文科系さんが、コメントのなかで、
日本は近代的な自我が確立されていない
村社会であると、指摘していました。
思い出すのは、四半世紀前の近代文学の講義。
先生は、近代文学を、近代的な自我の確立のプロセスとして
描き出そうとしていました。
そして、どうも、漱石などは苦闘しても
確立しそこなった、というような結論だったと
思いますが???違うかな?
この近代的自我の確立論議は、いつの間にか消えていったようです。
どうも、日本が経済大国になったあたりから。
ということは、あの議論はコンプレックスの裏返し?

空気を読んでいく能力が問われる今は、
やっぱり、近代的な自我の議論が再び必要な時代かな?
でも、日本人ばかりじゃないでしょう。
近代的な自我が確立されていない国は。
確立されている国のほうが珍しいのでは?
また、なにを持って確立されたというのかな?
日本は近代的な自我が確立されていない
村社会であると、指摘していました。
思い出すのは、四半世紀前の近代文学の講義。
先生は、近代文学を、近代的な自我の確立のプロセスとして
描き出そうとしていました。
そして、どうも、漱石などは苦闘しても
確立しそこなった、というような結論だったと
思いますが???違うかな?
この近代的自我の確立論議は、いつの間にか消えていったようです。
どうも、日本が経済大国になったあたりから。
ということは、あの議論はコンプレックスの裏返し?

空気を読んでいく能力が問われる今は、
やっぱり、近代的な自我の議論が再び必要な時代かな?
でも、日本人ばかりじゃないでしょう。
近代的な自我が確立されていない国は。
確立されている国のほうが珍しいのでは?
また、なにを持って確立されたというのかな?