名古屋大空襲1の2
やっと鶴舞公園まで来たものの、長兄はここへ入ることを許しませんでした。“ここには高射砲陣地がある。爆撃されるかも知れない。”ということです。
北の方へ逃げ、東新町まで来ました。この辺りはすこと前に空襲を受けたのでしょう。焼け残ったビルがいくつかあったのですが、ここなら安全と思ったのか、その中の1つに入りました。
すでに、何人かの人がいました。ひとりのおばさんが“持ち出すことが出来たのはたったこれだけだった。”と言ってコンロと食パンを見せてくれました。
“坊やたちも食べるかい”と言って、千切って焼いたパンをくれました。とてもおいしかったことを憶えています。
やがて空が明るくなったので、家へ戻ることにしました。私の家はもちろん辺りの家は全て焼け落ちています。
防空壕を見てびっくりしました。「ぺしゃんこ」に潰れていました。逃げずにあそこにいたら、私の命は7歳で終わってたでしょう。
近所に父の兄夫婦がいました。ここも命令で建物が壊されていたのですが、奥の「蔵」だけが残され、叔父夫婦はここに住んでいました。
父と母はここにいました。消火の際の煙と炎のせいか、一時的ですが、母は眼を開けることができませんでした。塞がった目から涙が出ていました。“何もかも無くなってしまった”と泣いていた光景がまだ目に浮かびます。
島根県にある母の実家へ送ろうと準備していた荷物は全て燃えてしまいました。残ったものは避難した際、兄たちが引いていた乳母車の下着などと、空襲の数日前に母が庭の一隅に埋めた食器だけでした。(続く)
やっと鶴舞公園まで来たものの、長兄はここへ入ることを許しませんでした。“ここには高射砲陣地がある。爆撃されるかも知れない。”ということです。
北の方へ逃げ、東新町まで来ました。この辺りはすこと前に空襲を受けたのでしょう。焼け残ったビルがいくつかあったのですが、ここなら安全と思ったのか、その中の1つに入りました。
すでに、何人かの人がいました。ひとりのおばさんが“持ち出すことが出来たのはたったこれだけだった。”と言ってコンロと食パンを見せてくれました。
“坊やたちも食べるかい”と言って、千切って焼いたパンをくれました。とてもおいしかったことを憶えています。
やがて空が明るくなったので、家へ戻ることにしました。私の家はもちろん辺りの家は全て焼け落ちています。
防空壕を見てびっくりしました。「ぺしゃんこ」に潰れていました。逃げずにあそこにいたら、私の命は7歳で終わってたでしょう。
近所に父の兄夫婦がいました。ここも命令で建物が壊されていたのですが、奥の「蔵」だけが残され、叔父夫婦はここに住んでいました。
父と母はここにいました。消火の際の煙と炎のせいか、一時的ですが、母は眼を開けることができませんでした。塞がった目から涙が出ていました。“何もかも無くなってしまった”と泣いていた光景がまだ目に浮かびます。
島根県にある母の実家へ送ろうと準備していた荷物は全て燃えてしまいました。残ったものは避難した際、兄たちが引いていた乳母車の下着などと、空襲の数日前に母が庭の一隅に埋めた食器だけでした。(続く)