九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

「卑劣な事に加担する新聞」 大谷昭宏氏のHPより

2007年10月15日 21時35分04秒 | Weblog
※「昭和区平和のつどい」で分かり易い話で参加者を堪能させてくれた「大谷昭宏氏」が沖縄集団自決の教科書問題のその後について怒りの一文をホームページに載せている。紹介します。         (まもる)


人間としてやってはならない最も卑劣なことに公器である新聞が加担してどうするんだ。そんな怒りがほとばしる。

 戦争末期の沖縄戦で日本軍が住民に集団自決を強制したとする高校日本史の教科書の記述が削除された問題で、憤りのまっただ中にある沖縄では先月29日、削除撤回を求めて県民の10人に1人が参加する11万人の大規模な集会が開かれた。さすがに政府もこの沖縄の怒りを前にして、クロをシロと言いくるめられないと判断したのか、町村官房長官が「沖縄の人々の気持ちをなんらかの方法で受け止める」と発言、文科省も訂正に応じる意向を明らかにした。

 さあ、これが気に入らないのが読売新聞と産経新聞である。読売が社説で「教科書検定に対するきわめて不可解な政治介入である」と派手に拳を上げれば、産経は削除、訂正に我慢ならんと「迷走する政府・与党」と決めつけた上で、史実を確定する研究機関の設置を提案した公明党にまで「戦前の国定教科書への逆戻り」と八つ当たりする始末だ。

 この新聞論調こそ、まさしく「これまた異なることを承る」の真骨頂ではないのか。よく聞くがいい。沖縄の人たちは一言たりとも「政治介入してくれ」なんて言っていない。「若者が学ぶ教科書に正しいことを書いてくれ」と言っているだけなのだ。それを政治介入というなら「政府はウソをそのままにしておけ。ウソを正したりしたら、承知せんからな。一騒ぎ起こすぞ」と言っているに等しいのだ。

 集団自決に関する軍の関与、強制について、ここで私の取材経験を記している余裕はない。ただ、手榴弾や青酸アンプルの配布は軍なくしてはあり得ない。民間人が持っているはずがない。なのに関与、強制した覚えはないという。こんな理屈が通るのか。

 これは私の取材経験からすると、いじめ自殺に酷似している。嫌がらせやシカト、いじめの限りを尽くして、もう自殺するしかないというところまで追い込んでおいて「首を吊ったのはあいつ。飛び降りたのはあいつ」と逃げる。学校は学校で

「いじめと自殺の因果関係は明らかではない」

 集団自決にしても、いじめにしても、もうそれしかない、というところまで追い詰めておいて、相手が勝手にやったこと、自分は一切、手を下していないと逃げまくる。人としてこれほど卑怯卑劣なことはない。しかもそれが「正しいやり方」として教科書に採用されているのだから、いくらいじめは卑怯なことと若者たちに説いて聞かせたところで、鼻先でせせら笑われるだけだ。

 私が今度の集団自決をめぐる問題で一番心に響いたのは、一人の高校生が言った「おじい、おばあたちが、はらわたを絞り出すようにしてぼくたちに語ってくれた言葉を国はウソだと言うのか」というものだった。

 あの記事を書いた記者は、そのおじい、おばあの目を見ながらでもこんな記事が書けるのか。
(日刊スポーツ・大阪エリア版「フラッシュアップ」平成19年10月9日掲載)

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本命は講談社か?   楽石

2007年10月15日 19時00分19秒 | Weblog
奈良県で医師が逮捕された事件。
少年の鑑定の調書を第三者にもらした容疑。

この本の出版社は、講談社。
あの安倍総理のスキャンダルをすっぱ抜いた
週刊現代は講談社。

あのスクープへの仕返しか?

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小沢への、ある夜の夢   文科系

2007年10月15日 10時23分23秒 | Weblog
12日拙稿への楽石さん、保守系さんのコメントを読んで思い出していました。アメリカは世界をまさにぐちゃぐちゃにしたいのだという田中宇氏のお説を。

東西冷戦の後、アメリカの軍隊はいっこうに小さくなっていないですよね。イスラエルを動かして、イスラムをそれこそぐちゃぐちゃにしている。アフガンもイラクもぐちゃぐちゃになった。田中氏はこれを「意識してやっているのだし、これからもそうしていくだろう」と語っているわけですね。
世界の石油を自由にするためにとか、貿易赤字を前にして軍事費を保持し続けるにはとか、いろんな動機、背景があるのでしょう。
それにしても、双子の赤字は増すばかりで、そこへサブプライム!! クリントンが減らした財政赤字を、ブッシュはまたまた膨大に作りましたし。これでは、グチャグチャにもなりますよね。世界に累積するグローバリズムの屍累々も全く眼中にないというわけでしょう。

こうして今のアメリカ、世界は、カール・マルクスやメイナード・ケインズが最も警告した資本主義の重大事態そのままの最悪状態と見ることができます。それなのにそこへ、世界第2の経済力・発言力を持っているはずの日本が、アメリカの尻馬に乗って拍車をかけていると来ている。テロ特措法はそういうことでしょう。違いますか。ドイツ・メルケルもフランス・サルゴジもアメリカの尻馬に乗るばかり。自民党と同じで、重大な弱みを握られて、脅迫でもされているのでしょう。そんなのは容易いことですから。


さて、ここからが、僕が言いたいことだ。日本が、日本こそが国連に「もっと、その役割を果たせ!」と言わなければならない。それに向かって全力で努力していかねばならない。「アメリカがやっているのは、世界をグチャグチャにすることじゃないか」と世界に警告、発信しなければならない。それなのに、「日本は国連軍に関係ありません」と、こんなことを言っている時かとね。まるで自分の良心というちっちゃな世界に閉じこもるがごとくに。
そして次に、大胆な言い方で敢えてとんでもない「仮説」を展開しますが、小沢に以上全てをこめた「期待」を持つのですよ。アメリカと日本の裏側の全てを、若い頃から知り抜いている人ですし。僕が上に書いた全ても案外この通りに押さえていて、それで「国連、国連」と叫んでいるんじゃないかとね。違いますか?反論してみてください

今世界の第1線を最も知りうる人物は、アメリカのチェイニー、そして日本の小沢。この二人がぎりぎりの所で、表裏一体と、そんな夢を見るのでした。

夢です、夢ですよ。
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私の戦争体験 6  へそ曲がり

2007年10月15日 10時02分53秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
父の遺言

 母や兄たちについて触れたので、父についても触れたいと思います。 

 戦時中の父の言動については、以前のコメントの中でも触れました。戦争遂行の立場に立った平均的な日本人であったと思います。
 戦後になっても私たちによく口にしました。“日本の憲法は間違っている。マッカーサーによって日本人は骨抜きにされたのだ。”と。
 東京裁判での主任弁護人であった「清瀬 一郎」氏の著作『東京裁判』も購入し、得意気に“これを読め!”と言って手渡されたこともあります。この本はいまでも私の手元にあります。東京裁判の判決はラジオで聴きました。NHKが中継放送をしたのです。ウエッブ裁判長の《デス・バイ・ハンギング》という声はいまでもよく覚えています。

 近くに住む自民党の国会議員の後援会の役員になったこともあります。会社の社長の代理にもなりました。愛知県で〇人目の藍綬褒章を受章したこともありました。貧しかった生活も「朝鮮特需」で一変しました。「株」を大量に購入して大儲けしたのです。但し、この資金は会社の金でした。といって、一人でやったのではなく会社の仲間と示し合わせてやったものです。資金の出所がばれてはまずいということで脱税もし、差し押さえを食らったこともありました。箪笥などにべたべたと差し押さえの紙が張られていく光景をこの目で見ています。

 反省らしきことが1度だけありました。戦後の食糧難の話です。ある日、会社の上司に連れられて「闇市」へ出掛けました。そこで出されたのが『銀シャリ』(米の飯)です。一瞬子どもたちの顔が浮かんだそうです。‘いかん、腹を空かしている子どもたちに内緒でこんなものを食べていいのか’と思ったそうです。でも、『銀シャリ』の匂いには勝てなかった、ということです。

 父にとっては得意の絶頂期でした。母は苦々しい思いでこれらを見つめることしか出来ませんでした。

 私は父に徹底的に反抗しました。父の言うことを一切無視したのです。大学受験にしても、父の主張する志望校にはせず、担任の助言を受け入れました。受験料と入学金だけは父に出してもらいましたが、4年間の授業料は全てバイトで賄いました。後になって母が話してくれました。“初めのうちは‘あいつなんかに出す必要はない’と言っていたんだけど、そのうちに‘出さなくてもいいんだろうか’と言うようになったの。だから、わたしは言ってやったの。‘あなたが出してもあの子は絶対に受け取らないですよ’って。”と。

 奨学金が欲しかったのですが、父の収入が多いということで却下されました。奨学金を貰った学生が、その金を使って賭けマージャンをしているのを見て癪にさわり、私も覚えて彼らから毟り取ることもしました。後に職場の仲間から“マージャンの神様”というレッテルを貼られましたが、学生当時の怒りがそうさせたのかと思っています。このレッテル、喜んでいいものだろうか、今でも悩ましい気分です。

 こんなこともありました。あまりにも言うことを聞き入れない私に向かって、家族全員が揃っている場で宣告されました。“お前を勘当する。すぐ出て行け!。”と。私は反論しました。“以前、あなたは自分の生き方をよく自慢していましたね。その中で‘俺には沢山の部下がいる。みんな俺に寄って来るし、俺の言うことは何でも聞く。お中元やお歳暮など、使い切れないほど来るだろう’と。私は反論しました。“それはあなた〇〇〇〇の人柄を見てのものか、それともあなたの「専務取締役」という肩書きを見てのものか。私の予想は後者です。肩書きが外れたら恐らく誰も寄っては来ないでしょう。もし、私の予想が間違っていたら、その時はあなたに両手をついて謝ります。ですから、家を出るつもりはありません。”と。実際にはこんな丁寧なやり取りではなかったのですが。結果は、私の主張のとおりになりました。

 小言の多い父でした。毎晩の晩酌の際は小言の連続です。1時間以上も続きます。よく『笑い上戸』とか『泣き上戸』などという゜言葉がありますが、私が名付けたのは『小言上戸』という言葉です。嫌がる子どもたちのために、母は工夫しました。子どもたちだけを先に食事させ、別の部屋へ追いやるわけです。その後、自分だけ残って父の小言を聞くのです。助かりました。

 こんな父でしたが、70才を過ぎてから少しずつ変わっていったようです。ある日、実家を訪問して父と話した時のことです。総選挙が終わった日だったと記憶しています。父が言いました。“俺は〇〇〇〇に投票してきた。”。聞いてびっくりました。共産党の候補者だったのです。“どういうつもり?いったい何があったの?。返ってきた返事は、“そんなこと、お前らに言えるか。”でした。

 やがて「胃癌」になりました。本人はそう思ってはいませんでした。胃がもたれるので入院して食事と薬だけで治癒出来ると思ったようでした。家族には知らされました。必死になって隠したのですが、亡くなる2週間ほど前だったでしょうか、本人に判ってしまったようです。まるで「仏様」のようになっしまったのです。小言も出ず、家族への労わりの言葉なども出るようになったのです。『気づいたな』と思いました。

 死の4日前、病室で父と最後の対話をしました。“お前とは考えの違いで随分やり合ったな。でも、結局はお前の考えが正しかったかも知れない。いいか、男いったん自分の考えを決めたら、めったやたらに変えるな、そんなみっともない真似はするな。自分の信念をずっと持ち続けろ。”

 それまで心の片隅にあった憎しみの感情がすうーっと消えました。これが父の遺言です。

 
コメント (10)
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