九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

フランスで原爆の被害を伝える    

2008年12月05日 09時43分36秒 | Weblog
フランスに住んで原爆の被害について伝えている
美帆シボさんの歌集「人を恋うロバ」が最近出版されました。

そのなかから幾首かを。

 被爆者のかたえに訳す証言を五度くりかし五度こころ漂う

 「原爆の子」を語らえば聞く子らの視線はひしと我が身に迫る

歌集の題になった歌

 闇ふかき谷間を駆ける音ひびき窓の灯りに人を恋うロバ

などです。      (落石)

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不整脈ランナーの日記(3)  文科系

2008年12月05日 08時44分55秒 | スポーツ
11月24日投稿の随筆「年をとった」でこう書いた。
「長年、不整脈をおして、これを管理しつつ走っていたが、とうとう走れなくなって、2ヶ月も様子を見ている。筋肉が弱くならない程度に未練ったらしく階段のぼりなどをしつつ」

28日投稿の「天にも昇る気持ち」では、こう書いた。
「2ヶ月ぶりくらいに走ったが、異常が出なかった。ウオームアップに以前の4倍ほどの時間をかければ何とかなると分かった。歩いたり走ったりの末に40分走り通せて、1時間のその合計7.3キロ。2年前の1時間最大限12キロに比べれば雀の涙だが、『天にも昇る気持』!」

さて、昨日は怖々と1週間ぶり、再開後2回目のラン。またまた慎重に20分ほどのアップから始めた。階段登りは4日前に140往復(18階段、合計約50分)ほどをやっているから体力には不安はない。膝もフクラハギも痛めはしないだろう。問題は心臓だ。
トレッドミルで歩行など10分~15分ほどのアップを続けた。以前より汗が出にくいのは、悪い兆候か、それとも良い徴なのか。とにかく、いろんなことが心配になる。
結果は、とても良い兆候だったと後で分かった。
65分で8キロ。心臓が無理をしていないからこのスピードでは汗が少なかったということなのである。事後の疲労も前回とは全く違う。更衣室への、あるいはジム帰りの階段登りによって、その日の疲労度が分かるのである。脚も前回よりもずいぶん軽いし、なによりも心臓疲れからくる運動後の息切れのようなものがない。2ヶ月ぶりにたった1回走っただけで2回目の今日、この前進。まだまだ取り戻せると、根拠のある希望が生まれてきた。
今日も最高は時速9キロ(前回は8.2キロ)まで走っているし、最高心拍は155(同145)ぐらいまで行った。再開後わずか2回目でこの前進なのだから、異常が起こらなければ、1ヶ月後には時に時速10キロも可能だろう。問題は1時間の走行距離だが、当面せめて9キロを目指そう。

不整脈に負けて、体力低下との悪循環から、何もなかったような老後を送った父を見ていて、それを迎え撃とうと思った。思えばいつもじり貧を避ける、荒療治のような生活だったなーとも振り返ることができる。30歳前に椎間板ヘルニアの大手術をして、その再発を防ぐために運動を心がけてきた。それが僕の原点で、一病息災、今のランニングにつながっているのだ。

血液の回りが良くなったせいか、2時間ギターを弾き通しても最近起こる肩こりが、以前に戻ったようになくなった。今日は先生のレッスン、今から2時間、元気に練習だ。  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本型保守主義の「形」   文科系

2008年12月05日 06時15分45秒 | 国内政治・経済・社会問題
保守系さんとのすれ違いから

僕はこのブログで保守系さんともっとも長く、激しくやりあってきた者の1人だ。振り返って今、正直言っていろいろ勉強になった。初めはどう話してみても、重視している理念がことごとく対立して、どこに接点があるのだろうかと戸惑うばかりだった。民主主義というと「衆愚政治」と返ってくるし、明治憲法や天皇制を批判すれば「現憲法よりマシ」とか「民主主義(=衆愚政治)よりもはるかにマシ」などの応対だったかと思う。これを、賛成はできないにしても一つの論として理解しようとすると、「枝葉」や歴史的事件の解釈やなどの論議をしていてはだめだと気づいた。ものの考え方、感じ方がもっと大きな幹のようなところで別れているのだろうから、そこまで行かなければ分からないだろうとも、つくづく思ったものだった。
そこで期せずしてどんどん討論の世界を広げていくことになった。その末にとうとう、「これなら分からぬことはない」という思想基盤に行き着いたものがあった。幕末から明治期にかけての思想家(確か東京大学初代総長)、加藤弘之の「社会ダーウィニズム・日本版」とでもいうべきものである。そして、このブログの07年7月16日「日本主義の形(2)」で、この加藤弘之の「形」を紹介することになった(その1は7月8日です。この画面の出し方はこうです。ブログ右欄外に年月が並べてあるコーナーがありますので、そこの07年7月をクリックしてください。すると、その上のカレンダ-が08年12月から07年7月に替わります。その16日とか8日とかをクリックしてくだされば、画面が「その日のブログ面」に替わります。その画面で、読みたい記事に行ってください)。保守系さんもこの思想を知っていると答えられたし、おそらく全般的に人間観、歴史観に臨む態度、センスとしてこういうものを持っておられるのだろうと推察できた。というよりも、昨今の日本保守主義学者たちなどが、こういった体系を至る所で活用し、彼ら流の「社会教育」の方法論としてきたのではないかと、今は思っている。こういう判断から出発して最近、こんな会話が保守系さんとあった。


最近僕が彼と行った討論から

【 貴方の思想の定義を僕はこう名付けることにしました。『国家間生存競争の絶対主義(絶対化論のほうが良いだろう)』と。それは、以下のような命題を絶対化することによってのみ初めて成り立つ『思想』である。
①国家の滅ぼし合いは、過去も現在も未来も全く減ることなく続いている。
②国家が滅びたら、たとえ現代先進国家でもその個人は悲惨というだけのことであるから、他の何を犠牲にしても、国家存続、防衛を義務としなければならない 】
 これに対して保守系さんはこう答えてきた。
「当然の考えですが、間違っていますか?」
日本の保守主義一般もこういう「絶対化論」の思想的特徴を持っているのだと思う。


こういう「絶対化」にも程度があると考えるが

保守系さんは不用意に「当然の考えですが」と答えられたが、『国家間生存競争の絶対化論』という場合、この「絶対化」にも程度というものがあるはずだ。
まず第一にこのこと。
大国の戦争は、20世紀後半にいちじるしく減っていると思うが、戦争は今後も幾分かずつでも減らせるのではないか、と。これに対しては、核兵器があるから20世紀後半にはそうなっているだけだとの回答が、保守系さんからあった。対する僕は結局、こういう見解をずっと言い続けてきたものである。「『戦争は減らない、備えよ』と言う人たちが軍備を増強させるなどで、結局、戦争を起こしてきたのではないか。少なくなっているという人たちでないと戦争は減らせないだろう」と。ぼくのこの命題にはまた、保守系さんはこう答えるだろう。「経済力があるのに軍備をしない国こそ、相手の侵略を誘発するようなものではないか」と。

どうもこの点の「絶対化」は取り下げられる気配もないようだ。だから僕は思う。保守系さんの思想は、「日本国」と「戦争」を絶対化することによってのみ成り立っている考え方なのだと。戦争が未来永劫絶対にちっとも減らないと見るならば、備えなければならないと誰でも言うに違いない。保守系さんらの全ての判断、命題は、一見戦争や「日本国愛」に関係ないものも含めて、実はここから生まれてくるものなのだと僕は考えることにした。一般には非常識と思われるようななんらかの判断もすべて、この絶対化を前提として生まれて来るものなのであると、今は考えることにしている。

第二に、この「絶対化」には、こんな程度問題もあろうと思う。
軍事的・政治的国家主義運営からは犠牲にするものが膨大に出るが、犠牲にしてはいけないものもあるだろうと。例えば保守系さんがケインズを支持されるところを見ると、今はやりの新自由主義経済よりも修正資本主義的経済のほうがお好みらしい。ケインズは現在では、新自由主義者が忌み嫌う「大きな国家」の代表者のようなものである。対して新自由主義者は、国家防衛と外交以外の福祉、医療など税による所得再配分効果などは全く眼中になく、すべて民間任せというようなそんな「小さな国家」論者たちなのだから。
この点については一度こううかがってみたいものだ。「ケインズのどこを支持されるのですか」と。ただしこの点への保守系さんの言及ははっきり言って非常に少ないから、日本国や戦争を論ずるほどには熱心に学ぶ対象にはなっていないのではないか。
あるものの絶対化によって成り立っている「思想」は、その絶対化の領域以外には、熱心にはなれないものなのかも知れない。


「我が国」、戦争の絶対化が切り捨てるもの

紙数の関係で、ここはメモ程度にとどめる。
現在の世界恐慌状況の中で、経済の国際的つながりはどんどん緊密になっていかざるをえない。しかしながら、保守系さんのような思想は、アジアとの結びつきをすら、損なうものであると思う。
飢え、飢餓、水、環境など、地球に金のいる問題は多いが、国があってもこれらの問題に何の助けにもならない人々は圧倒的に多い。「日本主義」は最初からこういう人々を無視することになろう。「歴史のない民族は可哀想」、こんな文章もよく読ませていただいたが、こういう人々にも対してもできることはないかと胸を痛めるような思想ではないようだ。またむしろ、これらの人々こそが戦争をなくしていくのではないかと僕は思っている。
戦争を好む国際的軍事産業が、特に不景気の中では、この思想を必ず利用するという問題もあると思う。その一典型がシオニズムである。
結論として、「日本主義」があれば「イスラム主義」、「シオニズム」、「ナチズム」もあって、そういうそれぞれの「原理主義」と同根の思想と述べても言い過ぎでないのではないか。世界をばらばらにする思想であると言うしかないと思う。よってこういう思想のほうがむしろ、実は、戦争と不可分に成り立っているものなのではないかと思う。
もっともまー、加藤弘之の思想も含めて「社会ダーウィニズム」とは、生物世界に見える適者生存、生存競争、弱肉強食の様相を、人間世界理解に誤って適応したものに過ぎないのであるが。
コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする