曲を多数出していた天才芸能人であり、また、それ以前はフランスを拠点として歌手に専念していた時期もあったのです。

しかし、そうした履歴は例によって後に知ったことであり、情報が不足していた昭和40年代の我国においては、レコードこそが洋楽に接する一番の手段でありました。

で、本日ご紹介のシングル曲は、ペトゥラ・クラークが1966年に放った大ヒット♪♪~♪ とにかくキュートでグルーヴィな最高のダンスポップスとして、永遠に不滅の名曲名唱だと思います。

ちなみに作曲とプロデュースはイギリスの名匠として万人に認められているトニー・ハッチということで、その方面からも有名なレコードでしょうが、なんと曲が書かれたのはペトゥラ・クラークとトニー・ハッチが1965年末に渡米する飛行機の中であり、そのまま速攻でアメリカ録音されたという逸話も有名なところでしょう。

まあ、それだけふたりがノッていた時期だったという証でもありましょうが、当時の彼女は歌ばかりではなく、本職の女優業でも名演を披露していて、特にハリウッドで作られた1968年のミュージカル「フィニアンの虹」は素晴らし過ぎますよねぇ~~♪ そして翌年の「チップス先生さようなら」での味のある存在感も忘れられません。当然ながら、サイケおやじも彼女が目当てで鑑賞したわけです。

ということで、近年はすっかり忘れられたようなペトゥラ・クラークではありますが、機会があれば、ぜひともお楽しみいただきたい素敵な女優&歌手ですよ。

こういう人が活躍していたからこそ、1960年代は面白かったのかもしれませんね。本当にそう思います。

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ゲイリー・ルイスの完璧な輝き

2011-06-17 14:59:14 | Pops

恋のダイアモンド・リング / Gary Lewis & The Playboys (Liberty / 東芝)

「親の七光り」と言えば、1960年代のハリウッドポップスを代表するひとりだったゲイリー・ルイスも避けて通れないでしょう。

もちろん本人の音楽への意欲を一概には否定出来ませんが、しかしやっぱりアメリカの人気喜劇役者だったジェリー・ルイスの息子という恵まれた環境無くしては、デビューからの爆発的なブレイクは望めなかったと思います。

つまりゲイリー・ルイスが仲間を集めてバンド活動をやっていたことは広く一般的な楽しみのひとつだったとしても、本格的にメジャーなレコード会社から売れて当然の素敵な楽曲でデビュー出来るということは、余程の幸運がなければ不可能ですし、そこに父親のコネがあった事は隠し様もありません。

まあ、そのあたりは本人も周囲も充分にわかっていたことですから、あえてツッコミを入れるのは無粋でしょうし、そういうものを活かせたのはゲイリー・ルイスには芸能人としての才能が確かにあったということです。

で、本日ご紹介のシングル曲「恋のダイアモンド・リング / This Diamond Ring」は、1965年初頭から春にかけて、アメリカのヒットチャートではトップに輝くデビュー大ヒット♪♪~♪ しかも作者のひとりとして名前を連ねているのが、なんとっ! アル・クーパーなんですねぇ~~♪

実はゲイリー・ルイスのリアルタイムでのヒット曲は、当然ながら我国のラジオを中心とした洋楽番組でも流れていたんですが、その頃のサイケおやじにはベンチャーズやビートルズ、アニマルズやザ・バーズ等々、とにかく聴きたい演奏や歌が山の様にありましたから、この「恋のダイアモンド・リング」には、それほど夢中になった記憶がありません。

というか、ゲイリー・ルイスがその頃に残した数々のヒット曲の本当の素晴らしさにハッとさせられたのは完全な後追いで、ご推察のように、それはアメリカの音楽産業の仕組み、さらにはその面白さや奥深さに興味を抱いたからに他なりません。

あらためて述べるまでもなく、特にアメリカの音楽芸能には媒介となるレコード制作において、職業作家とスタジオ作業に確固としたシステムが存在しており、その裏方から楽しむというマニアックな方法論も、凝り性なサイケおやじには合っていたのです。

そして十代の後半には既に信者(?)になっていたアル・クーパーという人の履歴の中に、ゲイリー・ルイスの「恋のダイアモンド・リング」を書いていた過去を知った時、またジワジワとブームになっていたスワンプロックの中心人物たるレオン・ラッセルが、そのブレーンとして暗躍していた事が披歴されこともあって、まさに意気込んで中古盤ながらゲットしたのが、本日の1枚というわけですが、いゃ~、流石に良く仕上がった名作だと思います。

特に重低音を活かしたカラオケパートの音作りとキャッチーなアレンジの妙は絶品で、流石はレオン・ラッセル(g,key,arr,per)、ジョー・オズボーン(b)、ハル・ブレイン(ds) 等々の一流セッションミュージシャンが関わった事実が納得されますよ♪♪~♪

ちなみに楽曲そのものは最初、同じレコード会社に所属していたボビー・ヴィーが歌うはずだったそうですが、プロデューサーのスナッフ・ギャレットの意向でゲイリー・ルイスに回されたという経緯も!?

と言うよりも、既に述べたように子役としては知られていたゲイリー・ルイスが、新たに音楽の道へと進むにあたっては、当然ながら父親のジェリー・ルイスが相当な援助をしていたわけですから、第一線のスタッフが良い仕事をやったのも当たり前かもしれません。

またゲイリー・ルイスはドラムスを担当しながらリードボーカルも演じていた事になっていますが、一応はバンド形態として存在するプレイボーイズのメンバーは必ずしも固定していなかったと言われています。

ですからレコードジャケットや洋楽雑誌等々で見る彼等の写真には、エレクトリックアコーディオンを担当するジョン・ウェストがバンド創設期からのレギュラーだった以外にデイヴ・ウォーカー(g)、トム・トリプルホーン(g)、カール・レイドル(b)、ジム・ケルトナー(ds) 等々の優れたミュージシャンが去来していた現実も残っているようです。

このあたりは完璧なプロジェクトとして成立するスタジオで作られたヒットレコードが巡業ステージの現場でも、ある程度は再現される必要があったからでしょう。ただし残念ながらサイケおやじは全盛期のゲイリー・ルイスのライプには接したことがありませんから、あくまでも妄想の範疇なのが悔しいところ……。

う~ん、タイムマシーンがあったらねぇ~~~♪

ということで、本日もまた「親の七光り」は侮れないというのが結論です。

しかしゲイリー・ルイス本人は人気絶頂だった1966年末、徴兵されて芸能活動は休止せざるを得なくなり……。

後のインタビューによると、どうやら韓国や日本にも駐留していたそうですが、それはそれとして、デビュー当時のアメリカはビートルズを筆頭にした英国のビートポップスバンドやモータウン系の黒人R&B勢、そしてビーチボーイズやバーズ等々の西海岸派が日替わりでヒット曲を放っていた華々しい時期でしたから、どんなに素晴らしいレコードを出し続けていても、絶対にそれで良しとする風潮ではなかったでしょう。

つまりマンネリと進化のバランスに秀でたものだけが、後々まで生き残れた事は明白であり、その意味でゲイリー・ルイスがデビューから実質2年間ほどに歌っていた楽曲には永遠の輝きがあると思います。

それこそ、まさに「親」ならぬ「ダイアモンド」の光ってやつかもしれませんね。

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今日は凹みモード……

2011-06-16 14:15:14 | Weblog

緊急出張のため、例の如く本日の休載、ご容赦願います。

おまけにPC絶不調……。

その他、諸々が重なって、ちょいと凹んでいます。

なにか明るいものが欲しいですね……。

ボヤキ、失礼致しました。

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ナンシーおねえさまが好き♪

2011-06-15 15:21:34 | Pops

This Little Bird / Nacy Sinatora (Reprise / 日本ビクター)

今でもナンシー・シナトラが好きだなんて言うと、一部からは失笑されると思いますが、これが昭和50年代前半には顰蹙寸前にまで到達していたのですから、いやはやなんとも……。

もちろんそこにはナンシー・シナトラがフランク・シナトラの愛娘という、つまりは「親の七光り」云々という、羨望の裏返しが強くあったわけですが、だからと言って彼女が凡庸な芸能人だったはずはありません。

とにかく男好きのするルックスとバツイチ美女だけが醸し出すようなフェロモンのヤバさは、幾分低い声質で歌ってくれる楽曲にジャストミート♪♪~♪

中でも1968年末に出た本日ご紹介のシングル曲「リトル・バード / This Little Bird」は、そこはかとない哀しみやアンニュイなムードが見事な1960年代ポップスに昇華された傑作だと思います。

実はご存じのとおり、この曲はマリアンヌ・フェイスフルが既に1965年にヒットさせた「かわいい小鳥」のカパーであって、如何にも清楚で一抹のせつない気分を表出させた仕上がりは世界中のポップスファンから愛されて当然の仕上がりなんですが、サイケおやじにとっては、このナンシー・シナトラのバージョンを聴いて以降、なにか物足りないものを感じるのです。

まあ、このあたりは少年時代から所謂「お姉さん系」が好きだった個人的嗜好の表れでもあるんでしょうが、それを自ら吐露してしまってはミもフタもありませんよねぇ……。

ちなみに楽曲そのものは、ジョン・ラウダーミルクというアメリカの職業作家が書いたもので、この人は1950年代から活躍していたプロの中のプロ! しかも自ら歌ったレコードも多数残しているという元祖シンガーソングライターのひとりでもあるんですが、驚くなかれ、オールマン・ジョイスと名乗っていた頃のオールマン・ブラザーズ・バンドの実質的なデビューシングル盤をプロデュースし、しかも「You Deserve Each Other」というブルースロックの隠れ名曲も提供しているんですから!?!

閑話休題。

ということで、どんな歌にも人生の経験や歳月の重みがあって当然ですし、それを歌っていく人それぞれにも、同様の事情があるわけです。

そこでナンシー・シナトラの持ち味は、「濃厚」というフィーリングが隠しようもないと思いますねぇ~~♪

それゆえに好き嫌いが尚更はっきりしてしまうわけですが、サイケおやじにとっては、何時になっても好きな人♪♪~♪

そんな愛の告白を、本日もご容赦下さいませ。

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ジェームス・ウィリアム・ガルシオとバッキンガムズ

2011-06-14 16:22:48 | Rock

Mercy Mercy Mercy / The Buckinghums (Columbia / 日本コロムピア)

サイケおやじが音楽プロデューサーという職種に興味を抱いたのは、フィル・スペクターやジョージ・マーティン、あるいはクインシー・ジョーンズ等々の偉人達にでは決して無く、あのブラスロックの王者としてデビューから忽ちブレイクしたシカゴを成功に導いたジェームス・ウィリアム・ガルシオが、その最初でした。

何故ならば、業界におけるブロデューサーという立場は、あくまでも裏方であったのが当時までの常識であり、現代のように、その存在に着目して音楽を聴くなんていうのは、本当のマニアがやることだったのです。

ところがちょうどシカゴが人気を集める過程において、どういうわけか前述のジェームス・ウィリアム・ガルシオという名前がバンドメンバーと同じ比重で洋楽マスコミに登場するようになったのは、シカゴという7人組の中に決定的な個人としてのスタアが不在だった所為なのでしょうか。

まあ、それはそれとして、とにかくジェームス・ウィリアム・ガルシオはシカゴというグループと共に絶大な存在感を示していたことに違いはなく、ついには自分のスタジオとプロダクションを持ち、さらに積極的な活動を繰り広げたのが1970年代の洋楽界でありました。

そして必然的に語られ始めたのが、この実力者の過去であり、そこに興味を覚えたサイケおやじもあれこれ調べてみると、なんとっ!? 既に自分が好きだったミュージシャンや楽曲に大きく関わっていたことが明らかになったのですから、これこそまさに温故知新!

例えば本日ご紹介のバッキンガムズは1960年代中頃にパッと活躍し、すぐに消えてしまったバンドなんですが、その「パッとした時期」を導いていたのがジェームス・ウィリアム・ガルシオでした。

しかも今日良く知られているように、バッキンガムズはブラスロックの先駆的グループとしての扱いになっているのも、実はシカゴを大ブレイクさせたジェームス・ウィリアム・ガルシオが狙っていた目論見のひとつという定説があるんですから、これは侮れません。

ただしバッキンガムズは最初からブラスロックをやっていたわけではなく、1965年の公式デビュー当時はイギリスのビートグループから影響を受けながら、如何にもアメリカ的な白人R&Bを演じるガレージバンドのひとつだったと言っても間違いではないでしょう。

それが何時しかジェームス・ウィリアム・ガルシオとの繋がりから、次第に洗練されたソフトロック的なアプローチも魅力のグループに進化し、全盛期のメンバーはデニス・テュファノ(vo,g)、カール・ギャマレス(g)、ニッキー・フォーチュン(b)、ジョン・パウロス(ds)、マーティン・グレッブ(key,sax,vo,etc.) という5人組になったところで放たれのが、全米チャートのトップに輝く名曲「Kind Of A Drag」でした。

う~ん、これは何度聴いても素敵なポップスの極みつきで、サイケおやじもリアルタイムのラジオで聴いた瞬間、一発で虜にさせられた記憶は今も鮮明なんですが、このソフトで洗練されたホーンアレンジがジェームス・ウィリアム・ガルシオによるものとされながら、何故かプロデュースは本人名義ではありません。

このあたりの経緯については諸説あるんですが、問題のジェームス・ウィリアム・ガルシオという人物は既に十代中頃にはギターやベースでスタジオセッションをやっていた天才プレイヤーであり、また大学では作曲や管弦楽を学び、さらにモータウン系の黒人R&Bスタアの巡業バンドにも参加していたという履歴が、ここまであったようです。

そして同時期に、イギリスのフォークロックデュオとしてアメリカでの人気も高かったチャド&ジェレミーのマネージメントや楽曲プロデュースをやっていた実績は、これまたなかなか凄いものです。

なにしろその頃のジェームス・ウィリアム・ガルシオは20歳そこそこだったんですからねぇ~~~!

ちなみに書き遅れましたが、ジェームス・ウィリアム・ガルシオもバッキンガムズも、またシカゴも当然ながら、イリノイ州シカゴの出身でありますが、ここにもうひとつ、同地出身のバンドにザ・モブというローカルのハコバン系ポップスグループがあって、そのメンバーだったジム・ホルヴェイの書いた「Kind Of A Drag」をバッキンガムズに手配したのはジェームス・ウィリアム・ガルシオだったという説もあるようです。

まあ、このあたりの錯綜する人脈と業界絵図は別の機会に再び書きたいと思いますが、とにかく「Kind Of A Drag」で人気を得たバッキンガムズが勢いに乗って出したアルバム「タイム&チャージス」は、ジェームス・ウィリアム・ガルシオの全面的なプロデュースと作編曲が冴えまくりの名盤で、特に斬新で肉厚なホーンセクションの使い方は後のシカゴの音楽性と共通する部分が相当に感じられますよ。

で、本日掲載のシングル「Mercy Mercy Mercy」も、そのアルバムに収録された中の1曲なんですが、これは説明不要、キャノンボール・アダレイの代表的演目のひとつとして、誰もが一度は聴いたはずのゴスペル系ロックジャズの大名曲♪♪~♪

それを作者のジョー・ザビヌルが演出したアレンジやエレピの使い方を大切にしつつ、強引に歌詞を付けてカパーしたのが、このバッキンガムズのバージョンというわけです。

しかし実は告白すると、サイケおやじはこのシングル盤を中古でゲットした昭和45(1970)年当時、決してバッキンガムズとジェームス・ウィリアム・ガルシオ、そしてシカゴの関係を知っていたわけでは無く、ただ叔父さんから聴かせてもらったキャノンボール・アダレイの演奏が好きだったんで、そのボーカルバージョンも気に入ったというノリにすぎません。

そしてさらに驚かされたのが、リアルタイムでシカゴ以前に人気が出たブラスロックのブラッド・スウェット&ティアーズ=BS&Tが、アル・クーパーの身勝手から再編成された後に作るセカンドアルバムのプロデュースをジェームス・ウィリアム・ガルシオが担当したという事実!

それが1968年の事で、実はこの時、ジェームス・ウィリアム・ガルシオはバッキンガムズと喧嘩同然に別れ、後にシカゴとなるバンドメンバー達と新しい方向性を模索していた頃だったんですが、同じブラスロックというジャンルでライバル関係を築くふたつの人気バンドを両方とも成功させてしまった才能は恐るべし!

このあたりも何時かは、しっかりと書いてみたいと思いますが、その基礎となったのがバッキンガムズでのブラスアレンジと作編曲だったことは明白でしょう。

ただし、それにはバッキンガムズのメンバーがスタジオレコーディングで演奏することはほとんど無かったという真相(?)や、そうしたスタジオセッションプレイヤーの多用によるレコード制作のあれこれから、ジェームス・ウィリアム・ガルシオとバッキンガムズは前述したように袂を分かったのが定説とされています。

もちろんバッキンガムズには失礼ながら、ジェームス・ウィリアム・ガルシオが要求するほどの演奏能力も無かったのでしょう。

ですからレコード会社の要請でシカゴ以前にBS&Tのプロデュースを担当した時には、素晴らしい実力者揃いのメンバーに思うがままのアイディアを実証させた結果として完成された再出発のアルバムが大ベストセラーとなり、続けてシカゴのデビューが成功した事は、悲喜こもごもだったように思います。

その意味で、この「Mercy Mercy Mercy」をやっていた時期のバッキンガムズの音源が、それらと同等の素晴らしさで楽しめるのは、後追いであればあるほどに有難い事です。

機会があれば、このシングルと共にアルバム「タイム&チャージス」もお楽しみ下さいませ。

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あれから45年目のR&Rミュ~ジック

2011-06-13 15:25:33 | Beatles

来日45周年記念7吋「Rock And Roll Music / Every Little Thing」
                                                                           
/ The Beatles (EMIジャパン)

う~ん、あれから45年ですかぁ……。

全く、光陰矢の如し!

これじゃ自分も老いるわけだと自嘲するばかりですが、しかし記念のアナログ盤シングルが出るとあっては、黙殺するわけにはいきません。

尤もレコード本体は往年のカップリングを踏襲したものですし、ジャケットだってお世辞にもセンスが良い再発とは言えませんが、でもねぇ~~♪

なにしろ日本オンリーの発売で、しかも「45th Anniversary of the Japan Tour」という眩しい文字がジャケットに入るんですから、マニア&ファン泣かせの仕様がニクイばかりでしょう。

ちなみに気になるのは、今回の音源マスターがどのように用いられているかという部分にもありまして、今や世界共通のデジタルマスターから作られたカッティングスタンパーであれば、当然ながらリアルタイムの「東芝オデオン盤」とは音が違っているはずです。

もちろんモノラルか? あるいはステレオか?

というミックスの違い、さらにはレーベルデザインも大いに気なるところ!

ちなみに発売日がビートルズ日本上陸の6月29日というのも、歴史を大切にした企画ではありますが、ど~せなら、来日公演でも貴重な演奏が嬉しかった「恋をするなら / If I Needed Someone」と「Baby's In Black」のカップリング盤も出してくれませんかねぇ~~。もし、そうなったら、それこそ「事件」だと思いますよ。

また来日公演はテレビで放送され、以前は公式ビデオも発売されていたわけですから、現在は例のアンソロジーで一部だけ鑑賞出来るなんてケチなことは打ち切りにして、堂々とオフィシャルドキュメント版を出して欲しいもんですねぇ。

まあ、今ではブートの定番商品になっているほどですから、それほどの希少価値も無いわけですが、このあたりは「50周年記念」のお楽しみでしょうか。

ということで、結局は予約してしまったですよ。

なにしろ限定発売ですから!?!?

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ジミヘン未完の美学

2011-06-12 16:49:57 | Jimi Hendrix

The Cry Of Love / Jimi Hendrix (Track / Reprise)

1971年春、つまりジミヘンが天国へ旅立って後、最初に発売された公式アルバムではありますが、もちろん死んだ者は何も語れませんから、本人の意向にどこまで忠実な作品であったかは知る由もありません。

しかし今日、良く知られているように、当時のジミヘンは過密な巡業スケジュールの中にあっても、スタジオでのレコーディング作業は前向きに継続中ということで、未完成な素材も含めての音源は相当に残されていたわけですし、それを関係者各々の思惑が優先して仕上げられた1枚と言ってはバチアタリでしょう。

それは何よりも、このLPが世に出た時のファンの反応が全てであって、結局は良くも悪くもジミヘンの凄さが痛感されるのです。

 A-1 Freedom (1970年6月25日録音)
 A-2 Drifting (1970年6月25日録音)
 A-3 Ezy Ryder (1969年12月19日録音)
 A-4 Night Brid Flying (1968年10月~1970年8月録音)
 A-5 My Friend (1968年3月13日録音)
 B-1 Straight Ahead (1970年6月17日録音)
 B-2 Astro Man (1970年6~8録音)
 B-3 Angel (1967年10月、1970年7月23日録音)
 B-4 In From The Storm (1970年7月22日録音)
 B-5 Belly Button Window (1970年8月22~24日録音)

上記の収録演目には後年リサーチ公表されたデータを付しておきましたが、それはあくまでもベーシックなものでしょうし、様々なダビングや編集等々の作業には前後数日間が要されたと思います。また当然ながら、このアルバムを纏め上げる中で、同様の作業があった事は言わずもがなでしょう。

ですから様々な試行錯誤や未完成故の纏まりの悪さは否めませんが、しかし野性的でしなやかに躍動するギターやディランに影響を受けたと思しき独得の歌いっぷりは健在ですし、なによりも未だに着地点の見えない無限大の可能性は非常に魅力的ですよ。

それはリアルタイムで聴いた時から今も変わらぬサイケおやじの個人的な感想ではありますが、とても未完成作品とは思えぬ濃密な世界が確かに存在しています。

なにしろ冒頭、正調ジミヘン節の力強さがたまらない「Freedom」から一転、カーティス・メイフィールド風のニューソウルパラード「Drifting」へと続く流れが、もうクセになるほどツボですよ♪♪~♪ いずれも複雑多岐なギターのオーバーダビングや参加ミュージシャンの的確なサポートがキーポイントでしょう。

その意味でファンキーロックな「Ezy Ryder」が孤独(?)なギターバトルであったり、妙に明るい「Night Brid Flying」がフュージョンの元祖的な味わいだったりするのは不思議でも何でもなく、如何にジミヘンがギターミュージックに長けていたかの証明じゃないでしょうか? 特に後者の緻密な作りには何度聴いても圧倒されてしまいます。

またリラックスしたブルースセッションの「My Friend」にしても、実はかなり意図的に作り上げられたような感じが賛否両論だとは思いますが、これはジミヘン本人が企図したものとは言えない気がします……。

しかし、そうした「わざとらしさ」も芸の内というか、B面では再び安心感の強いジミヘン節の「Straight Ahead」、急きたてられるようなギターの至芸が強烈な「Astro Man」、さらに今もって大人気のスローバラード「Angel」という美しき流れが、これまた大いに魅力♪♪~♪

そしてニューソウルとハードロックの幸せな結婚とも言うべき「In From The Storm」が幾分怖い雰囲気であったとしても、またオーラスの「Belly Button Window」は弾き語りのデモ録音がモロ出しであろうとも、アルバム全体の価値が下がるなんてことは絶対にありません。

ちなみにセッションに参加したミュージシャンはビリー・コックス(b)、ミッチ・ミッチェル(ds)、バディ・マイルス(ds) というお馴染みの面々の他、スティーヴン・スティル(p)、ユマ・サルタン(per)、ジミー・メイブス(ds) 等々の名前が散見されるのも興味深いところでしょう。

実は現代の一般常識として、当時のジミヘンはこのあたりの録音を完成させ、「ファースト・レイズ・オブ・ザ・ニュー・ライジング・サン」と名付けられた2枚組LPを作ろうと奮闘していた最中、突然の悲報……。その結果として急遽発売されたのが、このアルバムという経緯がありますし、なによりも件の新作がどうやって調べられたのか、ジミヘンの企画意図に極力近いというウリにより、同じタイトルのCDアルバムになっているとあっては、これまで聴いていたのは、いったい何!?

そんな無駄骨折りを体感させれる虚脱感も否定出来ません。

もちろんサイケおやじは、その新しいCDもゲットして聴きまくっておりますが、当然ながら曲順もこのアルバムとは違いますから、個人的にはプログラムしなおして楽しむのが常道になっているのですが……。

ということで、時空を超えて凄いのがジミヘンの世界!

さあ、もう1回、聴こう!

当然それはアナログ盤LPで、AB面をひっくり返す儀式が必須というわけです。

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流石は浅丘ルリ子

2011-06-11 16:51:45 | 歌謡曲

水色の季節 c/w 女がひとり / 浅丘ルリ子 (テイチク)

久々の休日を利用して自室の片づけをやっていたら、収拾がつかなくなりました……。

レコードや本、もはや過去の遺物に成り下がっているビデオテープ、CDやDVD等々の他に雑多なあれこがゴタゴタと広げられ、これが今まで、それなりに収納されていたとは思えない惨状なんですよ。

まあ、言い訳ではありますが、以前はなんとなくきっちりと整理していたサイケおやじも、最近は買うスピードに鑑賞&読書が追いつかない状況では、家族からの冷たい視線も覚悟の末路というわけです。

しかし、そんな苦労はご推察のとおり、嬉しい悲鳴というわけで、ごちゃごちゃした中からすっかり忘れていたブツを発見する楽しみがたまりません。

本日ご紹介のシングル盤も、そうした中から掘り出した(?)1枚で、歌っているのは説明不要の浅丘ルリ子が昭和43(1968)年に出した素敵な名作♪♪~♪

残念ながらヒットしていませんが、まずA面の「水色の季節」は作詞:安井かずみ、作編曲:三木たかし! というだけで昭和歌謡曲のファンは胸がときめくでしょう。

そして実際、哀愁の曲メロを活かしきったバロック演歌調のアレンジは秀逸ですし、虚無と情熱が交錯する歌詞を幾分アンニュイなムードを強めて歌う浅丘ルリ子の節回しには、聴く度にグッと惹きつけられると思います。

一方、B面の「女がひとり」は結論から言うと、直球ストライクのGS歌謡がど真ん中♪♪~♪ 

と言うよりも、作詞:なかにし礼、作曲:三木たかし、そして編曲:海老原啓一郎の三者がそれぞれに狙ったジャズロック歌謡の決定版でしょう、これはっ!

いゃ~、ビートの作り方やブラスアレンジのカッコ良さに加え、浅丘ルリ子の巧みに抑制されたエグイ歌い回しが最高にグルーヴィな仕上がりなんですよねぇ~~♪

既に述べたように、このシングルは両面共に全くの空振りだったんですが、流石は大女優! 今日でも全く古びていない存在感が強い印象を残すんですから、これをライプで聴けたら発狂するかもしれません。

ということで、片付けも中途にして、あれこれ聴いてしまうので、作業は全然はかどらず、かえって事態を悪化させてしまったですよ……。

今日は潔く、反省しています。

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ビーチボーイズの異色

2011-06-10 16:43:37 | Beach Boys

Wild Honey / The Beach Boys (Capitol)

既に何度も書いていますが、サイケおやじが本格的にビーチボーイズに目覚めたのは、リアルタイムの「サンフラワー」以降でしたから、往年のヒットシングル曲はともかくも、特に遡って聴くアルバムの幾つかには新鮮な衝撃があって、本日ご紹介の1枚は、その最右翼でした。

 A-1 Wild Honey
 A-2 Aren't You Glad
 A-3 I Was Made To Love Her
 A-4 Country Air
 A-5 A Thing Or Two
 B-1 Darlin'
 B-2 I'd Love Just Once To See You
 B-3 Here Comes The Night
 B-4 Let The Wind Blow
 B-5 How She Boogalooed It
 B-6 Mama Says

結論から言うと、ビーチボーイズを特徴づけていた爽快なハーモニー&コーラスがほとんど聞かれず、逆にシンプルな力強さを狙ったかのような、如何にもロック的な音作りや黒人R&Bのエッセンスをモロに取り入れた部分も感じられるという、ある意味では最も「らしくない」仕上がりになっています。

しかしサイケおやじが衝撃を受けたのは、全くそのところであって、歴史的にはサイケデリックポップスを極めたアルバム「スマイリー・スマイル」に続く1967年末に発売されたという事実を鑑みても、???の連続……。

本来であれば、さらに緻密な音作りが形成され、十八番のハーモニーワークと珠玉のメロディがあって然るべきはずが、極言すれば中途半端としか思えない曲があったり、あまり冴えない仕上がりのカパーが入っていたりでは、リアルタイムのファンがどのように納得していたのか、大きな疑問を抱くほどです。

ただし、それまでのイメージに拘らず、むしろ1970年代初期のビーチボーイズが好きなファンにとっては、これが妙に愛着が持てるアルバムじゃないかと思います。と同時に、ビーチボーイズが、これをやってしまったという現実があってこそ、好きになったら一生手放せないものになる可能性も秘めた作品かもしれません。

それはまず冒頭、アルバムタイトル曲の「Wild Honey」からして、イントロの疑似シンセが激しく上下する中でカール・ウィルソンが半ばヤケッパチに切迫して歌う展開と間奏のオルガンのしぶといカッコ良さ! これは明らかに新しいビーチボーイズを象徴してるんじゃないでしょうか。

またB面初っ端の「Darlin'」は今日、山下達郎のカパーで有名になっているので、皆様も一度は耳にしたことがあるはずの隠れ名曲♪♪~♪ とにかく弾みまくったロックビートの強さとブラスロックの先駆的な味わい、さらにビーチボーイズが十八番のコーラスワークを意図的にラフにやってしまったかの如きサウンド作りの妙♪♪~♪ そして何よりも素敵なのが、ブライアン・ウィルソン&マイク・ラブによる胸キュンの曲作りとカール・ウィルソンの若気の至りっぽいソウルフルな節回し!

全く、これが嫌いなポップスファンはいないと思われるほどですよっ!

そして同じくソウルフルな「Here Comes The Night」も絶妙に脱力したブライアン・ウィルソンのリードボーカルがこの時期のビーチボーイズならではというか、後年には何を考えていたのか、なんとディスコバージョンまで作られる愚挙まで引き起こしたのが不思議と理解出来てしまう名曲だと思います。

しかし、そうしたソウルフル路線が裏目に出たというか、「I Was Made To Love Her」はスティービー・ワンダーが同年にヒットさせた人気曲の煮え切らないカパーであり、また「How She Boogalooed It」はブライアン・ウィルソン抜きのビーチボーイズのメンバーが共作したモータウン系のロッキンソウルではありますが、これならスパイダースの「赤いドレスの女の子」の方が百倍カッコ良いと思うのはサイケおやじだけでしょうか……。

実は例によって後に知った事ではありますが、この時期のブライアン・ウィルソンは悪いクスリや精神的重圧から普通の生活さえ儘ならず、当然ながらグループの音楽的頭脳という曲作りやプロデュース活動も停滞していたところから、このアルバムを作るにあたっては、R&B趣味に走っていたと言われるカール・ウィルソンが中心となり、またブライアン・ウィルソンが自宅のスタジオで気が向いた時だけレコーディングしていたデモ素材を引っ張り出しての再加工という真相が!?

ですから愛らしいラブソングの「Aren't You Glad」やハミングのメロデイが心地良い「Country Air」、ハワイアンR&Bとでも言うべき「A Thing Or Two」、そしてこれぞっ、ビーチボーイズの真骨頂ともいうべきハーモニーの魔法が全開した「Mama Says」あたりは、何れもどこからしら中途半端ではありますが、やはり「ペットサウンズ」を頂点とした充実期の残滓が確かな魅力となって、聴く度にグッと惹きつけられます。

そしてアコースティックギターの使い方がニクイほどの「I'd Love Just Once To See You」やワルツタイムを上手く使った「Let The Wind Blow」には、1970年代にブームとなる所謂シンガーソングライター的な味わいが既に感じられるんですよねぇ。まあ、これは個人的な思い入れかもしれませんが、サイケおやじは、とても好きです。

つまり極言すれば、これはビーチボーイズの現在・過去・未来が交錯した奇蹟(?)の1枚であり、そう思えば同バンドが二度と同じ味わいのアルバムを出さなかったのも偶然ではないでしょう。

また、これまではスタジオミュージシャンの多用による演奏パートの実質的な部分が、このアルバムではレギュラーメンバーが自らやった形跡も、チープでラフなところがロック的な感性の表出へと繋がったのは結果オーライかもしれません。

特に「Darlin'」でのドラムスのカッコ良さは最高ですよねぇ~~♪

ちなみに「疑似シンセ」と書いた「Wild Honey」のイントロ部分の不思議な音作りは、テルミンという当時の最新(?)式電子楽器によるもの!? このあたりの先進性も、まだまだビーチボーイズの意欲が前を向いていた証でしょうか。

ちなみに掲載した私有LPは「STEREO」の表示があるものの、例によってモノラルミックスしか作らないブライアン・ウィルソンの意向に逆らう形でレコード会社が勝手に疑似ステレオ化したのが、その真相……。まあ、あまり極端なステレオ効果やエコーが付いた感じでもないので、拘る必要もないと思いますし、現行のCDはモノラルミックス優先ですから、いやはやなんともです。

ということで、繰り返しますが、全く「らしくない」仕上がり故に人気の無いアルバムではありますが、好きになったら一生涯付き合える裏名盤と、サイケおやじは確信しているのでした。

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