北京五輪でともすればかすみがちですが、今日は8月9日長崎に原子爆弾が投下され十五万人が死傷した日です。
先月この長崎原爆投下に関するNHKの特集を見ました。
それは、原爆投下の訓練に日本の各都市に「模擬原爆(パンプキン)」を投下していたというルポルタージュでした。
しかも名古屋の昭和区にも投下され死傷者が出ていたという報道でした。
米軍は、日本に対する人類初の原爆投下を成功させるための投下訓練を目的として、1945年7月20日から8月14日にかけて、東京、富山、長岡(新潟県)、敦賀(福井県)、福島(福島県)島田・焼津・浜松(静岡県)、名古屋、春日井・豊田(愛知県)、大垣(岐阜県)、四日市(三重県)、大阪、和歌山、宇部(山口県)、新居浜(愛媛県)など1都2府15県に模擬原爆49発を投下し、約420人が死亡、約1200百人が負傷したというものです。
8月9日に長崎に落とされた原爆「ファットマン」を模していた模擬原爆は、ファットマンとほぼ同じの形長さ3・5メートル、直径1・5メートル、重さ4・5トンのずんぐり型でカボチャによく似ていたところから、米軍内部では「パンプキン(かぼちゃ)爆弾」と呼ばれていた。
模擬弾といっても、通常の火薬(TNT火薬で約4.5トン)が充填されて巨大爆弾で、投下地点ではかなりの被害が出た。しかし、厳しい報道管制で事実は報道されず、多くの国民には知らされなかった。
最初の一発は、7月20日、B―29から新潟県長岡市の信濃川近くの畑に投下され、畑にいた20歳と15歳の兄弟を含む4人が死亡、5人が負傷、31戸が罹災。
同日午前8時34分、福島市の福島駅近くの渡利地区にも投下され、当時14歳だった1人の少年が命を落とした。自宅近くの田んぼで草とりをしていたところ、約30メートル離れた地点に爆弾が落ち、爆風に襲われたのであるが、時の新聞は「被害極めて軽微なり」としか伝えなかった(なお、爆弾の破片が同市渡利の瑞竜寺に残っている。亡くなった少年の父親が拾い、「息子のかたき」と寺に預けたという。
同日日立市にも模擬原爆が落ち、1人が死亡、10人近くが負傷した。
最大の被爆は同日午前9時26分、大阪市・田辺上空のB-29から1発の模擬爆弾が投下され、死者80人、重軽傷者73人、倒壊など485戸の被害が出た。直径数10メートルの巨大な穴ができた。
その後も7月29日、山口県宇部市に模擬原爆が投下され、20数人が死亡。
8月9日の長崎原爆投下1日前、8月6日広島原爆投下2日後の8月8日重要港湾都市の一つであった福井県敦賀市の東洋紡敦賀工場上空のB-29から模擬原爆が落とされ、キノコ形の煙が上がった。工場は「がれき」の山となり、死者は33人に達した。学徒動員で働いていた敦賀中学校と敦賀高等女学校の生徒や教員も犠牲となった。
東海地方では愛知・岐阜・三重・静岡に投下され20発、400名の犠牲者を出している。
静岡県では7月20日を皮切りに、焼津・島田・浜松などで多くの死傷者が出、
岐阜の大垣、三重の四日市、愛知の春日井・豊田でも被爆し死傷者を出した。
そして、愛知県では、敗戦前日の8月14日、愛知県豊田自動車挙母工場(現・トヨタ自動車本社工場)を狙って3発の模擬爆弾が投下され、死者こそ出なかったが、工場には大きな被害があり、春日井にも投下され被害を与えた。
名古屋では春日井と同様、何とすでに広島・長崎に投下された後である8月14日に被爆。(その理由は、この巨大爆弾が空襲に有効か検証するためであった。)
名古屋に落とされたのは八事日赤交差点付近で数名が死亡したという。 その時、被爆した山田さんは、当時のことをこう語っている。
「私が爆弾で負傷したのは18才の時、凄い音と風で周りが吹き飛び、私の眼に何かが起こりました。病院に行ったのですが、麻酔もなく片目を摘出しました。
その痛さは忘れることが出来ません。終わってこれがあなたの目だとビンに入った片目を貰って帰りました。その後も痛みは辛かったのですが父が名誉の負傷だと愚痴を許してくれませんでした。戦後もう一方の眼も視力がなくなって、ずーっとマッサージ師をして暮らしています。もう思い出したくない出来事です。」
★名古屋それも昭和区八事に落とされた「模擬原爆パンプキン」それがもたらした一人の婦人の戦後の人生を考えると胸に迫るものがあります。
参考文献・映像
・NHK特集
・春日井の戦争を記録する会編『5トン爆弾を投下せよ!』(91年刊)/『模擬 爆弾と春日井』(95年刊)
・『米軍資料 原爆投下報告書-パンプキンと広島・長崎』(東方出版 93年 刊)
先月この長崎原爆投下に関するNHKの特集を見ました。
それは、原爆投下の訓練に日本の各都市に「模擬原爆(パンプキン)」を投下していたというルポルタージュでした。
しかも名古屋の昭和区にも投下され死傷者が出ていたという報道でした。
米軍は、日本に対する人類初の原爆投下を成功させるための投下訓練を目的として、1945年7月20日から8月14日にかけて、東京、富山、長岡(新潟県)、敦賀(福井県)、福島(福島県)島田・焼津・浜松(静岡県)、名古屋、春日井・豊田(愛知県)、大垣(岐阜県)、四日市(三重県)、大阪、和歌山、宇部(山口県)、新居浜(愛媛県)など1都2府15県に模擬原爆49発を投下し、約420人が死亡、約1200百人が負傷したというものです。
8月9日に長崎に落とされた原爆「ファットマン」を模していた模擬原爆は、ファットマンとほぼ同じの形長さ3・5メートル、直径1・5メートル、重さ4・5トンのずんぐり型でカボチャによく似ていたところから、米軍内部では「パンプキン(かぼちゃ)爆弾」と呼ばれていた。
模擬弾といっても、通常の火薬(TNT火薬で約4.5トン)が充填されて巨大爆弾で、投下地点ではかなりの被害が出た。しかし、厳しい報道管制で事実は報道されず、多くの国民には知らされなかった。
最初の一発は、7月20日、B―29から新潟県長岡市の信濃川近くの畑に投下され、畑にいた20歳と15歳の兄弟を含む4人が死亡、5人が負傷、31戸が罹災。
同日午前8時34分、福島市の福島駅近くの渡利地区にも投下され、当時14歳だった1人の少年が命を落とした。自宅近くの田んぼで草とりをしていたところ、約30メートル離れた地点に爆弾が落ち、爆風に襲われたのであるが、時の新聞は「被害極めて軽微なり」としか伝えなかった(なお、爆弾の破片が同市渡利の瑞竜寺に残っている。亡くなった少年の父親が拾い、「息子のかたき」と寺に預けたという。
同日日立市にも模擬原爆が落ち、1人が死亡、10人近くが負傷した。
最大の被爆は同日午前9時26分、大阪市・田辺上空のB-29から1発の模擬爆弾が投下され、死者80人、重軽傷者73人、倒壊など485戸の被害が出た。直径数10メートルの巨大な穴ができた。
その後も7月29日、山口県宇部市に模擬原爆が投下され、20数人が死亡。
8月9日の長崎原爆投下1日前、8月6日広島原爆投下2日後の8月8日重要港湾都市の一つであった福井県敦賀市の東洋紡敦賀工場上空のB-29から模擬原爆が落とされ、キノコ形の煙が上がった。工場は「がれき」の山となり、死者は33人に達した。学徒動員で働いていた敦賀中学校と敦賀高等女学校の生徒や教員も犠牲となった。
東海地方では愛知・岐阜・三重・静岡に投下され20発、400名の犠牲者を出している。
静岡県では7月20日を皮切りに、焼津・島田・浜松などで多くの死傷者が出、
岐阜の大垣、三重の四日市、愛知の春日井・豊田でも被爆し死傷者を出した。
そして、愛知県では、敗戦前日の8月14日、愛知県豊田自動車挙母工場(現・トヨタ自動車本社工場)を狙って3発の模擬爆弾が投下され、死者こそ出なかったが、工場には大きな被害があり、春日井にも投下され被害を与えた。
名古屋では春日井と同様、何とすでに広島・長崎に投下された後である8月14日に被爆。(その理由は、この巨大爆弾が空襲に有効か検証するためであった。)
名古屋に落とされたのは八事日赤交差点付近で数名が死亡したという。 その時、被爆した山田さんは、当時のことをこう語っている。
「私が爆弾で負傷したのは18才の時、凄い音と風で周りが吹き飛び、私の眼に何かが起こりました。病院に行ったのですが、麻酔もなく片目を摘出しました。
その痛さは忘れることが出来ません。終わってこれがあなたの目だとビンに入った片目を貰って帰りました。その後も痛みは辛かったのですが父が名誉の負傷だと愚痴を許してくれませんでした。戦後もう一方の眼も視力がなくなって、ずーっとマッサージ師をして暮らしています。もう思い出したくない出来事です。」
★名古屋それも昭和区八事に落とされた「模擬原爆パンプキン」それがもたらした一人の婦人の戦後の人生を考えると胸に迫るものがあります。
参考文献・映像
・NHK特集
・春日井の戦争を記録する会編『5トン爆弾を投下せよ!』(91年刊)/『模擬 爆弾と春日井』(95年刊)
・『米軍資料 原爆投下報告書-パンプキンと広島・長崎』(東方出版 93年 刊)