九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

クラブW杯戦のガンバ、天晴れ  文科系

2008年12月21日 21時21分36秒 | スポーツ
ガンバ大阪がマンUに3対5、パチューカに1対0で、クラブ・ワールドカップの3位になった。二つの闘いを僕流に振り返ってみたい。

まずマンU戦。
世間は大げさに差があると皆言うが、僕はそうは思わない。結論を言えば、ほとんどFWの差だけであると思う。端的に言えば、ルーニー、ロナウドがいるかいないか、これに尽きるのではないだろうか。2得点の差だって、結果的に言えば敵セットプレーの2得点だけではないかということになる。そして、これ以外のサッカーの基本は日本の得意な部分だが、結構同格以上にやっていたと思うのだ。
スペースに走ってボールを繋ぐ組織技術、ボールを止めて蹴る技術、組織的な高いプレスなどなどは、あのゲームでは互角以上にやっていたのだから。ただ、日本にルーニーかロナウドがいたら、向こうはガンバをもう少し自由にやらせずに、プレッシャーをかけてきたかもしれない。がとにかく、日本のペナルティーキック獲得も含めて、3得点すべてが流れの中からの得点であるというのは明白な事実である。「マンUは油断していた」などと言うならば、それは日本も同じこと。「5分で3点は油断していた」となろう。
ルーニー、ロナウドのことだが、守備が進んだ今は、世界中が良いゴールゲッタ-を渇望している。それが特別かつ極少数しか世界にいないから、100億円などという値がつくのだ。そういう人間が今、イングランドに集中している。だからイギリスにはチャンピオンズリーグ本戦トーナメントに出るようなチームが4つもあるのだと思う。ドログバ(チェルシー)、アデバイヨール(アーセナル)、トーレス(リバプール)。ルーニー、ロナウドだけが特別というわけでなく、今のイギリスが特別なのだと考えたほうがよいと思う。
というような以上の意味において結論であるが、ガンバは本当に良くやったと思う。ボールを奪い、繋ぎ、ゴールを狙う。この基礎的技術では、やる気において相手を圧倒していたゲームではなかったか。とにかくあのゲーム、ルーニーが日本にいたら日本が勝っていた。これは誰もがそう思うことのはずだ。つまり、ルーニー、ロナウドの差だけのゲームだったということである。

パチューカ戦
北中米カリブ海は戦術的に世界から遅れているのではないかと、すでにリガ・デ・キトとの闘いで思った。今時あんなに足元だけでボールを繋ぐやり方で、世界に通用するわけがない。スペースへ走りこまないし、スペースを作りもしない。これでどうやってゴールを落とすのかと思った。守備が高度になった今、ゴール前のスペース利用の発想法がなければ得点できないはずなのである。
ガンバ戦も案の定だった。個人技術があるからボールは保持するが、スペース的発想法がないからゴールには迫れない。敵陣への最後4分の1ぐらいの所でいつも出足が止まってしまった。こういうチームはボールを持たせて味方ゴール前のスペースを消しておいて、必要なときに高い位置で足元狙いの敵パスをカットして攻めて行けばよいのだ。こうしてガンバは面白いように攻めていた。ボール保持率はガンバの40対60以下だったはずなのにである。1対0は順当過ぎる当然の差である。ガンバは得点される気がしなかったのではないか。

なお、この二つのゲームでガンバは一皮向けたと思う。「いくら攻めさせても、味方ゴール前のスペースにだけ注意すればよい。攻撃のほうが難しいのだから」、「高い位置での一瞬のボール奪取からシュートまでは切れ味」この二点において。
どうも25日の天皇杯準々決勝では、グランパスが不利になったようだ。ガンバが疲れていて、グラが急に伸びているはずと、期待するしかない。

なおこの準々決勝の僕の予想は見事に全部外れた。勝つと思っていた広島、清水、鳥栖が全部負けた。グラが負ければ、4つとも外れとなる、情けない。
コメント (2)
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「メディアの憲法報道を問う」⑬

2008年12月21日 13時15分53秒 | Weblog
東海放送人九条の会 2周年記念講演。
「メディアの憲法報道を問う」⑬
(飯室勝彦中京大学教授)の続きです。(落石)


わけ知り顔で愚直になれない報道姿勢

あと感じていることをもう一点付け加えますと、
これは別に憲法問題に限りません。
社説を含めた政治報道一般に考えられることですが、
わけ知り顔になってしまうということです。
こんなこと言ったって無駄だよなぁ、将来これ実現しないよなぁと
内心思ってしまうものですから、書く記事もつい迫力がなくなってしまう。

よく云われることですが、政治を政局に絡めて論じてしまう人がいます。
政治の問題として真っ正面からその問題に斬り込んで
論評したり分析したり批判すべきなのに、
これをこう言っている自民党の思惑はとか、民主党の思惑はとかですね、
わけ識り顔に解説してしまって核心に斬り込まないということが
しばしばあります。
そんな記事に限って、原理原則に照らした批判みたいなものは弱いんです。

例えば自民党の思惑はこうこうこういうことなんだよ
というところまでは行く、だけどもそうゆう思惑を抱いて行動することは
間違っているんだと云うところまではなかなか行かない。
ですから、心ある読者、或いは心ある視聴者の方はなんかもどかしくて、
イライラしてしまうというような場面があるんだろうと思うんです。

「そんなこと言ったってなぁ」って典型が核問題です。
日本の新聞の社説はこれはどの新聞も同じです。反核非核は論じます。
つまり、核に反対、核を使うことはいけないことだ、ということまでは論じます。
でも、究極の反核、非核は反戦のはずなんですね。
ところがなかなか反戦までは行かない。
行かないのはもちろん僕は判っているんです。
38年もそういう立場にいたんですから。
それを現場の記者たちのためのことも含めて若干の反省も込めて
自己批判を説明させていただきます。
なぜそうなっちゃうのか。
まず、今の新聞記者のほとんどの人で、戦争賛成、憲法改正賛成と
積極的に思っている人はいないと思います。
ただ、世論調査をすると、憲法を改正するのはいいことじゃないの、
という数字が60、70%出てきちゃうんですね。
そうすると、報道する記者の側もなかなか自信が持てないんです。
読者の意見と俺の意見は遊離しちゃってるかなぁ、という懐疑心が湧いてくる。
憲法に関するここ数年の状況は明らかにジャーナリズムの側にいる人たちが
国民のあの反応を見て、自信を失って、戸惑ってるというのが
現状だろうと思います。

もう一つは、戦後世代がいまや三分の二を過ぎているということです。
改憲の問題をジャーナリストとして担ってるのも戦後世代です。
そうすると、今の憲法に対する思い入れ、或いは戦争に対する感覚は、
ここにいらっしゃる大先輩の方々とは違うんですね。
つまり、皮膚感覚としての憲法感覚とか、戦争認識はないんです。
理論の上では理解してるが、皮膚感覚としてはなかなか直ぐ反応できない、
という部分がたいへん多いですね。
おそらく、こういう集会にお見えになる方々は、
憲法改正って言ったら最初にちょっと待てよ、という感覚が先に立って、
それから次ぎに理屈とかいろいろなことが出てくるだろうと思うんですが、
戦後世代の、生まれたときから平和があって、
生まれた時から今の憲法があった人たちにとってみれば
憲法改正って言われたときに、ちょっと待てって感覚になるのは
なかなか難しいかもしれません。

                     つづく
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