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高原、年俸6000万円減を承知で復帰  文科系

2008年01月12日 21時06分42秒 | スポーツ
5日の当ブログに「高原、日本復帰」を投稿し、「中田英寿、中村俊輔以上の野心的人物」と見た次第を説明をした。
本日の新聞によればこの高原は、所属しているドイツ・フランクフルトの「年俸2億円オファー」を蹴って、1.4億円で浦和に戻ったということだ。渡米続出のプロ野球選手たちとは全く対照的なこの態度! 本日はその説明を試みたい。様々な新聞などからの情報である。

①まず、本年浦和が出場して話題になった世界諸大陸クラブチャンピオン・トーナメントを、28歳の今の目標に据えたということだ。選手生活の集大成としての目標なのだろう。
②併せて、10年南ア・ワールドカップにおける日本代表の好成績を目指して、代表への常時帯同を決意したのである。オシムが日本全体に植えつけた「勤勉に走り連動して、人もボールも速く動く『日本的サッカー』」においてこそ自分が最も生かせるはずだと共感したのである。
③関連して、世界的にも熱烈な「浦和サポーター」を含めて日本いやアジア最大のクラブに成長した浦和が、現在の自分の日常的モチヴェーションや向上心を最も高めてくれるだろうと観たのである。もちろん、この浦和とともにJリーグ得点王を狙うとも宣言している。
「(02年に)オレが獲って以来、日本人が獲ってない。FWである限りタイトルを目指すのは当然ですよ」
この得点王は、「03年以降の5年間、外国人が独占。日本人最上位とは6~8点差、05年には15点もの大差がついている」(以上、スポニチより)ものだ。

こうして、僕は高原からますます目が離せなくなった。
振り返って名古屋グランパス、なんと情けないチーム、いやフロントであるか! ストイコビッチに全てを頼るのだそうである。「名選手必ずしも名監督ならず」と言うではないか。ましてやストイコビッチは、監督としての苦労ゼロのはずである。今年もまた、「思いつき」を繰り返すだけで、何の長期展望も、深い反省もないフロントと言う外はない。Jリーグ他チームの急発展というものを、常に誤算しているチーム作りと、僕には思える。ただむやみに試行錯誤を繰り返す愚かな「チーム戦略?」は、いい加減に止めたらどうなのか。本田もいなくなった今期は、J2に落ちる可能性白あると思う。言っては悪いがストイコビッチは、Jリーグを甘く見ていると思えてならない。
コメント (1)
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好漢同窓生と話す  文科系

2008年01月12日 05時25分04秒 | その他
同窓の友人1人と1昨日3時間近く話した。何ともいえないしみじみとした時間と感じたので、良い話を拾って、それをどこかになんとか表現したくて書く。「そういう年齢なのだろうな」とお笑いあれ。

中学・高校と6年間を、2クラス100人ばかりの学校で過ごした。ちょっと思い出す努力をすれば全員顔と名前が結びつくような間柄である。が、数年前までの僕は、ほんのちょっとした手続きミスからほとんど「住所不定」だったので、彼とのこれだけの話は高校卒業以来、いや「在学期間6年間もこれほどにはなかった」というのが実感。まるで「浦島太郎」である(これって、分かる人には分かるでしょう? その「正体」は最後に書きますが)。

彼についての昔の僕の印象。
「背は低いがガッチリと筋肉質。相撲を取ると互角か、僕のちょっと負け。野球が凄くうまかったし、全般に学年有数のスポーツマン。割と寡黙。いつも微笑を浮かべている、誰にも嫌われないタイプの好漢。中学の陸上クラブでご一緒したが、何よりも僕が親しいと呼べる人ではなかった」
こういう彼自身の最も印象に残ったエピソードがこうだ。初めて知った話である。

「小学校大部分を東京ですごし、そこで野球をやっていた。父にプロ野球や6大学戦などによく連れて行ってもらった。この大都市に引っ越して来ても僕は1人でよくプロ野球を見に行った。小遣いをちょっとずつ貯めてやっと行けるのだが、バス代もない。歩いて球場まで行く。多分6キロ近くにはなるはず」
こんな話から、在学時代には感じられなかったほど彼が一度で好きになった。中学時代には聞いていない話だし。もし聞いていたら、「スポーツ万能のM」が当時今日のような親しみを持って見られたかどうか。いや聞いても多分見られなかったろうな。人の話に感動するって、それだけの年月、体験が要るのだろうか。

そしてもう一つ。今度は「僕が彼を全く見直したように、彼がある人を見直してしまった話だ」
「Iを知ってるだろう、中学だけ居た奴な。あれってお前と同じ大学行ったはずだけど、ちょっと前に彼とこんなように親しく話し合ったことがあってな。彼、猛烈に話したぞ。おれ、中学時代に彼の家に行ったことがあるんだ。凄い家だった。崩れたような長屋の中の一部屋に入ると、そこがさらに部屋に分かれていて、その一部屋だけが『家』なんだ。母子家庭だった。彼はな、別の高校へ行ったんだけど、あれは夜間高校だったんだよ。昼間は給仕をしてたそうだ。最近聞いた話だけどな。それで、大学行ったんだぞ。大学時代はお兄さんがもう弁護士になっていて、やっと学資をだしてくれたそうだ」
全く知らなかったし、そんなふうにも見えなかった。Iは中学でも成績優秀だったし、大学時代には確か実力の高い男性合唱団の重鎮になったはずだし。確か工学部だったから、一流会社に就職したはずだし。俺が見る目がなかったということだろう。俺ってぼんやりしてたんだな。だけど、「良かったな」と、心から思ったものだ。
そして、家に帰ってきてから考え込んでいた。中学生のMはどういうきっかけでIの家に行けたんだろうか、こっそり行った? 偶然分かった? それともIが連れて行った? もしそうだったら、Mは多分偉いやつだが、MとIの関係は? などなど、切りなく思いが募ってくるのである。Iの境遇も歩んだ道も僕の連れ合いにそっくりだったし。

青春の知り合いの話を「聞きなおす」って、こんなに親近で、豊かで、一種満ち足りたものになるのだなーと、思いふけっていた。すると逆の、思いつきも出てくる。
「当時のことだけとしても、さらにその後のことをプラスしたらなおさらというような、悲しくてやりきれないだけの話も多いはずだろう。だけど、そういう話はそもそも一体聞けるのだろうか?」
聞けないだろうなと思った。少なくとも噂話しか。昔同様感じがよいのだが、昔と打って変わったように語り好きに見えるMにしても、それだけの年月だけでなく、それだけの自信も積み重なっているということなのだろう。飾り棚の上に何かの証書があったので、彼が部屋を外した隙に覗き見た。TOEIC認定証955点とある。帰宅してからその筋に詳しい娘に聞いたのだが、「実用英語の凄い好成績」ということだった。在米期間が長いらしいにしても、大したものである。
男74人、女61人の2クラス(Iのように中学だけの人、高校から入ってきた人もいる)で、「逝去」が男11人、女3人、「不明」が男6人、女0人だ。死んだ男が多いのはまーなんとなく分かるようだが、「不明」の女ゼロとは、男の幹事誰かが「執念」で探したのかな?
コメント (3)
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