昨日の僕の「サッカー物投稿」へのまもるさんのコメントにお応えした物を一部手直しして、投稿に格上げします。まもるさんの「子どもとスポーツ」の観点を大事な物と捉えたからです。
まもるさんへ
子どもとスポーツ。「やるスポーツ」人気の多様化・分散化と、全般的なその人気低下。「やるスポーツ」と「見るスポーツ」と。
このような社会問題を網羅してなかなか面白いスポーツ・コメントでした。あとこれに、「やるスポーツ」としての「生涯スポーツ」が入ればもっと面白かったけどな、などと考えていたものです。
絵画、音楽、料理と酒など、人間が歴史的に作り上げてきた五感の自然な楽しみに、運動感覚の楽しみというスポーツを加えて、人間の文化活動論議がここで盛んになることを願ってきました。それらを「見、聴き、味わう」だけでなく、それらを「やる」意味をこそ強調してです。
文化活動を「やる」がない、「見、聴き、味わう」は人間性の大事なところで「本当の主体性」が欠けてしまい、そういう「人格」は今やテレビ、映画、マスコミなどの「餌食」にしか過ぎないのではないでしょうか。文化、「感覚の好み」について、主体性無しということです。「無意識のうちの主体性無し」も含めて、ですね。
体制的文化に抵抗している積もりの人々でも、自分の文化を体現していなければ、体制的な人々と感性の所ではあまり変わっていないと言いたいんです。不破哲三氏が、最も身近なその連れ合いさんが証言したように、テレビ時代劇の猛烈なファンであるようなもんです。僕はテレビ時代劇ほど馬鹿馬鹿しいものはないと思っています。身分制社会の人間模様が、「建前・権利としては平等な」今の社会と同じ感覚で作れるわけがないじゃありませんか。テレビ時代劇とはこうして、リアリティーがないという意味で単に無意味な「娯楽」と考えています。
そしてさて政治とは、貧困、困難の除去というだけではなく、それぞれかけがえのない人生を価値あるものとする役割も果たすべきだと、僕は考えてきました。
貧しい中でも人生に価値ありと子どもや若者たちに示せないで困難の除去のみを説いても、極論するならば人生半分を語っているに過ぎないのだと思いますね。そんな大人を見て子どもが、「人生への期待感」を育んでいけるわけはないでしょう。「俺自身は楽しみらしい楽しみを持っていないけど、俺の楽しい人生とは、世の人々の困難を除くこと」などというだけのような人生を見て、子どもが人生というものへの期待感を育めるわけがないと思うのですよ。
日本の中産階級の親たちは右も左も、何もない戦後の貧しさから始めて、働きに働き(働かされに働かされて)、世界で最も多い個人貯蓄や「狭いながらも楽しい我が『家』」を残してきました。その代償がニートやパラサイトを生んだという側面はなかったでしょうか。
まもるさんへ
子どもとスポーツ。「やるスポーツ」人気の多様化・分散化と、全般的なその人気低下。「やるスポーツ」と「見るスポーツ」と。
このような社会問題を網羅してなかなか面白いスポーツ・コメントでした。あとこれに、「やるスポーツ」としての「生涯スポーツ」が入ればもっと面白かったけどな、などと考えていたものです。
絵画、音楽、料理と酒など、人間が歴史的に作り上げてきた五感の自然な楽しみに、運動感覚の楽しみというスポーツを加えて、人間の文化活動論議がここで盛んになることを願ってきました。それらを「見、聴き、味わう」だけでなく、それらを「やる」意味をこそ強調してです。
文化活動を「やる」がない、「見、聴き、味わう」は人間性の大事なところで「本当の主体性」が欠けてしまい、そういう「人格」は今やテレビ、映画、マスコミなどの「餌食」にしか過ぎないのではないでしょうか。文化、「感覚の好み」について、主体性無しということです。「無意識のうちの主体性無し」も含めて、ですね。
体制的文化に抵抗している積もりの人々でも、自分の文化を体現していなければ、体制的な人々と感性の所ではあまり変わっていないと言いたいんです。不破哲三氏が、最も身近なその連れ合いさんが証言したように、テレビ時代劇の猛烈なファンであるようなもんです。僕はテレビ時代劇ほど馬鹿馬鹿しいものはないと思っています。身分制社会の人間模様が、「建前・権利としては平等な」今の社会と同じ感覚で作れるわけがないじゃありませんか。テレビ時代劇とはこうして、リアリティーがないという意味で単に無意味な「娯楽」と考えています。
そしてさて政治とは、貧困、困難の除去というだけではなく、それぞれかけがえのない人生を価値あるものとする役割も果たすべきだと、僕は考えてきました。
貧しい中でも人生に価値ありと子どもや若者たちに示せないで困難の除去のみを説いても、極論するならば人生半分を語っているに過ぎないのだと思いますね。そんな大人を見て子どもが、「人生への期待感」を育んでいけるわけはないでしょう。「俺自身は楽しみらしい楽しみを持っていないけど、俺の楽しい人生とは、世の人々の困難を除くこと」などというだけのような人生を見て、子どもが人生というものへの期待感を育めるわけがないと思うのですよ。
日本の中産階級の親たちは右も左も、何もない戦後の貧しさから始めて、働きに働き(働かされに働かされて)、世界で最も多い個人貯蓄や「狭いながらも楽しい我が『家』」を残してきました。その代償がニートやパラサイトを生んだという側面はなかったでしょうか。