いわゆる「大東亜戦争」の『タテマエ』と『ホンネ』 2
なお、「保守系」の論客たちが自慢気に語る「アジア解放のための戦争」ということでよく「インドネシア」の例を引き合いに出している。
ところが、「Google」で《大東亜共栄圏》と入力して検索したサイトの1つに【 インドネシア占領と独立運動(講演録)】というのを発見した。歴史学者の「故・藤原 彰」氏がその実態を生々しく語っている。「南方作戦」の『ホンネ』がずばりと出されている。
これも“長過ぎる”とのお叱りを受けることを覚悟の上で、2回に分けて転載したい。
日本のインドネシア占領と独立運動 その 1
講師;藤原 彰先生(歴史研究者・映画自由ネット代表委員)
●はじめに
あの戦争がアジアの解放のための戦争だったのか、それとも日本の戦略戦争だったのかについては、戦後50年以上経っているのに、まだ日本の国内では真っ二つに意見が対立しています。
あの戦争は自衛の戦争であり、アジア解放の正しい戦争だったという意見と、そうではなくアジアに対する侵略戦争だったという見方とが、真っ向から対立しているのが実情です。そしてその点に関しては、日本国内の議論が全く世界から孤立していると言ってもいい。日本の国内では、戦争が侵略戦争であったというのはむしろ少数派で、戦争は自衛戦争であった、アジア解放の戦争であったという考えが多数派です。政治家なんかにも多いのですが、これが外国に知られると、ものすごい反発を買うわけです。
欧米諸国もアジア各国も、あの戦争は日本の侵略戦争であったことで一致しています。日本がアジアの各国を独立させたのではなく、日本に対する闘いがアジア各国に独立をもたらしたのだ、ということは、歴史の真実だとして各国で認められている事実なのです。それに反するような考え方が日本から伝えられて行くと反発を買って、日本はアジアでは尊敬される国ではなくて、むしろ嫌われ、非難される国になっているというのが実情です。
そこへまた、この前(=映画『プライド』のこと)と同じ考えを持った映画(=『プライド』第2弾として製作発表された映画『ムルデカ(仮題)』のこと)が作られるというのは、大変残念なことです。
●日中戦争の行きづまりから“南進”へ
今日はごく大雑把に、いったい日本のインドネシア侵攻とは何だったのか、その中で起きてきた独立運動とはどんなものだったのか、をお話したいと思います。
日本が今のインドネシア(当時はオランダ領=蘭印)への進出を具体的に考え出したのは、そんなに古いことではありません。1940年前後からです。それは何故か。それは日本が中国との戦争に行きづまったからです。日本は中国を簡単に征服できると思って全面戦争を始めたのは、1937年です。ところが中国の抗日民族統一戦線の抵抗で、思ったように簡単に中国は片付かない、泥沼の長期戦に陥ってしまいました。
日中戦争が日本にとってどれだけ負担であったかを考えてみます。当時日本陸軍は、基本的にソ連を日本の敵と考えていて、対ソ戦争の準備を進めていました。また海軍は太平洋の覇権をアメリカと競うという目的で、対米戦争の準備をしていました。
そして1936年(昭和11)に「2.26事件」という軍部のクーデターが起こります。この事件は、事件を起こした連中は処分されますが、日本の右傾化、戦争への道を大きく展開させるきっかけになりました。
この直後から軍部の発言権が大きくなって来て、日本の基本国策として、国策の基準というものを決めさせて、陸・海軍備の大拡張に乗り出して行くことになります。その計画とは何か。ソ連を相手にして勝てるだけの陸軍と、アメリカを相手にして勝てるだけの海軍を、同時に作ろうという内容なのです。
そして陸軍は、1937年を第一年度として陸軍軍備充実6カ年計画、海軍は第三次補充計画~「戦艦大和」や「武蔵」などの馬鹿でかい戦艦を作る計画を立て、軍備拡張に乗り出した。
その第一年目に、中国との戦争が全面化するわけです。ですから中国との戦争は、日本の軍備拡張計画の障害になるのですが、それほど大きな戦争と考えていなかった。脅かせば中国は簡単に屈服すると考えて、近衛首相や杉山陸相や広田外相は戦争拡大の道をとったのです。
ところが、これが思いがけぬ大戦争になってしまいます。陸軍は100万の大軍を中国戦場に送り込みました。これは日清・日露戦争に比べて、はるかに多い大軍です。しかもそれでも中国を屈服させることはできない。戦争は長期化していきます。戦争の消耗も非常に大きくなって、戦費がものすごくかかってくる。国民生活は、そのために非常に圧迫させられました。
しかも一方では、ソ連と戦争するための大陸軍計画を実行している。一方では、アメリカと対抗する大建設計画を同時にやっている。軍備拡張をやりながら、一方で戦争をやっているということで、当時の国家予算を考えて見ますと、昭和初期の国家予算というのは一般会計の歳入・歳出20億円、それが1936年(昭11)「2.26事件」以降急速に国防・軍備充実を言い出して、30億円に膨れ上がってしまった。しかし30億円に膨れ上がった年度予算の他に、その何倍、何十倍もの臨時軍事費を使う戦争が進行していくわけです。
そしてその軍費~特に日露戦争のような大きな戦争はどうやって戦争したかというと、戦争に使う臨時軍事費は、アメリカとイギリスから借りたのです。ロンドンとニューヨークで外債を発行して、その戦争を賄ったのです。つまり、外国のお金を借りて戦争をしたのです。ですから戦後にそのお金を返すために非常に苦心した訳です。
今度(日中戦争)は、日本は世界で孤立しているのです。国際連盟を脱退して、不戦条約に反して中国と戦争している訳ですから、アメリカからもイギリスからもお金は借りられない。結局その戦費は、国内から調達しなければならない。つまり、国債を発行した訳です。
どのくらい乱発したかと言いますと、太平洋戦争の終わりまでに出した国債は1,800億円。これは単年度の国家予算の90年分です。普通ならば破産です。しかも国債という形で国民から借りた訳で、返せるわけないんです。年収の90年分なのですから。
どうやったか。手品を使ったのです。戦後に調整インフレ(=国が計画的に起こすインフレ)を起こしてしまった。そうしたら、借金がパーになってしまいます。その分どうなったか、国民全部が貧乏になってしまった。そういう戦争の仕方をした訳です。それほど大きな戦争だったのです。ですから、国民生活はトコトンまで窮屈になって行く訳です。
しかも、一方では軍備拡張しなくてはならない、国際的には孤立している、外国から物が入って来ない、貿易もできない、ということになって、日中戦争の行き詰まりから日本が目をつけたのが、資源の豊かな東南アジアだったのです。日本にない軍事資源が沢山ある。鉄も石炭もニッケルもタングステンも、とりわけ重要な石油もあるということで、南方へ出て行こうとするのが、日中戦争が行き詰まってからなのです。
●きっかけは、ヨーロッパ戦線でのドイツの勝利
そうした状態の中で、特に大きなきっかけになったのが、1939年(昭14)から始まったヨーロッパの戦争です。ヨーロッパ戦線は、最初の半年から一年は戦線も動かなかったのですが、翌年1940年春にドイツが電撃的に勝利します。つまりオランダ、ベルギー、フランスを征服してしまったのです。
東南アジアは、それらの国の植民地です。当時、ニューギニアの西半分から、スラウェシ、ボルネオ(カルマンタン)、ジャワ、スマトラの地域は、オランダの植民地です。それからベトナム、ラオス、カンボジアはフランスの植民地。マレー、北ボルネオがイギリスの植民地です。
そのフランスとオランダがドイツに征服されてしまった。主人がいなくなってしまった。これを取れば行き詰まった戦争経済を何とかすることができる。つまり、南方の資源地帯が必要だ、しかもそこの主人が負けてしまった、これは絶好のチャンスだ、という考えが急速に日本の指導部の中に広まった。特に軍部がそう考えるようになりました。
とりわけ魅力だったのが、石油です。当時、石油は今のように中東では発見されていません。日本の石油はどこから入って来たかというと、アメリカから買っていたのです。この時期の日本の貿易の最大の相手国は、今と同じアメリカでした。そして日本がアメリカから買っていたのは、石油と鉄、それと工作機械。特に鋼鉄です。日本の製鉄業はまだ充分に発達してなくて、鉄鋼一環ができていなかったのです。だからアメリカからクズ鉄を買って来て、鋳造し直して戦車や軍艦を作っている、という状態だった訳です。
日本はアメリカに何を売っていたかというと、生糸と絹織物です。つまり農民が厳しい労働の中で作り出す蚕を製糸女工さんが紡いで作る生糸が、日本の最大の輸出品だったわけです。生糸で軍艦を買った、と言われているように、対米輸出品の最たるものであった。
ですから当時日本は、国内総生産というのは、1940年前後でアメリカの16分の1しかない。しかも日本国内の工業は充分に発展していなくて、鉄と石油をアメリカから買っているわけです。日本がアメリカに輸出しているのは、生糸と絹織物です。その国がアメリカに戦争を吹っかけるなんて、もともと考えられないわけです。無謀ですから。しかし、南方を占領しようとは考えていた。つまり、必要なものはこっち(東南アジア)から取れる、と考えたのが、最初の南進のきっかけです。
“南進”という考えが起こってくるのは、フランスがドイツに負けたことがきっかけです。1940年の春にドイツが勝利します。そうすると日本国内が沸き上がって、新体制を作ろうとする。新体制というのは、ドイツのような一国一党の強力な政治体制を作って、総力を戦争経済に集中しようという体制です。そして同時に南進をする。
具体的には、三国同盟(ドイツ・イタリア・日本)を結ぼうという考え方が急速に広がって来ます。そのために新しい政権を作ろうということでかつぎ出されたのが、近衛でした。長引く中国戦争に嫌気がさして、1939年初めに近衛は内閣を投げ出していたのですが、その近衛をもう一度出馬させて新体制を作り、この方向に大きく転換しようという考え方が、昭和15年、1940年の新体制運動だったわけです。その先頭に立ったのが軍部です。そして、米内内閣を倒して第二次近衛内閣が誕生します。
第二次近衛内閣がまず決めたことは、ドイツと同盟を結ぶ、南方に進出する。具体的には、まず仏印に軍隊を進めるということを決める。これが日本の南進の第一歩だった。
この年は仏印まで来るのですが、本当の狙いはオランダ領のインドネシア=蘭印でした。日本が仏印に軍隊を進めたということは、明らかにインドネシアに行くための軍事的拠点であるということは分かりますから、これに対してはアメリカもイギリスも強く反発します。アメリカはフィリッピン、イギリスはシンガポール・マレー・北ボルネオを領土としている。明らかに近い。日本の南進は、日本の侵略が更にこちらの方に広がって行くのだということを示す兆候と考えて、アメリカもイギリスも日本に対して強硬な手段に訴えて来ます。
それは経済封鎖。特にアメリカは、この40年には日米通商条約を破棄して、日本が武力行使をするのなら石油を売らないぞ、ということをほのめかすわけです。
鉄も石油もアメリカから買っていて、そのアメリカに戦争をしようなどということは考えられない。軍艦も飛行機も、鉄がなければ作れないし、石油がなければ動きませんから。アメリカに対して強硬な態度を取ることは大問題なのですが、この頃の陸軍は、アメリカとはやらないで、オランダとイギリスをやっつけようと考えているわけです。フィリッピンを素通りして、こちら(マレーやインドネシアなど)だけ取ればアメリカは戦争しないのではないかと、非常に虫のいいことを考えている。
アメリカはそれが分かっているから、南進そのものを認めないという態度を強く取っています。
とりわけ(日本の)海軍は、アメリカに石油を止められたら戦争は出来ない、それでは困るということで、海軍は猛烈な勢いで1940年前後にアメリカから石油を大量に買いまくるのです。つまり、買い溜めをしたわけです。
アメリカは資本主義国ですから、日本が高いお金でなんでも買おうとすると、いくらでも売るわけです。日本はジャンジャン石油を買って、備蓄する。そして海軍が考えたことは、アメリカから買い込んだ石油がある間にやっつけてしまおう、ということでした。
翌年41年になりますと、日米交渉が緊迫して来ます。アメリカと日本の最大の争点は、アメリカは「中国から撤退しろ」「侵略をやめろ」ということであり、日本はアメリカに「石油を売れ」ということだった訳で、これは解決出来ることではなかったのです。
どうなったかと言えば、はじめは南方進出に対し、アメリカと戦争になるのではないかと慎重だった海軍も、この時期に急速に対米主戦論に変わっていきます。どうしてか。今有る石油のあるうちにやってしまおう、どうせ戦争するのなら早い方がいい、と考える訳です。
1941年秋、日米交渉が緊迫化する中で、日本は開戦に踏み切ります。開戦に踏み切るときに初めて、具体的に日本の南方作戦計画が考えられるようになります。それまで日本陸軍は、主敵はソ連で、対ソ戦争のことばかり考えて計画をし、準備をしていたわけです。軍隊の訓練は、すべて対ソ戦の準備でした。
私は当時、士官学校の生徒でしたが、もっぱらソ連との戦争の訓練をしていました。アメリカとの戦争など、考えていなかった。
ところが日米交渉がうまく行かない、思い切って一か八かで南方に出て行こう、と日本は考え出す。考え出すときに日本は、この地域を占領することを計画する訳です。
●もともと勝つ方法のない戦争
この戦争する目的は何かと言えば、中国との戦争に行き詰まって南方の資源が必要になったから、この地域の資源を取る、というのが軍事目的なわけです。しかし、その地域の物質がほしいと言って出て行けば、アメリカ、イギリス、フランスを敵にして戦争を始めるということになる。
中国とずっと戦争を続けていて、その戦争にさえ勝てないで、行き詰まって南へ行く。それはもっと大きな戦争になってしまうのですが、普通戦争を始めるときに、負ける積もりで戦争をやるという人はいないわけで、どうやって勝とうとしたのか。勝つ方法などないのです。 国策を決める大本営政府連絡会議でも、戦争をやると決めておいて、対米開戦を決めた後で何を考えたかというと、戦争をどうやって終わらせるか、この戦争の名目は何にするか、ということを後で決める訳です。
勝つ方法のない、例えば、クラウゼヴィッツというドイツの軍人が、『戦争論』というのを書いています。~それが気に入って小林よしのりというマンガ家がまた『戦争論』というのを書いていますが~戦争に勝つということは、相手の戦争意志を屈服させることだと定義しています。相手の戦争意志を屈服させるということは、相手国を占領する、あるいは相手の軍隊を完全に破壊することだ、としています。
ところが、日本がアメリカと戦争をしてアメリカに勝つということは、太平洋を横断して西海岸に上陸し、更にロッキー山脈を越えてワシントン、ニューヨークを占領するということです。とても考えられません。さすがに誇大妄想の軍人も、そこまで考えていない訳です。勝つ方法がないのです。
ですから、この戦争終結の腹案を作る大本営政府連絡会議の決定は、「南方地域を占領して、そこの軍事資源を活用して長期不敗の体制を整える。長いこと負けないでいる。そのうちヨーロッパでドイツが勝ってくるだろう。そうしたらアメリカも嫌になってくるだろう」という他力本願なことしか考えなくて、それで戦争を始めている訳ですから、随分無責任な話ですが、これが大本営政府連絡会議の決定だったのです。
もう一つ、南方地域を占領するその目的は何か。その地域の独立を助けるというのではないのです。全然逆なのです。【資料1】の「南方占領地行政実施要綱」には、「重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保」とある。要するに石油、鉄など必要な物を取る。これが第一目的。第二目的は、出て行った軍隊は日本から物を送らないでも自活してやって行くこと。さらに資源の確保と占領軍の現地活動のためには、民衆を圧迫することになるけれども、我慢させるのだということです。それから宣撫上の要求=つまり民衆をなだめるために必要なことは最小限にする。これが基本方針。
更に現地人に対しては、日本軍に対する信頼関係をもたすようにさせて、独立運動の如きは起こさせないようにするのだ、ということを大本営政府連絡会議で決めています。つまり具体的な方針は、独立運動をさせないのだ、物を取ることが目的なんだ、ということをはっきり謳って戦争を始めた訳です。
そして始めてみると、当時ヨーロッパ諸国は、ドイツが英本土に上陸するのではないかという危機が迫っている時ですから、ヨーロッパが第一です。アメリカもドイツが主敵だと考えている。日本をやっつけてもドイツは困らないけれど、ドイツをやっけてしまえば日本なんぞ簡単に片付けられるだろう。だから、ドイツに対して全力で集中するのだということが、アメリカの最初の方針なのです。
だから、こちらの方は手を抜いている。ですから初期の作戦は割合計画通りにうまく行き、最初の三カ月で英米軍を打破してこの地域を占領してしまいました。
ではその占領した地域を具体的にどうするかと言えば、「軍政」を敷くわけです。独立させるのでなく、軍が直接統治関与するのです。そして、その軍政の担当を、勢力争いをしている陸軍と海軍が分割するわけです。海軍はボルネオ、セルベス、ニューギニア、陸軍はそれ以外、ということで分割した。ようするに陸・海軍が分けて占領する、分割統治をすることを決めるわけです。(【資料2】)
更に【資料3】は、軍政の具体的なやり方を決めているのですが、現地政権を利用して一応何とかしようと考えているのが、仏印とタイです。
タイは、曲がりなりにも独立国です。ですから日本とタイの間で条約を結んで、日本に協力させる。
フランス領のインドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)については、この頃のフランスはドイツに協力する政権、ビシイ政権が出来ていて、ドイツの言いなりですから、日本の言いなりになる。
その他の地域は、軍政を敷くと決めるのです。しかもその軍政は分割統治。目的は、独立運動は抑え独立させないで、日本に必要な物は取り上げることが第一、ということが基本的な方針として示されている訳です。(続く)
なお、「保守系」の論客たちが自慢気に語る「アジア解放のための戦争」ということでよく「インドネシア」の例を引き合いに出している。
ところが、「Google」で《大東亜共栄圏》と入力して検索したサイトの1つに【 インドネシア占領と独立運動(講演録)】というのを発見した。歴史学者の「故・藤原 彰」氏がその実態を生々しく語っている。「南方作戦」の『ホンネ』がずばりと出されている。
これも“長過ぎる”とのお叱りを受けることを覚悟の上で、2回に分けて転載したい。
日本のインドネシア占領と独立運動 その 1
講師;藤原 彰先生(歴史研究者・映画自由ネット代表委員)
●はじめに
あの戦争がアジアの解放のための戦争だったのか、それとも日本の戦略戦争だったのかについては、戦後50年以上経っているのに、まだ日本の国内では真っ二つに意見が対立しています。
あの戦争は自衛の戦争であり、アジア解放の正しい戦争だったという意見と、そうではなくアジアに対する侵略戦争だったという見方とが、真っ向から対立しているのが実情です。そしてその点に関しては、日本国内の議論が全く世界から孤立していると言ってもいい。日本の国内では、戦争が侵略戦争であったというのはむしろ少数派で、戦争は自衛戦争であった、アジア解放の戦争であったという考えが多数派です。政治家なんかにも多いのですが、これが外国に知られると、ものすごい反発を買うわけです。
欧米諸国もアジア各国も、あの戦争は日本の侵略戦争であったことで一致しています。日本がアジアの各国を独立させたのではなく、日本に対する闘いがアジア各国に独立をもたらしたのだ、ということは、歴史の真実だとして各国で認められている事実なのです。それに反するような考え方が日本から伝えられて行くと反発を買って、日本はアジアでは尊敬される国ではなくて、むしろ嫌われ、非難される国になっているというのが実情です。
そこへまた、この前(=映画『プライド』のこと)と同じ考えを持った映画(=『プライド』第2弾として製作発表された映画『ムルデカ(仮題)』のこと)が作られるというのは、大変残念なことです。
●日中戦争の行きづまりから“南進”へ
今日はごく大雑把に、いったい日本のインドネシア侵攻とは何だったのか、その中で起きてきた独立運動とはどんなものだったのか、をお話したいと思います。
日本が今のインドネシア(当時はオランダ領=蘭印)への進出を具体的に考え出したのは、そんなに古いことではありません。1940年前後からです。それは何故か。それは日本が中国との戦争に行きづまったからです。日本は中国を簡単に征服できると思って全面戦争を始めたのは、1937年です。ところが中国の抗日民族統一戦線の抵抗で、思ったように簡単に中国は片付かない、泥沼の長期戦に陥ってしまいました。
日中戦争が日本にとってどれだけ負担であったかを考えてみます。当時日本陸軍は、基本的にソ連を日本の敵と考えていて、対ソ戦争の準備を進めていました。また海軍は太平洋の覇権をアメリカと競うという目的で、対米戦争の準備をしていました。
そして1936年(昭和11)に「2.26事件」という軍部のクーデターが起こります。この事件は、事件を起こした連中は処分されますが、日本の右傾化、戦争への道を大きく展開させるきっかけになりました。
この直後から軍部の発言権が大きくなって来て、日本の基本国策として、国策の基準というものを決めさせて、陸・海軍備の大拡張に乗り出して行くことになります。その計画とは何か。ソ連を相手にして勝てるだけの陸軍と、アメリカを相手にして勝てるだけの海軍を、同時に作ろうという内容なのです。
そして陸軍は、1937年を第一年度として陸軍軍備充実6カ年計画、海軍は第三次補充計画~「戦艦大和」や「武蔵」などの馬鹿でかい戦艦を作る計画を立て、軍備拡張に乗り出した。
その第一年目に、中国との戦争が全面化するわけです。ですから中国との戦争は、日本の軍備拡張計画の障害になるのですが、それほど大きな戦争と考えていなかった。脅かせば中国は簡単に屈服すると考えて、近衛首相や杉山陸相や広田外相は戦争拡大の道をとったのです。
ところが、これが思いがけぬ大戦争になってしまいます。陸軍は100万の大軍を中国戦場に送り込みました。これは日清・日露戦争に比べて、はるかに多い大軍です。しかもそれでも中国を屈服させることはできない。戦争は長期化していきます。戦争の消耗も非常に大きくなって、戦費がものすごくかかってくる。国民生活は、そのために非常に圧迫させられました。
しかも一方では、ソ連と戦争するための大陸軍計画を実行している。一方では、アメリカと対抗する大建設計画を同時にやっている。軍備拡張をやりながら、一方で戦争をやっているということで、当時の国家予算を考えて見ますと、昭和初期の国家予算というのは一般会計の歳入・歳出20億円、それが1936年(昭11)「2.26事件」以降急速に国防・軍備充実を言い出して、30億円に膨れ上がってしまった。しかし30億円に膨れ上がった年度予算の他に、その何倍、何十倍もの臨時軍事費を使う戦争が進行していくわけです。
そしてその軍費~特に日露戦争のような大きな戦争はどうやって戦争したかというと、戦争に使う臨時軍事費は、アメリカとイギリスから借りたのです。ロンドンとニューヨークで外債を発行して、その戦争を賄ったのです。つまり、外国のお金を借りて戦争をしたのです。ですから戦後にそのお金を返すために非常に苦心した訳です。
今度(日中戦争)は、日本は世界で孤立しているのです。国際連盟を脱退して、不戦条約に反して中国と戦争している訳ですから、アメリカからもイギリスからもお金は借りられない。結局その戦費は、国内から調達しなければならない。つまり、国債を発行した訳です。
どのくらい乱発したかと言いますと、太平洋戦争の終わりまでに出した国債は1,800億円。これは単年度の国家予算の90年分です。普通ならば破産です。しかも国債という形で国民から借りた訳で、返せるわけないんです。年収の90年分なのですから。
どうやったか。手品を使ったのです。戦後に調整インフレ(=国が計画的に起こすインフレ)を起こしてしまった。そうしたら、借金がパーになってしまいます。その分どうなったか、国民全部が貧乏になってしまった。そういう戦争の仕方をした訳です。それほど大きな戦争だったのです。ですから、国民生活はトコトンまで窮屈になって行く訳です。
しかも、一方では軍備拡張しなくてはならない、国際的には孤立している、外国から物が入って来ない、貿易もできない、ということになって、日中戦争の行き詰まりから日本が目をつけたのが、資源の豊かな東南アジアだったのです。日本にない軍事資源が沢山ある。鉄も石炭もニッケルもタングステンも、とりわけ重要な石油もあるということで、南方へ出て行こうとするのが、日中戦争が行き詰まってからなのです。
●きっかけは、ヨーロッパ戦線でのドイツの勝利
そうした状態の中で、特に大きなきっかけになったのが、1939年(昭14)から始まったヨーロッパの戦争です。ヨーロッパ戦線は、最初の半年から一年は戦線も動かなかったのですが、翌年1940年春にドイツが電撃的に勝利します。つまりオランダ、ベルギー、フランスを征服してしまったのです。
東南アジアは、それらの国の植民地です。当時、ニューギニアの西半分から、スラウェシ、ボルネオ(カルマンタン)、ジャワ、スマトラの地域は、オランダの植民地です。それからベトナム、ラオス、カンボジアはフランスの植民地。マレー、北ボルネオがイギリスの植民地です。
そのフランスとオランダがドイツに征服されてしまった。主人がいなくなってしまった。これを取れば行き詰まった戦争経済を何とかすることができる。つまり、南方の資源地帯が必要だ、しかもそこの主人が負けてしまった、これは絶好のチャンスだ、という考えが急速に日本の指導部の中に広まった。特に軍部がそう考えるようになりました。
とりわけ魅力だったのが、石油です。当時、石油は今のように中東では発見されていません。日本の石油はどこから入って来たかというと、アメリカから買っていたのです。この時期の日本の貿易の最大の相手国は、今と同じアメリカでした。そして日本がアメリカから買っていたのは、石油と鉄、それと工作機械。特に鋼鉄です。日本の製鉄業はまだ充分に発達してなくて、鉄鋼一環ができていなかったのです。だからアメリカからクズ鉄を買って来て、鋳造し直して戦車や軍艦を作っている、という状態だった訳です。
日本はアメリカに何を売っていたかというと、生糸と絹織物です。つまり農民が厳しい労働の中で作り出す蚕を製糸女工さんが紡いで作る生糸が、日本の最大の輸出品だったわけです。生糸で軍艦を買った、と言われているように、対米輸出品の最たるものであった。
ですから当時日本は、国内総生産というのは、1940年前後でアメリカの16分の1しかない。しかも日本国内の工業は充分に発展していなくて、鉄と石油をアメリカから買っているわけです。日本がアメリカに輸出しているのは、生糸と絹織物です。その国がアメリカに戦争を吹っかけるなんて、もともと考えられないわけです。無謀ですから。しかし、南方を占領しようとは考えていた。つまり、必要なものはこっち(東南アジア)から取れる、と考えたのが、最初の南進のきっかけです。
“南進”という考えが起こってくるのは、フランスがドイツに負けたことがきっかけです。1940年の春にドイツが勝利します。そうすると日本国内が沸き上がって、新体制を作ろうとする。新体制というのは、ドイツのような一国一党の強力な政治体制を作って、総力を戦争経済に集中しようという体制です。そして同時に南進をする。
具体的には、三国同盟(ドイツ・イタリア・日本)を結ぼうという考え方が急速に広がって来ます。そのために新しい政権を作ろうということでかつぎ出されたのが、近衛でした。長引く中国戦争に嫌気がさして、1939年初めに近衛は内閣を投げ出していたのですが、その近衛をもう一度出馬させて新体制を作り、この方向に大きく転換しようという考え方が、昭和15年、1940年の新体制運動だったわけです。その先頭に立ったのが軍部です。そして、米内内閣を倒して第二次近衛内閣が誕生します。
第二次近衛内閣がまず決めたことは、ドイツと同盟を結ぶ、南方に進出する。具体的には、まず仏印に軍隊を進めるということを決める。これが日本の南進の第一歩だった。
この年は仏印まで来るのですが、本当の狙いはオランダ領のインドネシア=蘭印でした。日本が仏印に軍隊を進めたということは、明らかにインドネシアに行くための軍事的拠点であるということは分かりますから、これに対してはアメリカもイギリスも強く反発します。アメリカはフィリッピン、イギリスはシンガポール・マレー・北ボルネオを領土としている。明らかに近い。日本の南進は、日本の侵略が更にこちらの方に広がって行くのだということを示す兆候と考えて、アメリカもイギリスも日本に対して強硬な手段に訴えて来ます。
それは経済封鎖。特にアメリカは、この40年には日米通商条約を破棄して、日本が武力行使をするのなら石油を売らないぞ、ということをほのめかすわけです。
鉄も石油もアメリカから買っていて、そのアメリカに戦争をしようなどということは考えられない。軍艦も飛行機も、鉄がなければ作れないし、石油がなければ動きませんから。アメリカに対して強硬な態度を取ることは大問題なのですが、この頃の陸軍は、アメリカとはやらないで、オランダとイギリスをやっつけようと考えているわけです。フィリッピンを素通りして、こちら(マレーやインドネシアなど)だけ取ればアメリカは戦争しないのではないかと、非常に虫のいいことを考えている。
アメリカはそれが分かっているから、南進そのものを認めないという態度を強く取っています。
とりわけ(日本の)海軍は、アメリカに石油を止められたら戦争は出来ない、それでは困るということで、海軍は猛烈な勢いで1940年前後にアメリカから石油を大量に買いまくるのです。つまり、買い溜めをしたわけです。
アメリカは資本主義国ですから、日本が高いお金でなんでも買おうとすると、いくらでも売るわけです。日本はジャンジャン石油を買って、備蓄する。そして海軍が考えたことは、アメリカから買い込んだ石油がある間にやっつけてしまおう、ということでした。
翌年41年になりますと、日米交渉が緊迫して来ます。アメリカと日本の最大の争点は、アメリカは「中国から撤退しろ」「侵略をやめろ」ということであり、日本はアメリカに「石油を売れ」ということだった訳で、これは解決出来ることではなかったのです。
どうなったかと言えば、はじめは南方進出に対し、アメリカと戦争になるのではないかと慎重だった海軍も、この時期に急速に対米主戦論に変わっていきます。どうしてか。今有る石油のあるうちにやってしまおう、どうせ戦争するのなら早い方がいい、と考える訳です。
1941年秋、日米交渉が緊迫化する中で、日本は開戦に踏み切ります。開戦に踏み切るときに初めて、具体的に日本の南方作戦計画が考えられるようになります。それまで日本陸軍は、主敵はソ連で、対ソ戦争のことばかり考えて計画をし、準備をしていたわけです。軍隊の訓練は、すべて対ソ戦の準備でした。
私は当時、士官学校の生徒でしたが、もっぱらソ連との戦争の訓練をしていました。アメリカとの戦争など、考えていなかった。
ところが日米交渉がうまく行かない、思い切って一か八かで南方に出て行こう、と日本は考え出す。考え出すときに日本は、この地域を占領することを計画する訳です。
●もともと勝つ方法のない戦争
この戦争する目的は何かと言えば、中国との戦争に行き詰まって南方の資源が必要になったから、この地域の資源を取る、というのが軍事目的なわけです。しかし、その地域の物質がほしいと言って出て行けば、アメリカ、イギリス、フランスを敵にして戦争を始めるということになる。
中国とずっと戦争を続けていて、その戦争にさえ勝てないで、行き詰まって南へ行く。それはもっと大きな戦争になってしまうのですが、普通戦争を始めるときに、負ける積もりで戦争をやるという人はいないわけで、どうやって勝とうとしたのか。勝つ方法などないのです。 国策を決める大本営政府連絡会議でも、戦争をやると決めておいて、対米開戦を決めた後で何を考えたかというと、戦争をどうやって終わらせるか、この戦争の名目は何にするか、ということを後で決める訳です。
勝つ方法のない、例えば、クラウゼヴィッツというドイツの軍人が、『戦争論』というのを書いています。~それが気に入って小林よしのりというマンガ家がまた『戦争論』というのを書いていますが~戦争に勝つということは、相手の戦争意志を屈服させることだと定義しています。相手の戦争意志を屈服させるということは、相手国を占領する、あるいは相手の軍隊を完全に破壊することだ、としています。
ところが、日本がアメリカと戦争をしてアメリカに勝つということは、太平洋を横断して西海岸に上陸し、更にロッキー山脈を越えてワシントン、ニューヨークを占領するということです。とても考えられません。さすがに誇大妄想の軍人も、そこまで考えていない訳です。勝つ方法がないのです。
ですから、この戦争終結の腹案を作る大本営政府連絡会議の決定は、「南方地域を占領して、そこの軍事資源を活用して長期不敗の体制を整える。長いこと負けないでいる。そのうちヨーロッパでドイツが勝ってくるだろう。そうしたらアメリカも嫌になってくるだろう」という他力本願なことしか考えなくて、それで戦争を始めている訳ですから、随分無責任な話ですが、これが大本営政府連絡会議の決定だったのです。
もう一つ、南方地域を占領するその目的は何か。その地域の独立を助けるというのではないのです。全然逆なのです。【資料1】の「南方占領地行政実施要綱」には、「重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保」とある。要するに石油、鉄など必要な物を取る。これが第一目的。第二目的は、出て行った軍隊は日本から物を送らないでも自活してやって行くこと。さらに資源の確保と占領軍の現地活動のためには、民衆を圧迫することになるけれども、我慢させるのだということです。それから宣撫上の要求=つまり民衆をなだめるために必要なことは最小限にする。これが基本方針。
更に現地人に対しては、日本軍に対する信頼関係をもたすようにさせて、独立運動の如きは起こさせないようにするのだ、ということを大本営政府連絡会議で決めています。つまり具体的な方針は、独立運動をさせないのだ、物を取ることが目的なんだ、ということをはっきり謳って戦争を始めた訳です。
そして始めてみると、当時ヨーロッパ諸国は、ドイツが英本土に上陸するのではないかという危機が迫っている時ですから、ヨーロッパが第一です。アメリカもドイツが主敵だと考えている。日本をやっつけてもドイツは困らないけれど、ドイツをやっけてしまえば日本なんぞ簡単に片付けられるだろう。だから、ドイツに対して全力で集中するのだということが、アメリカの最初の方針なのです。
だから、こちらの方は手を抜いている。ですから初期の作戦は割合計画通りにうまく行き、最初の三カ月で英米軍を打破してこの地域を占領してしまいました。
ではその占領した地域を具体的にどうするかと言えば、「軍政」を敷くわけです。独立させるのでなく、軍が直接統治関与するのです。そして、その軍政の担当を、勢力争いをしている陸軍と海軍が分割するわけです。海軍はボルネオ、セルベス、ニューギニア、陸軍はそれ以外、ということで分割した。ようするに陸・海軍が分けて占領する、分割統治をすることを決めるわけです。(【資料2】)
更に【資料3】は、軍政の具体的なやり方を決めているのですが、現地政権を利用して一応何とかしようと考えているのが、仏印とタイです。
タイは、曲がりなりにも独立国です。ですから日本とタイの間で条約を結んで、日本に協力させる。
フランス領のインドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)については、この頃のフランスはドイツに協力する政権、ビシイ政権が出来ていて、ドイツの言いなりですから、日本の言いなりになる。
その他の地域は、軍政を敷くと決めるのです。しかもその軍政は分割統治。目的は、独立運動は抑え独立させないで、日本に必要な物は取り上げることが第一、ということが基本的な方針として示されている訳です。(続く)