九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

中日新聞「憲法特集社説 中」           まもる

2007年05月02日 09時40分14秒 | Weblog
【社説】
統治の道具ではなく 憲法60年に考える(中)
2007年5月2日

 安倍晋三首相らの改憲論には、憲法を統治の道具に変える発想があります。九条論議に目を奪われていると、公権力を縛る本来の理念を見失いがちです。

 安倍首相は今年の年頭会見で任期中の憲法改定を宣言し、今度の参院選の争点にすると言いだしました。世論調査では改憲賛成が多く、若者もかなり支持しています。

 国際協調主義の理念をうたった前文、戦争と軍備の放棄を定めた第九条と既成事実との隔たりに、戦後世代の多くはしらけ、憲法を“嘘(うそ)”と感じるのではないでしょうか。

 理念と冷厳な現実との乖離(かいり)が、一般論として改憲を容認させる傾向がみえるようです。

 透けて見える国家像
 しかし、改憲論議の対象は第九条だけではありません。多くの人がそこをつい見落としがちです。

 早く憲法を変えたい首相の思いはさまざまな形で伝わってきますが、新たな憲法像が具体的に本人の口から語られることはありません。

 それでも安倍カラーを出そうと次々繰り出す首相指示、政策、法案などから憲法観や国家像が透けて見えます。国民を支配し統治する道具としての憲法であり、正義や真理を所与のものとして国民に教え、ときには押しつける国家、社会です。

 それはまさに首相が言う「戦後レジームからの脱却」であり、公権力と国民との関係の大転換です。国家の役割の転換は、著書「美しい国へ」でも随所で主張されます。

 近代憲法は、政府・公権力ができることを制限し、好き勝手にさせないために生まれました。それを細部にわたって調整するのが法であり、立憲主義、法の支配とはそうした政治、統治のあり方をいいます。

 「憲法を設ける趣旨は君権(公権力)を制限し、臣民(国民)の権利を保全することである」-明治憲法制定の際、枢密院議長だった伊藤博文がこう話しました。

 内面に踏み込む権力
 実際にできた明治憲法は、天皇が主権を握り、国民の権利は「法律の範囲内で」しか認めない統治の道具となりましたが、最高の権力主義者といわれた伊藤でさえ憲法の理念は正確に理解していたのです。

 新教育基本法に盛り込まれた愛国心育成、教育に対する国家の関与強化、道徳の教科化…権力が個人の内面まで踏み込んでもいいとする姿勢が、安倍内閣になってからますます鮮明になってきました。

 改憲は統治の基本ルールにそれを反映させることになるでしょう。公権力が国民に対して優位に立ち、思い通りに統治する道具に憲法を変えようとする発想です。

 それは戦後日本の復興と発展を支えてきた“粒あん社会”を否定することも意味します。

 敗戦後の日本人は、正義や真理を自明のものとは考えず、互いに主張し、反論し、対立し合う自由と活力を原動力として豊かな国をつくり上げました。一粒一粒が個性を発揮しながらも全体としてハーモニーを醸し出す粒あんのような社会が、復興、発展の基盤となったのです。

 現行憲法は、一人ひとりが個性的に振る舞いながらも調和することを制度的に保障してきました。

 憲法を統治の道具とし、教育勅語を核とする教育で国民の個性を封じて、あたかも練りあんのように一色に染め上げようとした戦前、戦中の日本は、これと対照的でした。

 この六十余年間、一人として軍事力で殺したことも殺されたこともない実績を、政府の行動を制約している憲法の性格と第九条の効果として尊重するか、憲法を現実と合致させて「戦争のできる国」になるか。日本は岐路に立っています。

 その九条を変え、憲法の位置づけも逆転させると、公権力に対する国民によるブレーキの利きは悪くなります。かつてブレーキのないクルマに何十万、何百万の若者が乗せられて戦場に送り出されたことに思いをはせながら「美しい国へ」を再読すると、これまでとは違った理解になるかもしれません。

 安倍首相には、改憲を策して果たせなかった祖父、岸信介への思い入れがあります。本音を抑えソフト路線で出発したのに支持率が低下したことから、最近は「それなら思う通りに」という、いわゆる開き直りも感じられます。ですから、国民投票法が成立すれば、小休止中の改憲論議も活発化するとみられます。

 去る三月に亡くなった作家の城山三郎さんは「敗戦で得たものは憲法だけだ」が口癖でした。「だけ」とは大事な財産であることを訴えるための強調表現でしょう。

 生き残った者の実感
 城山さんの口癖は、特攻隊員として死の淵(ふち)に臨み生き残った者の実感です。戦陣の厳しさや悲惨さも知らず、戦火に追われて逃げ回った経験もなく、恵まれた環境、豊かな家庭で育った政治家たちの威勢のよい改憲論とは対極にあります。

 支配され、死を迫られた側の憲法観と、統治、支配する側の憲法観、国民は選択を迫られます。

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「若者が『出世』したくない?」によせて  文科系

2007年05月02日 08時38分35秒 | Weblog
最近の新聞で「若者の出世意識国際比較」とでも言うべき世論調査結果が報道された。日本の若者は特にそれが低く、出世したくないのだそうだ。毎日新聞小見出しには、「博士にも大臣にもなりたくない若者」とあったかな? 国際比較で極端に低い数字があげられていた。父親はじめ大人の男(女はそれほどでもないと思う)がつまらないからではないか。そんな折り、毎日新聞4月30日投書欄のある投稿が目にとまった。

表題は「仕事一筋! それでいい」、59歳の方。
まず、書き出し。「団塊世代が大量退職する『2007年問題』がかまびすしい。『第二の人生』をどうするの?とばかり、趣味、ボランティア、地域社会デビューなど騒々しい限り」。中略で。
「もっとも、仕事中心に生きてきた自分にとって、遊びとか楽しみには罪悪感を伴う。そんな損な世代なのだ。だから定年が近づいても、その後の人生設計など考えられない。それより何より、持てる力を存分に発揮できる部署で体が続く限り働きたい」
そして、この結びが肝心な所。
「仕事一筋! それでいいじゃないか。自分らしさが発揮でき、社会にも貢献でき、それで家族をも養えたのだから何の不足があろうか。私はそういう人生で満足だ」

さて、この59歳の投稿氏をまったく否定したいという訳ではない。それどころか「誠実で、立派に責任を果たされる方なのだろうな」とお見受けしている。僕などは多分、この方に比べたらその半分も仕事ができないかも知れないと推察している。その上で以下。
ここには日本男性の「思想」が開き直ったような形で示されていると思う。「命(=生活)」、「家族」、これを支えるものとしての「社会(貢献)」と「国」。そして彼は、それ以外を例として「趣味、ボランティア、地域社会デビューなど」と語り、「遊びとか楽しみ」と一括して、罪悪感までを付与してみせた。
旧日本人男性の価値観は、「命、生活」と「社会(貢献)」にどうしても偏っていると思う。これは右でも左でも同じだ。そもそもそれ以外は遊びなのか?僕は僕のギターを趣味と言われることにすら抵抗を覚えるのだが。趣味という言葉には本来、プロとは違うという含意もあるはずだ。ならば、ゴッホやシューベルトや芥川は美に命をかけ、ソクラテス、ガリレオ、吉田松陰、渡辺崋山らは真理に命をかけたが、これらはプロとして「仕事」だから価値があったのか?それにしたって、この投稿氏のように命と社会以外を「遊び」と命名して、罪悪感があるからと切って捨て、開き直って見せるこの感覚!? あまりにも人間が狭すぎると僕は思う。実際的といえば聞こえはよいのだが、古いし、一角の人間を目指そうとする若者ならば、その鑑賞に耐えるものでは決してあるまい。

家や部屋をちょっと飾ったり、その家の中にバッハを流したり、なにか楽器をやることを尊いことと感じたり、美味しい物・ワインがちゃんと分かったり、その分かったことを楽しくお喋りしあったり、何か真剣な人生探求、討論には敬意を払う。こういうことを僕は決して遊びとは言わない。ゴッホやシューベルトや芥川と同様の、人生の素晴らしさが分かる資質と表現したい。こういう自己実現には、プロとアマとの差別は不要のはずだ。
これからの若い人々のたった1度の人生というものを思えば、人生、人類に価値らしい価値を与えた先人たちが同じ1度の人生をどう過ごしたかを振り返れば、「団塊の世代の特徴」、戦後日本の特徴の一面性を指摘しないわけにはいかない。

なお、目前の実際的な社会問題をどうするかには、必ず上記の問題は大きく絡んで来ると思う。絶対に暇な討論ではない。例えば、戦後日本の左翼にも同じ欠陥があった。宮本顕治さんがよくやった「政治による文化の引き回し」などは、形は違うがその典型だったはずだ。ここでもいつも言うように、現代日本は後中進国型社会変革論や「窮乏革命論」(その亜流を含む)ではだめだと思う。知識人やちょっと余裕のある人がついてこないはずだ。そしてまた、そういう人々の社会的影響力がどんどん大きくなっていく時代だと考えている。「生活の質」というものを語ることができる人が、良心的な人々の中に発言権を持っていく社会ということだと。
コメント (4)
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東条英機首相の遺書を・・

2007年05月02日 02時39分47秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
遺書
開戦当時の責任者として敗戦のあとをみると、実に、断腸の思いがする。
今回の刑死は個人的に慰められておるが、国内的の自らの責任は、死を以って償えるものではない。しかし、国際的の犯罪としては、無罪を主張した。今も同感である。ただ力の前に屈服した自分としては、国民に対する責任を負って満足して刑場に行く。ただこれにつき同僚に責任を及ぼした事、又下級者にまで刑が及んだことは、実に残念である。天皇陛下に対し、また国民に対して申し訳ないことで深く謝罪する。
元来日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志により行動すべきものであったが、一部過ちを犯し、世界の誤解を受けたのは遺憾であった。
この度の戦争に従事してたおれた人及びこれ等の人々の遺家族に対しては、実に相済まぬと思って居る。心から謝する。
今回の裁判の是非に関しては、もとより歴史の批判を待つ。もしこれが永久平和のためということであったら。もう少し大きな態度で臨まななければならないのではないか。この裁判は結局は政治裁判で終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。
天皇陛下の御地位及び陛下の御存在は動かすべからざるものである。
天皇存在の形式については、敢えて言わぬ。それは私だけではなく多くの者は同感と思う。空気や地面の如く大きな恩は忘れられぬものである。
東亜及び諸民族は今回のことを忘れて、将来相協力すべきものである。
東亜民族もまた他の民族と同様に天地に生きる権利を有つものであって、その有色たるを寧ろ神の恵みとして居る。印度の判事には尊敬の念を禁じ得ない。これを以って東亜の諸民族の誇りと感じた。
今回の戦争によりて、東亜民族の生存の権利が了解せられはじめたのであったら幸いである。列国も排他的な感情を忘れて共栄の心持をもって進むべきである。
現在の日本の事実上の統治者は米国人に対して一言するが、どうか日本人の米人に対する心持を離れしめざるよう願いたい。
また日本人が赤化しにように頼む。
大東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにされなければならぬ。実は、東亜の他民族の協力を得る事が出来なかったことが、今回の敗戦の原因であったと考えている。
今後日本は、米国の保護の下に生きて行くだろうが、極東の大勢はどうであろうか。終戦後僅かに三年にして亜細亜大陸赤化の形勢はかくの如くである。
今後日本は米国の保護下に生きて行くであろうが、極東の大勢はどうであろうか。
終戦後、僅か3年にして、亜細亜大陸赤化の形勢は斯くの如くである。
今後の事を考えれば、実に憂慮にたえぬ。もし日本が赤化の温床ともなれば、危険この上もないではないか。
今、日本は米国より食糧の供給その他の援助につき感謝している。しかし、一般人がもしも自己に直接なる生活の困難やインフレや食糧の不足などが、米軍が日本の在るが為なりというような感想を持つようになったならば、それは危険である。
実際はかかる宣伝をなしつつあるものがあるようである。依って米軍が日本人の心を失うよう希望する。
今次戦争の指導者たる米英側の指導者は大きな失敗を犯した。①日本という赤化び防壁を破壊し去った。②満州を赤化の根拠地たらしめた。
③朝鮮を二分して東亜紛争の因たらしめた。米英の指導者は之を救済する責任を負うている。従って、トルーマン大統領が再選せられたことはこの点に関し有りがたいと思う。
日本は米軍の指導に基き武力を全面的に放棄した。これは賢明であったと思う。日本は米軍の指導に基き武力を全面的に放棄した。これは賢明であったと思う。
しかし、世界国家が全面的に武装を排除するならば良い。然ばざれば、盗人が跋扈する形となる。(泥棒がまだ居るのに警察をやめるようなものである)
私は戦争を根絶するためには欲心を人間から取り去らねばと思う。現に世界各国何れも自国の存在や自衛権の確保を主として居る。(これはお互い欲心を放棄しておらぬ証拠である)
国家から欲心を除くという事は不可能の事である。されば世界より今後も戦争を無くするという事は不可能である。それ故、第三次世界大戦において主たる立場びたつものは米国・ソ連である。第二次世界大戦において日本とドイツというものが取り去られてしまった。それが為、米国とソ連というものが、直接に接触する事になった。米ソ二国の思想上の根本的な相違は止むを得ぬ。この見地から見ても、第三次世界大戦は、避ける事は出来ぬ。第三次世界大戦においては、極東。すなわちシナ、朝鮮が戦場となる。此の時に当たっては米国は武力なき日本を守り策をたてなければならぬ。これは当然、米国の責任である。日本を属領と考えるのであえば、ならぬ。また何をか言わんや。そうでなしとすれば、米国は何等かの考えがなければならぬ。およそ生物として自ら生きる生命は神の恵である。産児制限の如きは神意に反するもので行うべきではない。
なお言いたき事は、公、教職追放や戦犯容疑者の逮捕の件である。
今は既に、戦後3年後を経過しておるのではないか。従って、これは速やかに止めて欲しい。日本国民が正業に安心して就くよう、米国は寛容の気持ちをもってやってもらいたい。我々の処刑をもって一段落として、戦死傷者、戦災死者の霊は遺族の申し出あらば、これを靖国神社に合祀せられたし。
出征地に在る戦死者の墓には保護を与えられたし。従って、遺族の申し出あれば、これを内地に返還せられたし。戦犯者の家族には保護をあたえられたし。
青少年男女の教育は注意を要する。将来、大事な事である。近時、いかがわしい風潮あるは、占領軍の影響から来ているものが少なくない。この点にちては、我が国の古来の美風を保つ事が大切である。今回の処刑を機として敵、味方、中立国の国民罹災者の一大追悼慰霊祭を行われたし。世界平和の精神的礎石としたいのであ
る。勿論、日本軍人の一部に間違いを犯した者もあろう、これ等については喪心から謝罪する。然し、これと同時に無差別爆撃や原子爆弾の投下による悲惨な結果については、米国軍も大いに同情し憐憫(れんびん)して悔悟あるべきである。
最後に、軍事的な問題について一言する。
わが国の従来の統帥権独立の思想は確かに、間違っている。あれでは、陸海軍の一本の行動は採れない。兵役制については、徴兵制によるか、用雇用兵制によるかは考えなければならない。我が国民性に鑑みて再建軍隊の際に考慮すべし。再建軍隊の教育は、精神主義を採らねばならぬ。忠君愛国を基礎にしなければならぬが、責任観念のないのは淋しさを感じた。この点については、大いに米軍の学ぶべきである。学校教育は従前の質朴剛健のみでは足らぬ。人として完成を図る教育が大切である。言い換えれば、宗教教育である。欧米の風俗を知らす事も必要である。
俘虜のことについては研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。
辞世
「我ゆくともまたこの土地にかへり来ん国に報ゆることの足らねば
さらばなり苔の下にて我待たん大和島根に花薫るとき」
敗戦の責任者である東条首相は、この裁判への疑義は思いながらも、この戦争の原因の問題点も指摘しながらもこれからの日本は米軍に学べとさえ言っています。
この日本人の反省好きでは、21世紀を過ごしてはいけません。
日本の大臣は、武官は駄目となっていますが、武官の大将がこの甘さです。だから武官でも文官でも大臣の器が在る人がなればいいのです。
やはり憲法は改正です。
コメント (7)
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