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「メディアの憲法報道を問う」⑪

2008年12月19日 13時43分00秒 | Weblog
東海放送人九条の会 2周年記念講演。
「メディアの憲法報道を問う」⑪
(飯室勝彦中京大学教授)の続きです。(落石)


「はじめに旗印ありき」は疑問

問題は読売と産経の突出をジャーナリズムとしてどう見るか、という問題です。
ジャーナリズム、特に新聞なんかが、特定の意見を発表することは、
僕は決して誤りではないと思います。
ジャーナリズムとしてのメディアの主体性という意味も込めて、
きちんと意見があるなら意見を言うべきだと思います。
新聞には社説と云うそういう役割のものがあります。
例えば今度のアメリカの大統領選挙では、130紙ぐらいが、
うちの新聞はオバマを支持するとはっきり方向を出しています。
日本の新聞はめったにそんなことはやりませんけれども。
だから決して意見を明らかにすることは誤りではないと思いますが、
新聞の発行部数を利用して世論をそっちに誘導するかのような報道の仕方は
ジャーナリズムとしてどうなのか。
世の中の情勢を見ておいて、私の新聞はこっちが正しいと思いますよ
と言うのはいいけれども、
自らが憲法草案を作って、そっちの方にいろいろ引っ張って行ったりするという、
そういう運動の先頭にジャーナリズムとして立つというのは、
いかがなものか、ということで僕はたいへん大きな疑問を持っています。

それからもう一つ、それでもいろいろ考えた結果、
そっちの方角が正しいと思うからそっちに走るんだよと
いうのは未だ許せるとしても、
会社の営業政策としてそっちに走ることによって生き伸びようというのは
ジャーナリズムとしては邪道ではないか、という気がしてます。
産経新聞の幹部をしておられた青木さんというたいへん高名なジャーナリストで、
産経新聞の役員もされてた方ですが、
その回顧している文章のなかにはっきりと、
これだけ新聞の競争が激しいなかで生き残るために保守主義という旗を
掲げるのも面白いと思った、と書いておられます。
つまりこれは考え抜いた結果その結論を出したということじゃなくて、
生き残るためにその方針を出したことを面白いと思ったと
青木さんはおっしゃってるんですね。
それはちょっとジャーナリズムとしては違うんではないか、
という感じがしています。

                   つづく


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随筆 「新しい友の話」   文科系

2008年12月19日 00時08分24秒 | 文芸作品
  随筆 「新しい友の話」 

 出会って一年弱、できたてほやほやの親友二人とのあるエピソードを話そう。他人は「ただ、マニアック仲間というだけ」と評するかも知れない。が、僕ら三人にとっては、到底そんな話ではないのだと前置きしておいて。

 初冬の飛騨路。あらかたの落葉樹は丸坊主に近く、かろうじて残っている葉もつまんだ端からくしゃっとなりそうな季節。そんな山々をぬって、Nさん提供兼運転の車は、下呂駅に近いリゾートホテルに着いた。まずは温泉。その露天風呂もそこそこに部屋に戻って、Nさんと僕は持参のギターを交互に弾き始める。ギター持参のないAさんは、ほほえみながら二人の音を聴いている。そんな時間がかなり長く続いたあとにふっとAさんがこう申し出た。こんなありふれた言葉なのに、僕は、一瞬で我が身が固くなったのを感じた。
 「Nさん。ギターちょっと貸して。僕も弾いてみるわ」
 弾きだしたのは、何の変哲もないアルペジオ、分散和音である。単純な基礎練習というだけではなく、ことさらなようにゆっくりしたテンポだ。ぎこちない弾き方とさえ言えるが、これはとにかくAさんのような二十年選手が人に聴かせるような曲でも、感じでもない。あとの二人がまた、この単純なアルペジオを神妙に聴いている。時には、二人交互に演奏者の方に身を乗り出すようにまでして。

 この二人、あるギター教室の四捨五入すれば七十歳になる同門生で、Nさんとは同じ歳、Aさんは一つ上。この早春に発表会の打ち上げ会で知り合ってから、お付き合いが続いてきた方々である。そしてその「事件」は、打ち上げ会の十二日あとに我が家に三人が集まった「ギター遊び兼飲み会」以降しばらくして起こった。Aさんが教室を辞めてしまったのである。この事件の微妙さを部外の方々に分かってもらうのはとても難しいのだが、とにかくやってみよう。
 まず、Aさんが教室の先生に不満を持ち、抗議したらしい。「『アルハンブラ宮殿の思い出』で、必要な指摘をしてくれなかった」と。どうも、僕たち二人の批評がうすうす自覚し始めていた欠点と一致して、『先生が、この年寄りとしてはこんなもんだろうとだけ扱ってきた』と思い至ったようなのだ。ぼくらの関係もナーバスなものになってくる。特に、僕の古いアルペジオ楽譜二枚にショックを受けたとしきりに語られる。定年後先生につく以前、一人習いの昔から、ちっとも上手くならないのでいつも基礎に帰って弾き込んできてぼろぼろになった二枚であって、僕の常用練習ファイルの冒頭に張られたものだ。これのことも含めて、おおむねこんな思いを彼は語っていたかと思う。
〈習って二十年。アルハンブラをなんとか完成させようと、これだけでも三年。本当に三年!! ちっとも完成していかなかったのはタッチがいい加減だったからだ。練習時間と熱意とでは誰にも負けぬと自負してきたが、それもどうもあやしい。俺のこのギター、これから一体どうしたら良いのだ!〉
 以降の彼はギターのことを僕とは話したくないようだった。今分かるのだが、僕が何気なく口に出した言葉が、ずいぶん彼を傷つけてもいたようだ。「一人で基礎練習をしているらしい」とは、Nさんから聞いたことである。なおまた、この旅行参加を土壇場近くになってきっぱりと決意したのも、NさんとミセスAとの合作らしい。彼女はこの決意を喜んで二人へのおみやげを用意し、前日にへそくりの一部をさりげなく手渡して、持ち金を増やしてくれたとのことだった。Aさんはそんなことまでを話してくれたのである。

 訥々とはしているが、見違えるようにしっかりとしたタッチと思った。僕はなにか目頭が熱くなった。Nさんが激賞しているのが聞こえる。僕も言葉に注意しつつ何かを言ったと思う。この前後、彼自身の心境はどうだったか。帰宅翌日のメールにこうあった。
 「正直言ってお二人の前でギターを弾いた時は、清水の舞台から・・・の心境。緊張感を凌駕した恐怖感。結果、弾き終わって『汗びっしょり』でした。お二人に対する敬意のつもりで弾きました」
 潔いというかなんというか、竹を割ったように見事な人格にうめいてしまった。そして、ギター生活を育んできたその思いの根深さが、僕をも掻き立てたようだった。
「俺もその思いなら負けんぞ。ぼけても弾き続けてやる」
コメント (6)
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