こんな文章もあって良いと考えて、僕の覚え書きメモを随筆風エントリーにしてみました。人がものを主張し、討論的に語ること自身には、案外複雑な方法、理屈があると思うのです。以下の最初は、ここにコメントしたものですが、そのコメントの補足修正から入ってみます。
人がものを語るということ (文科系) 2013-04-25 01:52:28
人がものをなにか主張し、討論的に語るということ自身には、案外複雑な理屈があると思う。
最も初歩的・原始的なのは、俺にこれこれのものをよこせ。あるいは、俺のそういう主張だけが正しいと(無自覚であっても、また、何の根拠も示さず)主張すること。次に、ちょっと人間に成り始めると、こうなるのだと思う。「対立するあの意見もこれも(同等に)主張して良い」。これは単に「並列・相対主義」とも言うべき段階に過ぎぬと少しでも考え、気づいた人は、次にはこうなる。法律なり人倫なり、歴史的賢人の言葉なりなどなどから、自己の主張がより普遍性を持つものと主張し始める。
相手を劣った者のように罵倒するだけというのは当然第一のやり方であって、まーちょっと賢い幼児のようなもんだろう。3歳児ともなれば要求のきつい子なら泣きわめいてでも自己主張を続けるものだ。大人がこういうやり方しか知らないときに、暴力とか脅迫で主張を通すということも起こる。これを常套手段としているある種の人々も存在し、これを世論工作のために活用している政治勢力も存在する。
第二のやり方は、他人と自分が同等だと初めて見えてきた若者のようなもの。単なる自己主張だけでは虐められ、無視されるだけと知り始めるのである。さて、人がものを真に考え始め、人らしい主張をし始めるのは、ここから先のことだろう。
どんな「AはBである」という主張にも、なんらか人類的普遍性のようなものを付け加え始める。すると、いろんな普遍性の形があると知り始めるのである。そして、人間らしいものを語るってそういう世界のことであって、それが分かっていないような主張は、普通なら無視されてよいようなものと思う。
ただ、対立する相手の主張を暴力で社会から抹殺することを通して、自己主張を貫くこともあったから自体はややこしい。「奴隷は主人が殺しても良い存在だ」とか、「ユダヤ人は死ぬべき存在だ」とかが、事実として存在したその例だろう。「奴隷もユダヤ人も他の人間と同等である」という主張を暴力で抹殺していくわけである。でも、この主張の否定が誤りだというのはまた、これはこれで今の世界的な法律的・人倫的・賢人遺産的知恵に属することだ。が、今までの世界のどこの国にもこういう知恵を無視して、対立意見に半ば暴力的に対処しようとする人々がいたし、現にいるものだ。(暴力的)行動右翼・左翼はどこの国にもいる。戦前の治安維持法など、国家が時にそうすることも多かった。ある思想・表現を国家が暴力的に抑えるわけだ。
このように、彼らが幼児のように見えるというだけでは済まないから難しい。「言論の自由」という知恵も通じない輩である。
追加 (文科系) 2013-04-25 02:14:00
アメリカのどの学校にもディベートという習慣があるらしい。ある命題の賛否に分かれて、討論し合うというものだ。例えば「女性は男性よりも弱い存在である」という正しいと僕が全く思わない主張の側にその僕が属したり、もっと馬鹿馬鹿しい意見を支持する立場に身を置いたりして討論させられることもある。人間の論理としての立場が弱ければ弱いほど、それを支持する側に立つ討論では努力工夫が必要であって、討論手法がより磨かれていくというわけである。
こういう経験をまじめに経ていれば、上の1や2の子ども的認識・討論段階は大学生ともなれば当然誰もが認めていて、知っていることになる。そんなことも踏まえない議論が、日本人の例えば会社人間などには多すぎると思うのだが、それは当然議論と名付けるには値しないものだと思う。会社の外へ出てもこうならば、恥ずかしいことである。
さらに追加として、討論にはそもそも最低次の2種類、側面があったと追加したい。ある物事を成し遂げることについてどっちのやり方が現実にあって合理的・能率的で的確かというのと、それは人倫的に正しいことかどうかという2種類といえばよいだろうか。前者は実験・実証も絡んだりしつつやがては自ずから明らかになっていくだろうという感じもあるが、後者は宗教の数以上に「人倫」があるというようなもので、大変難しい問題だと思う。この二つの前者を語っているつもりの人で、彼の語りの動機、出発点が実は案外後者だったということが、人間には多い。これも討論を難しくする。普通の人の討論は常にこういう困難に直面するもののようだが、学者の世界にさえ真に公平な立場など無いということなのかもしれない。
なお討論の領域と時間、つまり空間・時間を長くとった視野の問題というのもあるだろう。今のことだけとかこの国のことだけとかを語るのは比較的容易だが、これは誤りとか偏りも多いはずだ。世界の10年後20年後を正しく語れて初めて今を正しく語れるのだろうし、今の日本のことは何年後かの世界が見えなければ正しい答えは出ないだろうからだ。つまり、世界と未来を語る人の中からしか、現日本情勢を正しく語りうる人は出てこないということだと思う。もっとも、そんな社会理論もないからこそ、今の世界が混迷しているのだろう。
人がものを語るということ (文科系) 2013-04-25 01:52:28
人がものをなにか主張し、討論的に語るということ自身には、案外複雑な理屈があると思う。
最も初歩的・原始的なのは、俺にこれこれのものをよこせ。あるいは、俺のそういう主張だけが正しいと(無自覚であっても、また、何の根拠も示さず)主張すること。次に、ちょっと人間に成り始めると、こうなるのだと思う。「対立するあの意見もこれも(同等に)主張して良い」。これは単に「並列・相対主義」とも言うべき段階に過ぎぬと少しでも考え、気づいた人は、次にはこうなる。法律なり人倫なり、歴史的賢人の言葉なりなどなどから、自己の主張がより普遍性を持つものと主張し始める。
相手を劣った者のように罵倒するだけというのは当然第一のやり方であって、まーちょっと賢い幼児のようなもんだろう。3歳児ともなれば要求のきつい子なら泣きわめいてでも自己主張を続けるものだ。大人がこういうやり方しか知らないときに、暴力とか脅迫で主張を通すということも起こる。これを常套手段としているある種の人々も存在し、これを世論工作のために活用している政治勢力も存在する。
第二のやり方は、他人と自分が同等だと初めて見えてきた若者のようなもの。単なる自己主張だけでは虐められ、無視されるだけと知り始めるのである。さて、人がものを真に考え始め、人らしい主張をし始めるのは、ここから先のことだろう。
どんな「AはBである」という主張にも、なんらか人類的普遍性のようなものを付け加え始める。すると、いろんな普遍性の形があると知り始めるのである。そして、人間らしいものを語るってそういう世界のことであって、それが分かっていないような主張は、普通なら無視されてよいようなものと思う。
ただ、対立する相手の主張を暴力で社会から抹殺することを通して、自己主張を貫くこともあったから自体はややこしい。「奴隷は主人が殺しても良い存在だ」とか、「ユダヤ人は死ぬべき存在だ」とかが、事実として存在したその例だろう。「奴隷もユダヤ人も他の人間と同等である」という主張を暴力で抹殺していくわけである。でも、この主張の否定が誤りだというのはまた、これはこれで今の世界的な法律的・人倫的・賢人遺産的知恵に属することだ。が、今までの世界のどこの国にもこういう知恵を無視して、対立意見に半ば暴力的に対処しようとする人々がいたし、現にいるものだ。(暴力的)行動右翼・左翼はどこの国にもいる。戦前の治安維持法など、国家が時にそうすることも多かった。ある思想・表現を国家が暴力的に抑えるわけだ。
このように、彼らが幼児のように見えるというだけでは済まないから難しい。「言論の自由」という知恵も通じない輩である。
追加 (文科系) 2013-04-25 02:14:00
アメリカのどの学校にもディベートという習慣があるらしい。ある命題の賛否に分かれて、討論し合うというものだ。例えば「女性は男性よりも弱い存在である」という正しいと僕が全く思わない主張の側にその僕が属したり、もっと馬鹿馬鹿しい意見を支持する立場に身を置いたりして討論させられることもある。人間の論理としての立場が弱ければ弱いほど、それを支持する側に立つ討論では努力工夫が必要であって、討論手法がより磨かれていくというわけである。
こういう経験をまじめに経ていれば、上の1や2の子ども的認識・討論段階は大学生ともなれば当然誰もが認めていて、知っていることになる。そんなことも踏まえない議論が、日本人の例えば会社人間などには多すぎると思うのだが、それは当然議論と名付けるには値しないものだと思う。会社の外へ出てもこうならば、恥ずかしいことである。
さらに追加として、討論にはそもそも最低次の2種類、側面があったと追加したい。ある物事を成し遂げることについてどっちのやり方が現実にあって合理的・能率的で的確かというのと、それは人倫的に正しいことかどうかという2種類といえばよいだろうか。前者は実験・実証も絡んだりしつつやがては自ずから明らかになっていくだろうという感じもあるが、後者は宗教の数以上に「人倫」があるというようなもので、大変難しい問題だと思う。この二つの前者を語っているつもりの人で、彼の語りの動機、出発点が実は案外後者だったということが、人間には多い。これも討論を難しくする。普通の人の討論は常にこういう困難に直面するもののようだが、学者の世界にさえ真に公平な立場など無いということなのかもしれない。
なお討論の領域と時間、つまり空間・時間を長くとった視野の問題というのもあるだろう。今のことだけとかこの国のことだけとかを語るのは比較的容易だが、これは誤りとか偏りも多いはずだ。世界の10年後20年後を正しく語れて初めて今を正しく語れるのだろうし、今の日本のことは何年後かの世界が見えなければ正しい答えは出ないだろうからだ。つまり、世界と未来を語る人の中からしか、現日本情勢を正しく語りうる人は出てこないということだと思う。もっとも、そんな社会理論もないからこそ、今の世界が混迷しているのだろう。