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いわゆる「大東亜戦争」の『タテマエ』と『ホンネ』 3 へそ曲がり

2007年10月14日 15時24分40秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
いわゆる「大東亜戦争」の『タテマエ』と『ホンネ』 3


日本のインドネシア占領と独立運動  その 2
   講師;藤原 彰先生(歴史研究者・映画自由ネット代表委員)



●インドネシアは「帝国領土ト決定ス」

 次に、具体的にインドネシアのことを説明します。インドネシアに関しては、日本の領土にする、独立運動はさせない、が基本的な方針です。1943年5月31日の御前会議(【資料4】)で、日本の占領地の具体的な統治の仕方について決定していますが、インドネシアは直接の領土にすると決めております。「マレー、スマトラ、ジャワ、スマトラ、セレベスは帝国領土と決定する」「重要資源の供給源とする」。つまり、独立させないという決定なのです。

 しかもこの地域は、実は日本が占領すると同時に、分割統治にしてしまいました。分割統治になる理由はいくつかあるのですが、最も重要なことの一つは、初期の占領政策にあったということが出来ます。

 戦争が始まると、まず海軍は真珠湾を攻撃して、アメリカの主力艦隊に打撃を与えて、やって来ないようにする。一方は、第二艦隊以下の南方部隊で、この地域の制空・制海権を獲得する。そして陸軍は、先ず25軍という軍隊をマレー半島に敵前上陸させ、シンガポールを攻撃させる。15軍はタイに進出させて国境を越えビルマに向かって行く。16軍はフィリッピンに上陸する。そしてこれに目鼻がついてから、軍隊を二重使用して16軍でインドネシアを占領する、という計画を立てていました。そしてシンガポール攻略、マニラ占領後の翌年2月から3月にかけて、スマトラ更にジャワとインドシナに対する進攻を始めて行く訳です。

 ここに進攻した部隊は、今村均という将軍が指揮する16軍でした。この今村という将軍は非常に誠実で謹直な軍人だったということになっています。この軍隊がインドネシアに進攻して来ますと、インドネシアでは住民が日本軍を大歓迎する訳です。つまり、それまでオランダの植民地支配のもとで苦しんでいましたから、「救世主が来た」、まさに「“ムルデカ”のために日本軍が来た」と大歓迎する。それに応えて今村中将も、占領政策を比較的に住民本位にやろうとする訳です。

 ところが、それに対して大本営でも、南方総軍でも、「今村中将のやり方は寛容すぎる」「威厳をもってもっと厳しくやれ」という批判が高まってくるのです。そうして占領後の1942年3月に、杉山参謀総長が直接ジャカルタ(当時はバタリア)まで出向き、叱咤激励をする。16軍の方針もそれから厳しく変わって行きます。

 もう一つは、そういう16軍にすべてを任かしておくわけには行かないとして、16軍の担当地域を狭くしてしまう。シンガポール(マレー)を占領した25軍の山下奉文に、スマトラまで支配させる訳です。そして、ボルネオは海軍にやらせる。16軍はジャワ島とバリ島だけの狭い地域になる。こうして分割統治になる訳です。

 軍政も、インドシナ全体をひとまとめにするのでなくて、いくつにも分けて支配し、16軍の権限を弱めていきます。こういうこともあって、南方軍と16軍の間にはわだかまりがある。

 そのうち、翌42年、ガダルカナルに米軍が進攻して来ます。ガダルカナルの戦況が悪化してくる。ラバウルに新しく米軍の攻勢を阻止するために第八方面軍というのを作って、その第八方面軍の指揮官に今村を転任させてしまう。今村はジャワから去って、ラバウルに行ってしまいます。

 更に16軍の基幹部隊であった第二師団を引っこ抜いて、ガダルカナルにつぎ込みます。それからも兵力抽出が続いて、16軍は二つの旅団しか残らなくなってしまい、大本営と南方軍は16軍をいじめたと言っていい状態でした。

 そして軍政は資源の獲得、そのために日本の民間商社も随分派遣して工作を始めるのですが、同時にインドネシア人の労力も使うことを考える訳です。

 第一に、日本軍が足りない、守備隊が二つしか残っていない。兵力は43年10月の段階で7,978人。インドネシア人を利用して「兵補」を作り、日本軍の部隊に配属した。この兵補が12,370人。その他、インドネシア人の「防衛義勇軍」というのを作らせた。これは35,360人。なぜこれらを作らせたか、次の問題として説明します。
  

●インドネシア人の力を利用

 太平洋戦争の戦況は、1942年にアメリカがガダルカナルに上陸して、半年間の激戦が展開されます。しかし日本軍は、制海・制空権を失ってガダルカナルの陸兵は飢え、餓死してしまった。ガダルカナル島は餓島と言われ、最終的には撤退します。

 その後、ソロモン群島沿いとニューギニアの北岸沿いに、アメリカ・オーストラリア連合軍が前進して来ます。激戦が展開され、このあたりも戦況が緊迫してきます。

 それまでは、インドネシアは治安が安定している、と日本は考えていた。民衆が日本に対して協力的だから、と。しかし、日本国の基本方針は独立させない、そして資源・労力を提供させるということですから、だんだん化けの皮が剥がれてくる訳です。それでは困る、インドネシア人を日本に協力させるにはどうしたらいいかを、1943年になってようやく考え出すのです。

 最初に考えたのが、日本国内にある大政翼賛会のようなもの、インドネシア人の民族の総力を結集させる「プートラ(=総力結集)運動」を展開させることにしました。そして、闇雲に押さえ付けるだけの軍政から、ある程度インドネシア人の自発的な協力を引き出そうと考える訳です。これは、今村を継いだ原田熊吉という軍司令官が考えたやり方であった。

 ところがプートラ運動をやりだすと、この実権を握ってしまったのがインドネシアの民族主義者のスカルノだったのです。 インドネシアはもともとオランダの領地で、独立を認めない植民地ですから、それに対する反対運動はもともとあります。1920年にインドネシア共産党(アジアでは早い方)が作られ、この共産党がオランダに対して武力闘争を展開していた。さらに1927年には民族主義の政党として、インドネシア国民党が出来る。この党首がスカルノです。この国民党が急速に勢力を伸ばしていきます。

 オランダは、共産党は徹底的に弾圧し、国民党は分裂させます。30年代に入って国民党は、スカルノ派とハッタ派に分かれる。それに乗じて指導者を逮捕してしまう訳です。

 彼らは日本が進攻したことによって釈放されますが、日本はインドネシアの独立を認めないというのが方針ですから、活動はさせない。活動はさせないけれど、戦況が逼迫して来てインドネシア人の協力が必要ということで、プートラ運動を始める。始めるとスカルノは実権を握ってしまう。これはまずいということになって、43年には逆に弾圧を始めることになります。そして大政翼賛会のようなもので、「ジャワ奉公会」というものを作らせます。

 一方、プートラ運動を始めたときに、ジャワの防衛は民族の自主性を結集するということですから、インドネシア人にやらせようという趣旨のもとに、「防衛義勇軍」を作らせます。ジャワ島に66大団、バリ島に3大団、計69大団、36,872人のインドネシア人の軍隊を作らせて行く訳です。

 しかし、プートラ運動を弾圧し、さらに奉公会に変えさせても、武器をもったインドネシア人、武装訓練した部隊が残る訳です。これが後にインドネシア独立運動の有力な母体になります。これに影響力をもったのがスカルノであった。もちろん大した武器は持たせないのだけれど、しかし団体の軍事訓練をしていることで、これが後の戦いの有力な土台になったということが言えます。

 1943年御前会議で「大東亜政略指導大綱」を決定した後、1943年11月に東條が「大東亜会議」というものを東京で招集します。この大東亜会議には、大東亜の各指導者~満州国、中華民国の日本傀儡政権、タイ、日本が独立を認めたビルマ、フィリピンの指導者を集めるのですが、インドネシアは呼ばない。スカルノは呼ばれません。インドネシアは完全に領土にしてしまおうという考え方ですから、独立を認めない、それどころか、現地の自治も認めていないからです。

 ところが大東亜会議の後、軍事訓練をした防衛義勇軍が存在しているインドネシア民衆の中には、特に16軍関係、ジャワ島ではスカルノ、ハッタの指導する民族運動が急速に広まって来ます。独立の要求が非常に強く、中央の方針では抑え切れなくなって来ます。そうすると現地の16軍が板挟みになってくる。

 16軍というのは、日本の軍隊はほとんどいなくなっており、一方その何倍もの義勇軍がいる訳で、そんな方針でやっていると統治できない。それで、16軍当局は板挟みとなって現地人の要求を認めざるを得なくなってくる。中央の方針と現地の方針とが、非常に食い違ってくる。

 しかし、戦況はますます悪化してくる。1944年(昭和19年)になると、ニューギニアがアメリカ軍に押さえられ、さらに壕北地区(オーストラリアの北)が戦場になる。アメリカ軍の対日反抗の拠点はオーストラリアで、マッカーサーはオーストラリアにいて日本に対する反抗を指揮している。だからニューギニア沿いにアメリカ軍がやってくる訳ですが、今度はここに来るのではないかということから、この地域に第二方面軍(最後の陸軍大臣・阿南惟幾を軍司令官にする)を作る。そしてティモール島やこの地域の防衛を強力にし、ジャワ島に対してインドネシア人を日本に協力させるため、その要求をある程度認めざるを得ないという立場に立ってくる。

 7月に東條内閣が倒れ、小磯内閣が生まれる。小磯内閣は「将来は東インドの独立を考える」という方針に転換するのです。現地の16軍は、そういう方針が出たということで、「独立準備調査会」というのを設置(1945年3月)し、「調査会」にスカルノなどを入れて、義勇軍が日本軍に反抗しないよう(一番怖いことだから)、「将来は独立させてやるかも知れないから、その準備を始めるのだ」というような状況のもとで、日本軍の戦況はますます悪化し、ついに45年8月15日を迎えることになります。
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●降伏後も、日本軍は独立運動に敵対し弾圧する

 45年8月15日がどういう時かというと、スカルノは当時サイゴンに行っていた。サイゴンには日本の南方軍の総司令部があった。スカルノは、南方軍の総司令部に独立を認めるよう要求しに行っていた時だった。

 スカルノは大急ぎでジャワに帰ってくる。そのころスカルノは何を考えていたかと言えば、「日本軍には抵抗しない」「日本の後押しで独立を勝ち取るのだ」と穏和な考え方だった訳です。ところが防衛義勇軍の若手の幹部たちは、「今すぐ独立を!」という強い意志をもっている訳です。

 ~という状況下で、日本の降伏が決まります。8月14日にスカルノは、ジャカルタに帰って来ます。スカルノが帰って来たことが分かると、日本の憲兵は「彼を義勇軍に行かせてしまっては、反乱を起こすかもしれない」ということで、押さえてしまうと同時に、日本軍は「軍のもっていた武器弾薬は渡さない」とする基本方針を決めるわけです。

 要するに日本軍は、「連合軍に降伏したのだから、連合軍側の言い分を聞いて、インドネシアの独立要求を抑えよう」と決めるのです。ここから激しい事件が起こってくることになります。

 8月17日、スカルノは日本憲兵から逃れ、防衛義勇軍の側に立って防衛義勇軍の独立要求を宣言する立場に立つ。8月17日、スカルノとハッタは、ジャカルタでインドネシア独立の宣言を行います。

 インドネシア独立は言うまでもなく、日本軍によって分割されているジャワ島だけでなく、東インド全体を独立させるというものです。そういう宣言です。

 それに対して連合国側は、それを認めない。とりわけ本国オランダはどうなっていたかと言えば、オランダ本国はドイツに占領され、亡命政権がロンドンに出来る。その亡命政権が実効的に支配出来るところはどこもないのです。本国が取られているのですから。そうすると、インドネシアを英米軍に回復してもらって、それを自分のよりどころにしたいと考えている。非常に強く独立反対の立場に立っているということが出来ます。

 実際、最初にやって来てのはオーストラリア軍です。その前に日本軍に厳しい命令を出す。武器の引き渡しを要求する。インドネシア独立軍(もとの防衛義勇軍)と、渡す、渡さないで、抗戦になる場合もある。ただし、末端の兵士まで同じ行動したかというと、対応がバラバラになる。

 その中で大きな事件は、10月に起きた「スラバヤ事件」です。スラバヤの独立軍が、日本軍の兵器を奪おうとしました。それに対して、やって来たオーストラリア軍と日本軍が一緒になって、大規模な戦闘になる。このスバラヤの戦闘では、独立軍が勝ちます。しかし、そうした激しい戦闘が起こって、結局11月にスラバヤで独立軍が勝利することから、戦争が全面化して行きます。

 その戦争は結局4年間、1949年まで続きます。その間に日本軍は、段階的にインドネシアから撤退して行きます。オーストラリア軍も撤退し、オランダ軍に替わって行くのですが、オランダ軍の力ではインドネシア独立軍を抑えることが出来なくなってしまう。植民地戦争の闘いとしては、第二次大戦後の世界の中では比較的早く独立側の勝利に終わり、1949年12月にハーグ協定が結ばれます。

 ハーグ協定では、オランダはインドネシアの独立を認め、独立軍の勝利が決まる。インドネシア共和国が成立する訳です。ベトナムのように、その後30年間も独立戦争を続けるところもありますけれど、オランダが割合力が弱かったということと、国際的批判があり、現実を認めなくてはならないのではないか、という声があった。特にイギリスは、インド、ビルマと独立を次々と認めていますから、そうした世界情勢の中でオランダも認めざるを得なくなって、結局4年間の独立戦争の後にインドネシアは独立し、国際社会の中でも認められて、インドネシア共和国が成立することになります。初代大統領は、その独立運動のシンボルであったスカルノが就任します。

 ここで問題なのは、この独立に対して、日本がどういう立つ場であったのか、ということです。

 日本は、基本的には、インドネシアは独立させず、日本直轄の領土にすると言ってきたわけです。インドネシア人を、「兵補」とか「義勇軍」とかに編成したのも、日本軍の下働きをさせる意味だった。ですからインドネシア人は、兵補という形で日本軍に直接使われたり、或いは労務者として連れて行かれたりした。またインドネシアへは、軍隊だけなく商社もいっぱい資源開発のために出て行っている。日本人の人口は、軍隊よりも多かった。その人々のために、インドネシアの女性が何万人も慰安婦にされた。ということで、結局日本はインドネシアの独立の援助をしたのではなく、それを抑えた側に終始立っていた。

 そして、最後の段階で、戦争の局面が悪くなってきた時に、インドネシア軍の離反を防ぐために「将来は独立させてやる」といって日本軍に協力させる、防衛義勇軍を作らせるわけです。ところがその防衛義勇軍が何のことはない、独立軍の下になってしまった。兵補や義勇軍が独立軍の主要なメンバーとなって、日本軍と闘う。

 8月16日、日本軍は義勇軍と兵補を解散と決定しました。解散命令を出して武器をみんな取り上げようとする。ところがそうはうまくいかない。日本の降伏を知った兵補や義勇軍は、解散命令にも、武器の取り上げにも従わない。「将来独立させる」とした約束の取り消しも認めないということになります。その後、武器弾薬をめぐって日本軍とインドネシア軍の闘争が続くわけです。

 結局日本は、インドネシアの独立を救けたのでなく、妨害した。妨害したけど、結果的には彼らは日本と闘うことで力をつけ、やがてやって来たオランダ軍に勝利したということになります。
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●日本軍がアジア諸国の独立を救けたのではなく、日本と闘うことでアジア諸国民は強くなって行った
 
これは、東南アジア全体に言えることです。例えばビルマの場合、日本は形式的にはビルマの独立を認めました。認めたけれども、実質的には政治、外交、経済の実権を日本は握っていたわけです。日本がビルマに侵攻して行く時は、インドネシアの場合とは異なって、ビルマ人をあらかじめ訓練して「ビルマ独立義勇軍」を作らせておいて、これを連れて入って行った。これらはビルマ独立とともに、ビルマ国軍になるわけです。ところで、このビルマ国軍はどうしたか。日本の本心を見抜いているわけです。そこでインパール作戦で日本が負けると、反乱を起こしてしまう。日本軍の背後から日本軍を襲うわけです。この反乱を起こしたビルマ国軍の司令官がアウンサンで、例のアウンサン・スーチーさんのお父さんです。この人が、戦後のビルマ独立の先頭に立ち、日本軍と闘うことで独立したわけです。

 ベトナムもそうです。「ベトミン」(ベトナム独立同盟)は、日本と闘うことで力を貯えて、戦後の長い反仏闘争、さらに反米闘争を闘い抜いて、今のベトナムを作って行く訳です。

 日本軍がアジア諸国民の独立を救けたのではなく、日本と闘うことでアジア諸国民が強くなって行ったのです。中国共産党の周恩来が、冗談に「中国革命は日本のお陰だ」と言ったと言われていますが、それと同じことで、結局インドネシアの場合も典型的な例であった。日本はアジア解放とか、インドネシア独立を考えたのではない。初めから日本に必要な物を取り上げる、資源豊かだから占領する、と考えて、そういう方針をもって臨んで行った。そして独立運動を弾圧したのです。

 レジメにある「シンガパルナ事件」と「ポンティアナク事件」は、いずれもインドネシア独立のために闘った独立運動と、それに対する日本軍の徹底的な弾圧の例です。

 「シンガパルナ事件」というのは、この被害者が今日本に呼ばれていて証言集会をやっていますけれど、これは昭和19年の2月にジャワ島のシンガパルナという町で、イスラム教の寺院に対して日本が弾圧を加えた。神社参拝や天皇崇拝を強制した訳です。イスラム教の教えに反すると抵抗した者を、徹底的に弾圧したという事件なのです。

 「ポンティアナク事件」、これはボルネオの西にある大きな町ですが、ここは古い領主が支配している訳ですけれど、その領主が日本日本対して抵抗を企てたということを口実に、領主や華人を大量虐殺している。

 どちらの事件も戦後、戦犯裁判で裁かれていますけれど、これは一つの例でありまして、いたるところで独立運動、日本に対する抵抗運動が、日本憲兵や軍隊の厳しい弾圧に遇って、大量虐殺が行われている。つまり、きれいごとでは決してなかった。

 日本は、インドネシアの独立を救けにいったのではなく、それを抑えに行った。しかしその日本軍と闘うことで、インドネシアの独立は成し遂げられてのだ、というのが真実であります。

 それを美化して、「日本はインドネシアの独立を救けたのだ」、あるいは「アジアを解放したんだ」といった見方は、この戦争の真実を完全に歪める言い方に他なりません。この前の映画『プライド』がそうであったように、日本の軍国主義の復活の宣伝に使われることを、大変恐れるものであります。
               (拍 手)

*                   *

【資料1】1941年12月20日大本営政府連絡会議決定の「南方占領地行政実施要領」

   第 ―  方  針  占領地ニ対シテハ差シ当リ軍政ヲ実施シ、治安ノ恢復、重要国防資源ノ急
  速獲得及作戦軍ノ自活確保ニ資ス
  占領地域ノ最終的帰属竝ニ将来ニ対スル処理ニ関シテハ別ニ之ヲ定ムル
  モノトス

   第 二  要  領  七、国防資源取得ト占領軍ノ現地自活ノ為民生ニ及ボサザルヲ得ザル重圧
    ハ之ヲ忍バシメ、宣撫上ノ要求ハ右目的ニ反セザル程度ニ止ムルモノトス
  八、現住土民ニ対シテハ皇軍ニ対スル信倚観念ヲ助長セシムル如ク指導シ、
    其ノ独立運動ノ如キハ過早ニ誘発セシムルコトヲ避クルモノトス

【資料2】1941年12月26日決定の「占領地軍政実施ニ関スル陸海軍中央協定」

  陸軍ノ主担任区域 香港、比島、英領馬来、「スマトラ」、「ジャワ」、英領「ボル
              ネオ」、「ビルマ」
  海軍ノ主担任区域 蘭領「ボルネオ」、「セレベス」、「モルッカ」群島、小「スン
              ダ」列島、「ニューギニア」、「ビスマルク」諸島、「ガム」島

【資料3】1941年12月12日閣議決定の「南方経済対策要綱」

  甲地域  軍政を実施する占領地(比島、英領馬来、英領ボルネオ、蘭印)  乙地域  現地政権と共同する地域(仏印、タイ)
  南方資源を中央の物動計画に織りこむことを主とする

【資料4】1943年5月31日御前会議決定の「大東亞政略指導大綱」

 六、ソノ他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通リ定ム。但シ(ロ)(ハ)以外ハ当分発
   表セス。
  (イ) 「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重
     要資源ノ供給地トシテ極力コレカ開発並ヒニ民心把握ニ努ム。
  (ロ) 前号各地域ニオイテハ原住民ノ民度ニ応シ努メテ政治ニ参与セシム。
  (ハ) 「ニューギニア」等(イ)以外ノ地域ノ処理ニ関シテハ前二号ニ準シ追テ定ム。
  (ニ) 前記各地ニオイテハ当分軍政ヲ継続ス。


 また、このブログの右の欄でも紹介されている「右翼討伐委員会」のサイトの中の今年の1月のに当時のインドシアの実態が紹介されていた。縮小コピーしたらA4でなんと100枚にもなってしまった。
「保守系」氏もこのひとつひとつを検証しながら、自分の主張の[正しさ?]を裏付けてほしいものである。
 歴史は非連続ではないと言いながら幕末からの連続性を断ち切ってしまう、侵略戦争を正義だと言う。もっと歴史を研究して欲しい。「楽石」さんの言われるとおりである。 
 
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皆さん、ありがとう 文科系

2007年10月14日 08時59分58秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
11日、12日の拙稿への討論を、楽石、まもる、ネット虫さん、どうも有り難うございました。非常に刺激的で、面白い討論ですね。この討論をさらに深めるつもりで、書いてみます。
僕が最も言いたいこと、最大の問題意識をもっと分かりやすく話すことができるという気がしています。11、12日の拙稿とコメントをもっと整理して語るように、箇条書きにしてみます。

①まず、現在の国連の弱点をあげ、「これに期待はできない」という論点だけじゃダメだ、二つの意味でダメだということです。
第1は、それらしく育てていくという方向も含めて長期的・論理的に「世界公軍」を語る視点がどうしても必要だということ。これがあってこそ私軍の私軍性もはっきりできるということです。
第2は、クゥエート侵略やルワンダや旧ユーゴのような酷い国際的事件が起こる度に公軍というものが世界に問われるはずで、その時に日本の9条擁護派が今のままなら何も語れずに、出番はなく、説得力に欠けるということです。9条擁護発言だけでは、そういう酷い現実の前に破れていく、つまり9条擁護も果たせないのではないかということです。グローバリズムが続く間は、ルワンダのような酷い現実も増えるばかりだろうと、そんなこともこれに付け加えたいと思います。

②だからといって、日本が国連公軍への軍事参加を今せよとか、ましてや9条の「武力行使放棄」を変えよとかを、僕は言いたいわけではありません。それは11日投稿の最後に書いたとおりです。
まず、「武力行使放棄」ですが、これは永久に変える必要はないと思います。9条文脈を見れば分かるとおりに「国権の発動たる戦争に関わる武力行使」と読めるからです。日本国は、国権の発動たる武力の行使は永久にこれをしない、これは良い。
ところで、「国連公軍への軍事参加」の長期的な論点はちょっと違うと、僕は思います。そこでは武力の行使はありうるが、これが「国権の発動たる戦争に関わる武力行使」でないのは自明でしょう。あるべき国連公軍を目指しその発動もあり得るということでは、日本国憲法ができた時代とは状況が随分変わっているはずですし、これからどんな状況になっても日本はずっとそれに参加しないと言いうるものでしょうか。つまり、国連公軍が必要ではないかと発言するときには、普通ならば義務も生じるだろうと、こういうことです。これがいつ日本に起こりうるかはともかくとして、この論議は今でももう避けて通れるものではないと思います。

③以上のような議論一切に対しても憲法上の「武力の放棄」を対置することは、抽象的な教条を掲げて日本をその論議の外に置くに等しいことではないでしょうか。そして、クエート侵略のようなことを眼前にした場合のそういう立場は、有志連合私軍を事実上黙認することにもしかならないと思うのです。
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