九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

最近気味が悪いこと                  あんころもち

2013年05月02日 14時10分33秒 | Weblog
1、「主権回復の日」(それ自身問題含みなのだが)に出席の安倍晋三首相や麻生太郎副総理が壇上で「天皇陛下バンザイ」を三唱したこと。
 「主権回復」って、主権在民ではなくて天皇の主権が回復したってこと?
 
2、福井の「ピースアート展 憲法と平和」で、憲法の条文をイラスト風に描いた作品が「政治色が強い」との理由で撤去させられたこと。
 「憲法と平和」展で憲法を描いたものが撤去ってこれ何?
 
 http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/society/42163.html

 それ自身、気味が悪いのですが、それらがあたりまえのこととしてほとんど問題にならず看過されているという現実、これがもっとも不気味。
 戦前の日本でも、ドイツでもそうだが、翼賛体制への下り坂は思ったよりも急です。
 気がついた時にはもう後戻りできない泥沼の中です。
コメント (7)
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ストイコビッチ、退団?  文科系

2013年05月02日 08時13分23秒 | スポーツ
 サッカーキング・サイトでこういう記事を見つけた。この記事と共に、今年のグランパスはもう終わったろう。思えば、3年前の優勝が良い思い出である。それにしても今のJリーグ監督は難しい。一昨年のネルシーニョ・柏、昨年の森安・広島、今年のベルデニック・大宮や横浜マリノス。上位陣の入れ替わりの、なんと激しいことか。森安はペトロビッチの遺産を見事に継いだのだろうし、近年のマリノスは元々失点が少なくなっていた上にトップ下に戻した中村俊輔絡みの得点力が大きいようだ。ベルデニックって、その昔はグラの監督だったこともあるのでは?そう言えば、ネルシーニョも。二人ともグラでは良い成績を上げられなかったのに、外国人監督には時代に合わせて監督能力を養い直す人がいるものだと、驚いている。
 ともあれ、ピクシー退団のニュースは、以下である。

『 2013年5月1日 15:58 (SOCCER KING)
ストイコヴィッチ監督が今季限りでの退団示唆…母国メディア報じる

 名古屋のドラガン・ストイコヴィッチ監督が、母国セルビアメディア『zurnal』のインタビューに応え、今シーズン限りで指揮官を退任する可能性が浮上した。

 ストイコヴィッチ監督は、「私は休養を必要としている」とコメント。続けて、「シーズン終了後に、他の可能性について話し合うことになるだろう」と、今季限りでの退団を示唆した。

 ストイコヴィッチ監督は現役時代、レッドスター・ベオグラードやマルセイユでプレー。1994年に名古屋へ加入すると、2001年の現役引退まで7年間にわたり在籍した。その間、チームを天皇杯やFUJI XEROX SUPER CUP優勝に導き、個人としても1995年にMVPに選出、ベストイレブンにも3度選ばれている。引退後は、古巣レッドスターの会長などを務め、2008年から名古屋の監督に就任。2010年にはチームを初のリーグ優勝に導き、Jリーグ史上初めて最優秀選手と最優秀監督に選ばれた人物となった。今季で名古屋を率いて6シーズン目となっている。 』
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僕のスポーツ哲学(再掲載)  文科系

2013年05月02日 02時09分01秒 | スポーツ
 以下のエントリーを改めて再掲載させていただく。ちょっと古い話になるので、改めてちょっとだけ前置きを変えて、ということだ。

 僕のスポーツ哲学  文科系 2010年10月01日 | スポーツ

 僕はここに、スポーツの記事をいろいろと書いてきた。見るスポーツとして以上に、やるスポーツということでも。これに関して述べてみる。この稿は、近くに始めたい新たな「やるスポーツ談義」の予告編のようなものというつもりだ。
 
 もちろん、第一に好きだからスポーツ随筆などを書いてきたわけだ。が 単にそれだけの小さな扱いだという積もりは、全くない。もっと遙かに大きな人生的意義を与えたい。スポーツは先ず、以下に見るように人生に潤いを与える文化・芸術だと考えている。そしてさらに、他の芸術よりも人生にとって遙かに大きな意義があるとも考えている。健康や、どんな美容・高価な服装、装飾品よりもはるかに価値が高い「自分自身の美」に繋がるものだとも考えている。そして、こんなスポーツ哲学を持っている。以下は、ここにも載せた中編小説から抜き出したものである。所属同人誌に掲載した小説だ。

『 週に複数回走ることを続けてきたほどのランナー同士ならばほとんど、「ランナーズハイ」と言うだけである快感を交わし合うことができる。また例えば、球技というものをある程度やった人ならば誰でも分かる快感というものがある。球際へ届かないかも知れないと思いながらも何とか脚を捌けた時の、あの快感。思わず我が腿を撫でてしまうというほどに、誇らしいようなものだ。また、一点に集中できたフォームでボールを捉え弾くことができた瞬間の、体中を貫くあの感覚。これはいつも痺れるような余韻を全身に残してくれるのだが、格闘技の技がキレタ瞬間の感じと同類のものだろうと推察さえできる。スポーツに疎遠な人にも分かり易い例をあげるなら、こんな表現はどうか。何か脚に負荷をかけた二、三日あと、階段を上るときに味わえるあの快い軽さは、こういう幸せの一つではないか。
 これらの快感は、たとえどんなに下手に表現されたとしても、同好者相手にならば伝わるというようなものだ。そして、その幸せへの感受性をさらに深め合う会話を始めることもできるだろう。こういう大切な快感は、何と名付けようか。イチローやナカタなどこのセンスが特別に鋭い人の話をする必要があるような時、このセンスを何と呼んで話し始めたらいいのだろう。音楽、絵画、料理とワインや酒、文芸など、これらへのセンスの存在は誰も疑わず、そのセンスの優れた産物は芸術作品として扱われる。これに対して、スポーツのセンスがこういう扱いを受けるのは希だったのではないか。語ってみればごくごく簡単なことなのに。
 スポーツも芸術だろう。どういう芸術か。聴覚系、視覚系、触覚系? それとも文章系? そう、身体系と呼べば良い。身体系のセンス、身体感覚、それが生み出す芸術がスポーツと。スポーツとは、「身体のセンス」を追い求める「身体表現の芸術」と言えば良いのではないか。勝ち負けや名誉とか、健康や体型とかは、「身体のセンス」が楽しめるというそのことの結果と見るべきではないだろうか。そういう理念を現に噛みしめているつもりの者からすれば、不摂生のためすっかり体型がくずれてしまったかに見える体協の役員の方などを見るのは悲しい。勝ち負けには通じられていたかも知れないが、「身体のセンス」はどこか遠くに置き忘れてこられたように見えるから。その姿で「生涯スポーツ」を説かれたとしても、「言行不一致」を免れることはできないだろう。 』 
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