戦争や憲法への人の態度、考え方に関わっては、細々とした実証的話し以前に、その前提となるような「もっと大きな」先入観念のようなものを人は持っているはずで、そちらも論じようというようなことを書いてきました。例としてたとえば、こんなことを上げました。「人は争うもの、国家も争うもの。戦争は少なくはならない」とか逆に「戦争って少なくなっている。なくせるはずだ」という考え方を持っていれば、そういう事実、事件を中心にものを観て、語るはずだというようなこと。「国家同士ってエゴなもんなんだから、自分の国は美点を中心に見る方が良いのだ」という人から見たら「諸個人も公平に見ねばいかんのと同じように、国も公平に見るべき」という人は偏っていることになります。こんなふうに大きく対立している二人が歴史論などを争えば、こういう考え方自身が正しいかどうかも論議しなければどうしようもないわけです。だって、問題は細かい事実の論争だけではないことにもなりますので。これについては、先入観念というよりもその事についてのその人の哲学と語った方が良いかも知れません。そして、右翼と左翼ではこういう哲学が凄く違うのだなというのが、ここでの僕の実感でした。よって、初めからそういう討論を直接にする事も大事なわけです。
最近ここに右翼の人が多いみたいなので、僕の表題のような哲学のいったんをあらかじめお知らせしておこうと思い立ちました。以下は、昔ザクロさんという右の方と、太平洋戦争や日朝関係史などについて凄く長い論争をしたその最後の僕のまとめコメントなのですが、再掲いたします。これは、2011年4月2日エントリー「ざくろさんのアジア・太平洋戦争観」を舞台に同4月9日に付けた最後のコメントでして、「僕なりのまとめとして」と題したものです。ここではザクロさんの哲学の一部にも触れています。細かい所で、以下修正もしてあります。
『 ざくろさんとの最大の違いについて、僕なりの一つのまとめを行っておきます。少なくとも18世紀から世界に起こってきた民主主義の流れのことを。今は一応フランス革命の「自由、平等、友愛」を出発点として考えてみます。少し前のアメリカ独立戦争と並んで、身分制社会打破に向かう世界史的・画期的な大事件と教科書にも書いてあるはずですから。
身分が打破されれば、人の平等が叫ばれることになります。平等に関して大事なことはまず「命の平等」。次いで政治論としては「国民主権」「選挙権」などがあると思います。命の平等は戦争の問題視、やがてその違法化へと繋がっていき、選挙権は民衆が政治を決めるということであって、民主主義の根幹と言えるはずです。
命の平等は先ず、白人の中でとらえられました。よって奴隷開放とか植民地反対とか、戦争の違法化とかには初めは直結していません。だが、早晩これらも悪いことになっていく流れ、論理と言えたと思います。年表を見ていて気付いた歴史的一例を挙げてみましょう。
イギリスで第一次選挙法改正が行われたのが1832年、同じ33年に植民地の奴隷制廃止が決まりました。婦人・未成年者の過酷な労働が10時間までと制限されたのが47年で、第3次選挙法改正が84年のことです。とにかく、僕がここで述べている一連の民主主義、「自由、平等、博愛」の流れが相次いで始まっていることが分かります。
選挙、投票権には初め、身分とか財産とか納税額とかが絡んで、制限選挙という形しかありませんでした。さらに、歴史的に最も後に改正された制限は女性の選挙権だったように思います。日本でも、女性の選挙権は戦後にしか認められていません。こういう制限すべても「自由、平等、博愛」という観点で歴史を振り返るとき、早晩消えていく流れだったということも出来ましょう。特に19世紀のイギリスで上に見たように度重なった選挙法改正は注目です。
これらの流れを僕は、歴史の方向であるはずだなどとは敢えて言いません。反対する動きも常にあると覚悟しておく方が良いからです。世界人類200年ほどの歴史的諸事件を見ると、そういう流れが見えるというだけに留めておきます。
さて、ざくろさんは、こういう流れを20世紀半ばからしか見ないようにしていると僕には思えてなりません。歴史の変化を忠実に細かく見ていくのではなく、こんな風に見ているような。「人間平等?全然違うね。植民地が急減したのは二次大戦後だし、身分制度は世界にまだまだ残っている」
そう、抵抗する相手が絶えず生まれてくるような人々の望みはなかなか進まないのだと思います。新たな復古的措置も無数に生まれましょうし、こんな事を堂々とここで語った人もいました。
「民主主義?それってポピュリズムにしかならないよ。酷いときはフランス革命のように恐怖政治だ。少数者の哲人政治の方が良いね」
僕は以上のような流れのなかで、この百年ちょっとの戦争を見てきた積もりです。そして、こういう流れに与したいと考えています。だからこそ「戦争は少なくなり、やがてなくせる」と、声を大にして言ってきたわけでした。そしてこれは、人類の先輩たちが苦闘・開拓してきた気持ちの流れに沿った議論だと信じて疑いません。こういう見解を、手を替え品を替え、日々新たに否定しようとする流れも厳然と存在することもまた、信じて疑いませんが。営業・流通の世界的自由の名の下に超格差社会が世界で進んでいます。そんな中から餓死寸前の人々すら増えていると思います。他方では、アメリカなどで「セレブ」などと新たな身分ができたかのごとき用語が日常的に使われ、「金持ち隔離社会」なども生まれています。それだけに人類が苦闘した以上の流れを再確認しておくことは大事だと、僕は考えています。』
最近ここに右翼の人が多いみたいなので、僕の表題のような哲学のいったんをあらかじめお知らせしておこうと思い立ちました。以下は、昔ザクロさんという右の方と、太平洋戦争や日朝関係史などについて凄く長い論争をしたその最後の僕のまとめコメントなのですが、再掲いたします。これは、2011年4月2日エントリー「ざくろさんのアジア・太平洋戦争観」を舞台に同4月9日に付けた最後のコメントでして、「僕なりのまとめとして」と題したものです。ここではザクロさんの哲学の一部にも触れています。細かい所で、以下修正もしてあります。
『 ざくろさんとの最大の違いについて、僕なりの一つのまとめを行っておきます。少なくとも18世紀から世界に起こってきた民主主義の流れのことを。今は一応フランス革命の「自由、平等、友愛」を出発点として考えてみます。少し前のアメリカ独立戦争と並んで、身分制社会打破に向かう世界史的・画期的な大事件と教科書にも書いてあるはずですから。
身分が打破されれば、人の平等が叫ばれることになります。平等に関して大事なことはまず「命の平等」。次いで政治論としては「国民主権」「選挙権」などがあると思います。命の平等は戦争の問題視、やがてその違法化へと繋がっていき、選挙権は民衆が政治を決めるということであって、民主主義の根幹と言えるはずです。
命の平等は先ず、白人の中でとらえられました。よって奴隷開放とか植民地反対とか、戦争の違法化とかには初めは直結していません。だが、早晩これらも悪いことになっていく流れ、論理と言えたと思います。年表を見ていて気付いた歴史的一例を挙げてみましょう。
イギリスで第一次選挙法改正が行われたのが1832年、同じ33年に植民地の奴隷制廃止が決まりました。婦人・未成年者の過酷な労働が10時間までと制限されたのが47年で、第3次選挙法改正が84年のことです。とにかく、僕がここで述べている一連の民主主義、「自由、平等、博愛」の流れが相次いで始まっていることが分かります。
選挙、投票権には初め、身分とか財産とか納税額とかが絡んで、制限選挙という形しかありませんでした。さらに、歴史的に最も後に改正された制限は女性の選挙権だったように思います。日本でも、女性の選挙権は戦後にしか認められていません。こういう制限すべても「自由、平等、博愛」という観点で歴史を振り返るとき、早晩消えていく流れだったということも出来ましょう。特に19世紀のイギリスで上に見たように度重なった選挙法改正は注目です。
これらの流れを僕は、歴史の方向であるはずだなどとは敢えて言いません。反対する動きも常にあると覚悟しておく方が良いからです。世界人類200年ほどの歴史的諸事件を見ると、そういう流れが見えるというだけに留めておきます。
さて、ざくろさんは、こういう流れを20世紀半ばからしか見ないようにしていると僕には思えてなりません。歴史の変化を忠実に細かく見ていくのではなく、こんな風に見ているような。「人間平等?全然違うね。植民地が急減したのは二次大戦後だし、身分制度は世界にまだまだ残っている」
そう、抵抗する相手が絶えず生まれてくるような人々の望みはなかなか進まないのだと思います。新たな復古的措置も無数に生まれましょうし、こんな事を堂々とここで語った人もいました。
「民主主義?それってポピュリズムにしかならないよ。酷いときはフランス革命のように恐怖政治だ。少数者の哲人政治の方が良いね」
僕は以上のような流れのなかで、この百年ちょっとの戦争を見てきた積もりです。そして、こういう流れに与したいと考えています。だからこそ「戦争は少なくなり、やがてなくせる」と、声を大にして言ってきたわけでした。そしてこれは、人類の先輩たちが苦闘・開拓してきた気持ちの流れに沿った議論だと信じて疑いません。こういう見解を、手を替え品を替え、日々新たに否定しようとする流れも厳然と存在することもまた、信じて疑いませんが。営業・流通の世界的自由の名の下に超格差社会が世界で進んでいます。そんな中から餓死寸前の人々すら増えていると思います。他方では、アメリカなどで「セレブ」などと新たな身分ができたかのごとき用語が日常的に使われ、「金持ち隔離社会」なども生まれています。それだけに人類が苦闘した以上の流れを再確認しておくことは大事だと、僕は考えています。』