九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

「メディアの憲法報道を問う」⑧

2008年12月15日 09時19分45秒 | Weblog
東海放送人九条の会 2周年記念講演。
「メディアの憲法報道を問う」
(飯室勝彦中京大学教授)の続きです。(落石)

目の前にある軍事、戦争

そういう声を聴いているうちに、何だ虚脱感なんか持ってはいられないなぁ
と云う感じになりました。
そのころ既に論説委員でした。
憲法に関する論説を書くことも多かったんですが、
沖縄での経験は中日新聞の憲法に関する論説に大きく響いていると思います。

それでは沖縄の人たちが何故そんなに平和憲法を大事にしてるんだろう
ということをもう少し深く掘り下げて見たいと思います。
今日お出での方の中には戦争を体験された方々も
いらっしゃるんでしょうけども、敢えて失礼な言い方をさしてもらいますと、
年配の方でも戦争の体験ってのはある種想い出の部類に入っているんじゃないか、
と思うんですね。
ところが沖縄の人たちにとっては戦争というのは現実体験なんです。

嘉手納基地に行ってみると、基地の脇に安保の丘という
ちょっと高いところがあるんですね。
そこに行くと嘉手納基地が一望に出来るんです。
でっかい爆撃機がグゥアーンってしょっちゅう飛び立つんです。
僕も嘉手納基地とか普天間基地をのぞき込もうと思ってフェンスの外側を
歩いていたら米兵に追っかけられたことがありました。
追っかけられると本能的に逃げるんですよね。
しばらく逃げたあとに、おい、待てよ、
ここは何も米兵に追っかけられる理屈がねぇなぁと思って、
あわてて止まるんですけども。
つまり沖縄ではそれが現実なんです。話で聞く話ではないんですね。

米軍用地は、数字のことはいろいろ言っても仕方がないかもしれませんが、
70%、80%を基地に取られてるって町もあります。
返還という方針は決まったが移転が難航している普天間基地は
話の上では何パーセントという基地用地の数字が話題になってますが、
数字よりも普天間基地のある町の地図を眺めてもらうほうが
よっぽどよく判ります。
楕円形の市があの市です。
基地はその真ん中に玉子の黄身のように占めてるんです。
玉子全体があの町で、その真ん中の黄身が基地だと思って下さい。
ここからあそこに行くのに基地が真ん中にあるから行けないんですね。
ぐるっとまわって行く。
下水管引こうと思ったって、真っ直ぐ引けないんですよ。
行ってみるとものすごく生で判るんです。

                    つづく
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加藤周一さんは、左翼だったか?(保守系)

2008年12月15日 00時41分43秒 | 国内政治・経済・社会問題
加藤さんは、憲法九条を守る会の
人でしたか?
今夜のNHK教育で「1968年を語る」をやっていました。
昭和43年は、その二年前にはシナで文化大革命が起きた時期にあたります。
ベトナムでの戦争も混乱期にあたります。またチエコ(プラハの春)でも動乱が起きます。
ソ連の戦車が越境した事件です。あれ以降、日本には全共闘が跋扈しはじめます。
全共闘は、共産党や社会党にも飽きてしまったのでしょうか?
あのチェコの体操競技のチャフラスカは綺麗でしたね。
あの頃、アメリカにヒッピーなども居ました。フランスでも大学生が反乱?を起しました。カルチェラタンでしたか?
懐かしい事件でしたが、日本人は、あのソ連の侵略で共産主義?がいかなるものかを学んだと思います。
しかし、あれからもまだソ連は生き続けました。今はロシアですが、ロシアとソ連の区別がつきません。言論の自由はないし、下手すれば殺害されます。
そに意味では、日本は何でもありの世界です。それなのに何故、田母神さんは解任されなければいけないのでしょうか?思想・信条は憲法の保証しているものです。
守るのは、九条だけではないのです。


コメント (2)
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俳句の力      まもる

2008年12月15日 00時16分55秒 | 文芸作品
・・・多くの収容所と同じくシベリアでも、わずか一塊の黒パンを食べたいが故に罪もない仲間を売ったり、一刻も早く帰還したいがために仲間を告発したりと、同じ日本人とは思えない仕業が繰り広げられていた。
そんな殺伐とした収容所の中で山本幡男という人物が俳句の会を開いた。
 無断の集会や紙への記録はご法度の収容所であるが故に、地面に木の枝で俳句を書いて楽しむという方法で一人二人と同好の士を集めていく。
 ダモイ(帰還)、という希望の言葉を胸に抑留者は理不尽な重労働、栄養失調に耐えていたが、その苦しい生活の中での俳句は生きる喜びを収容者に与えていった。
 その俳句の会を主催していた山本幡男が帰還を目前に病に倒れ、日本で帰りを待つ家族にあてた遺書を仲間が届けたのである。紙に書いたものは全てソ連側に没収されるので、山本幡男の仲間たちは手分けして遺書を暗記し、頭に叩き込んで帰国したのである。過酷な条件下でも人は人として生きることができることを山本幡男は証明したのである・・・

★という佐々木昇氏の書評に惹かれて、辺見じゅんの「収容所から来た遺書」を読みました。久しぶりに感動すると共に俳句の座としての力を知らされました。
 文中収められた句を紹介します。

  地に書いてうなづき合ふや日向ぼこ 山本
  千人に綿衣わたして逝かれけり   栗仙 (被服係だった仲間の死に)
  寒月は満つれど風の哭く夜かな   山本 (同上         )
  不幸なる児となり果てぬもがり笛  湘江 (日本から妻の死を知らされ)
  小さきを子供と思ふ軒氷柱     
  大寒を行とし日々を逆らはず    栗仙
  生くことは悦びといふ木の芽見る  虻郎
  春寒や草にがって鳴る紙片     秋径
  亡き母の齢となりぬあかぎれて   湘江
  
シベリアにはシベリアの歳時記がありました。
コメント (1)
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