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朝日提言・・9条問題 ③    ネット虫

2007年05月08日 15時23分14秒 | Weblog
19.自衛隊

■平和安保基本法で役割を位置づける・軍隊とはせず、集団的自衛権は行使しない

・国連安保理決議にもとづく平和構築活動に参加していく

・非核を徹底して貫き、文民統制をきちんと機能させる



 「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」。憲法9条はこう定めているのに、自衛隊を持つことは違憲ではないのか。これが、自衛隊をめぐる長年の憲法論争の中核である。

 政府は「憲法は固有の権利としての自衛権は否定しておらず、必要最小限度の防衛力を持つことは禁止されていない」との解釈に立つ。

 自衛隊の歴史はすでに半世紀に及ぶ。激しい国会論戦や反自衛隊、反基地の市民運動などがあった。その一方で自衛隊の規模、役割は拡大していった。

 この相克の中で、自衛隊の装備や運用について厳しい制約を課す日本の安全保障政策の基本的枠組みができあがっていった。自衛隊のイラク派遣や米軍への協力で様々な逸脱や疑問、曲折はあったが、長年の積み重ねの結果、現実に根ざした平和主義の骨格が形作られた。

 過去の朝日新聞の世論調査からは、9条も自衛隊も安保も、ともに受け入れる穏やかな現実主義が浮かび上がる。国民の多くは「憲法か、自衛隊か」と対立的にはとらえていないようだ。国民の間に、基本的なところでのコンセンサスが生まれ、定着してきたと言えるだろう。

 自民党の改憲草案は、自衛軍の保持を打ち出した。普通の軍隊を持ちたいということだが、私たちはそれに反対だ。再び軍隊は持たないと誓った戦後の出発点をゆるがせにしたくないと思う。

 最近の世論調査でも、自衛隊を「自衛軍」とすることに賛成は18%で、70%が自衛隊のままでよいと考えている。こうした穏当な現実主義を大事にしたい。これを基本として、これからの日本の防衛、安全を考えていくべきだ。

 9条の意義を是とする立場から、それでも憲法に自衛隊を書き込むべきだという意見がある。その方が分かりやすいという主張である。それも理解はできる。

 だが、すでに述べたように、憲法を変えることにはリスクやコストがあまりに大きい。国論を二分して多大のエネルギーを費やさねばならないし、行き過ぎた改憲にはずみをつける心配もある。

 それでは、自衛隊をきちんと位置づける基本法を、今の自衛隊法とは別につくったらどうだろう。自衛隊を持つ理由と目的、使い方の基本を定める。60年かけて作り上げてきた現実的平和主義の根幹を、憲法に準ずるような法律に定めるのだ。平和安全保障基本法と名付けたい。

 憲法の理念から外れるような、なし崩しの解釈改憲への歯止めとしても重要な意味を持つ。そこには、次の四つの要素を盛り込むべきだ。

 第一に、憲法の理念のもとに必要最小限の防衛力として自衛隊を持つこと。専守防衛の原則を守り、海外での武力行使はせず、集団的自衛権は行使しないことを明記する。

 第二に、被爆国日本から国際社会に発するメッセージとして、非核の原則を盛り込む。北朝鮮の核実験を機に核武装論が論議されるが、核拡散に反対する日本の決意を鮮明にする。

 第三に、自衛隊による国際平和協力のあり方だ。自衛隊の海外派遣に関する社説15で提言したように、国連による平和維持活動(PKO)に積極的に参加する方針と原則を書く。

 第四に、文民統制の原則を強調する。背広組(文官)による制服組の統制という狭い意味ではない。政府内における政治の優位、さらには国会が自衛隊をコントロールするという大きな意味での文民統制を確認すべきだ。

 こうした原則を踏まえて、自衛隊の規模と装備については、国際環境を見ながら、過大にならないように見直していくべきである。

 最後に集団的自衛権の行使について、付け加えておきたい。私たちがこれに反対するのは、必要最小限の防衛力の行使を認めた憲法9条から逸脱し、際限なく自衛隊の役割が広がってしまうからだ。

 だからと言って、日米協力を何も進めるなということではない。日本近海での米艦護衛は、基本的には個別的自衛権の枠組みで対応できることだ。

 ミサイル防衛などの新技術や平和構築活動への参加を踏まえ、個別的自衛権や国連による集団安全保障に基づいてどのような協力ができるのか。安全保障の現実も見据えながら整理したらよい。

 とにかく集団的自衛権行使に道を開こうとするのは乱暴な9条改正論である。もっと現実的で冷静な議論が必要だ。
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朝日提言・・9条問題 ②     ネット虫

2007年05月08日 15時17分37秒 | Weblog
18.9条改正の是非

 憲法9条を改正し、集団的自衛権の行使などに制約のない普通の軍隊を持つ。改憲論もさまざまだが、最大のポイントはここにあるだろう。さて、日本の戦略として、この改憲はプラスなのかマイナスなのか。損得を吟味してみたい。

 改憲論者が主張する第一のプラスは、憲法と現実との「ねじれ」の解消である。9条で戦力の不保持をうたっているのに、現実には自衛隊が存在する。憲法の条文のままに現実が読めるようにすれば、自衛隊違憲論争に終止符を打てるし、防衛政策をめぐるさまざまな解釈をすっきりできる、というものだ。

 第二に、集団的自衛権の不行使とか、海外での武力不行使といった、9条から導き出された日本の防衛政策の原則をなくせば、米国との同盟をより確かなものにできる、という主張がある。

 第三に、軍を持つことは主権国家として当然の権利なのに、占領軍から9条を「押しつけられた」のだから、それをただす。そんな意見も聞かれる。

 護憲論からすると、こうしたプラスの多くはそのままマイナスに転じる。社説17であげたように、戦後日本がつくりあげてきた「資産」を失うからだ。

 日本が米国の同盟国として、踏み込んで軍事的な役割を担うようになれば、米国がかかわる戦争に直接、関与せざるを得ない事態がでてこよう。それを受け入れる合意が国民の間にあるとはとても思えない。

 自衛隊が普通の軍隊と違うのは、集団的自衛権を行使せず、海外で武力行使しないといった原則を持つからだ。あの戦争への反省に立って打ち出した「不戦の誓い」を具体的に支えるものなのに、それを撤廃すれば、戦後日本の基本軸があいまいになる。周辺国の不安を招き、地域の緊張要因になる恐れがある。

 さらに、社説14で述べたように、9条は強大な同盟国・米国からの過大な要請をかわす盾の役割を果たしてきた。それがなくなった時、米国の政策に際限なく振り回される恐れはないか。

 歯止めや盾の役割は、政治が果たす。民主的に選ばれた国会、内閣がそのときどきの民意に基づいて判断していけばいい、という考え方もある。

 理屈はその通りかもしれない。だが、「外圧」という言葉に象徴される戦後の対米関係を考えた時、政治が本当にその役割を果たせるのか、心もとない。

 イラク派遣の時のことを思い出してほしい。小泉前首相が米国の判断を支持し、自衛隊を送ることまで決断した際、理由の一つとして強調したのが日米同盟だった。つまりは、米国の求めはむげにはできぬということだ。

 陸上自衛隊が無事に戻った時、前首相は胸を張った。戦闘に巻き込まれず、犠牲者も出さなかったと。そのことは良かった。だが、それは9条の原則と何とかつじつまを合わせようと、比較的安全な場所を選び、危険の少ない任務に専念した結果でもあった。

 9条に照らして疑問のある派遣だったが、実は9条に救われていたのだ。それがなければ、開戦の当初から米軍と戦闘正面に立ち、多くの犠牲者を出した英国のようになっていたかもしれない。

 日米同盟の安全装置としての9条のメリットは捨てがたい価値がある。

 そもそも、この60年をかけて培ってきた日本の「平和ブランド」を手放す損失は大きすぎる。日本ほどの経済力を持ちながら、軍事に厳しく一線を画す。このユニークさは国際社会にも知られ、重要なソフトパワーになっている。それを生かしてこそ、「国際公益の世話役」として日本への信頼を築くことができる。
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朝日提言・・9条問題 ①     ネット虫

2007年05月08日 15時10分51秒 | Weblog
17.9条の歴史的意義

 憲法9条に立つ戦後の平和主義は、最初からひとつのかたちに定まったものではなかった。焼け跡から日本を再建し、国際社会に復帰し、経済大国となる道を進む中で、私たち日本人がつくりあげ、定着させてきたものである。

 憲法が施行された60年前、日本は米国を中心とする連合国軍に占領されていた。かつての帝国陸海軍はもはや存在しない。その意味では、9条は実質的には「敵国」日本の武装解除でもあり、現に軍隊が存在しないことの追認でもあったと言えよう。

 また、今日多くの歴史学者の研究が明らかにしているように、昭和天皇の戦犯訴追を免れるためにも、軍国主義復活の可能性を封じる9条を盛り込んだ憲法を急いでつくる政治的必要性があった。

 なるほど憲法9条の出発点では、このように様々な思惑や駆け引きがあった。だが、その後の日本社会の歩みを通じて、この9条を軸にして平和主義という新たな資産を作り上げてきたのである。

 9条を今日の視点でみると、大きく言えば四つの歴史的意義がある。

 第一に、日本が再び戦争に直接かかわるのを防いだことだ。むろん、日本を巻き込むような大戦争が起きなかった幸運があってのことだが、自衛隊が韓国軍のようにベトナム戦争へ派遣されることもなかったし、防衛費の規模も抑え気味にできた。

 60年の間、この原則が貫かれたことで「戦争には加わらない国」「軍事力で何かを押しつけることはしない国」という、ユニークな平和ブランドを国際的に築くこともできた。

 第二に、9条のおかげで戦後社会から軍国主義がすみやかに姿を消したことだ。戦前のような軍事優先の価値観ははっきりと否定された。徴兵制もなければ、秘密の軍事裁判もなくなった。

 それは戦後社会における批判の自由の支えにもなった。「軍事」が幅をきかせた戦前・戦中の日本では、法案を審議中の国会で、説明員の軍幹部が議員を「黙れ」と一喝したり、軍を批判した議員が除名されたりしたことがあった。

 9条は「戦後日本の安全弁」である、と憲法学者の樋口陽一さんは言う。

 第三に、侵略戦争と植民地支配という負の歴史への、反省のメッセージとして9条は国際社会に受け止められた。あの過ちを繰り返さないという、国民の真摯(しんし)な思いが読み取れたからこそ、戦後の日本と日本人への信頼を取り戻すことができた。

 まだ過去の傷の癒えない人々が近隣諸国にいる。戦争や植民地を経験しなかった世代にも、記憶や歴史は引き継がれていく。9条でメッセージを発し続ける意味は今も失われない。

 第四に、国民に「非軍事」の持つ潜在力を考えさせる視点を提供した。

 20世紀までの国際社会では、軍事力の持つパワーは圧倒的だった。しかし21世紀に入るあたりから、そのパワーにはっきりと陰りが見え始めた。

 9・11同時テロを思い起こしてほしい。カッターナイフだけを持った少数の実行犯がジェット機を乗っ取り、あれほどの大事件を引き起こした。国と国との争いに重点を置いた、伝統的な軍事力の考え方では対応できない事態だ。

 いま、米国の強大な軍事力をもってしてもイラクを治められない現実が、なによりもその限界を象徴している。

 テロや大量破壊兵器の拡散、感染症、地球環境問題などのように、軍事力では手に負えない課題が増えている。

 では、どうすればいいのか。

 軍事力の出番がなくなったわけでは決してないが、それだけでは解決できない。結局は、多様な外交手段を使い、対話や国際協調、多国間の約束などの枠組みの中で、ねばり強く解決を探っていくしかないのだ。

 9条が前文とともに打ち出した平和主義の理念は、21世紀の今日を見通したような底力を持つ。

 私たちが提言した「地球貢献国家」も、そうした考え方に基づく。武力では対応できない脅威にどう立ち向かうか。そこで汗をかくことこそ憲法の理念を生かすことであり、21世紀の日本が果たすべき役割なのではないか。

 社説15と社説16で国連の平和活動、「人間の安全保障」への積極的な参加を提言した。国連PKOにおいて、実力部隊として自衛隊が担う役割は小さくはない。だが、日本の主眼はあくまで非軍事の活動に置き、NGOや民間を含めた幅広いものにしていく。なぜなら、そこに時代の要請があると考えるからだ。

 軍事力の効用に限界が見えた世界で「国際公益の世話役」となり、地球と人間の現在、未来に貢献していく。そうした日本になるために、9条の理念は新しい力を与えてくれるに違いない。捨て去る理由はまったく見あたらない。
コメント (2)
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