「私はシャルリ」への中日新聞の批判はおかしいという拙稿を、22日ここに載せた。中日新聞の言う「異文化を尊重するという節度」という観点を、政教分離に基づく言論の自由という観点から批判したものだった。すると、5555さんという人がイスラムの側に立った激烈な批判を展開してきた。昔からよくある「誤ったレッテル貼り批判」であると一読ですぐに分かったので、入り口、出発点の所で証明が欠けていると、一蹴して置いた。僕は相当考え抜き、書き方も注意して書いた原稿だった割には、軽すぎる批判でもあったし。
さて、案の定、僕への援軍が現れた。それも、中日新聞紙上に。本日付「中日新聞を読んで」に名古屋大学の愛敬浩二教授が「私もシャルリである」と題した中日新聞批判記事を書いている。僕とはちょっと違った観点からなのだが。
人間に他者を裁く(注)資格など根本的にないはずで、イスラムには『自分自身を含めて世界を相対化するユーモアの精神』が欠けているという批判と言えようか。政教分離の政治の世界における言論の自由というものも、もともとこういう相対主義を前提としたもののはずなのだ。それを、自分の「(宗教の)絶対者」という観点から「(政治世界の)言論の自由によって傷つけられた」という人が存在するとしたら、ましてそういう人が政治世界の言論に暴力で応えるとしたら、そういう人々、宗教は批判されずには済まないはずではないか。宗教を信ずることを批判しているのではない。その宗教原理を政治言論の世界の中に持ち込んで、暴力として振る舞い返すことを批判しているのである。愛敬氏はイスラム国だけではなく、イランのホメイニ氏による「死刑宣告」の例をも挙げて、こういう批判を展開していた。ご一読を。
近代になって日が浅い日本は、こういう政治原理に関わる思考がまだまだ随分と浅いと思う。政治の公論を損得の論議にしたり、ネトウヨ諸君のようにポジショントークと決め込んでみたり。だから、安倍などが台頭してくるのだが。といっても、近代の歴史が長い英米仏の体制側マスコミ主流は、その権威も既に地に落ちているのではあるが。イラク戦争理由でころっと騙されたかのアメリカマスコミが、今大きな顔をしている事態は僕には全く信じられない思いである。その自己批判もないのに、シリアがどうとかこうとか? よく言うよと思う。日本マスコミも近くそうならなければよいのだが、近ごろ怪しいものである。中日新聞だけはまだ大丈夫なようだが。
注 この場合の「他者を裁く」は、人間個人にはできないことで、裁判のような意味だろう。「貴男は死刑」だとか、「懲役○年」だとかのように裁くことと読んだ。これは、「国家が(やむを得ず)やるものである」ということだ。言論に対する反論は言論でするから、これは裁くことにはならないとも理解できる。
なお、上の「国家が(やむを得ず)やるものである」とは、こういう意味である。国家の主人公は国民だから、その国家が国民を裁くというのが論理矛盾だということだ。例えば社会契約説国家論は、そこをこう説明していると聞く。主人公である国民が契約しあって国家にそういう権限を与えたのだと。この論議は、つまらない国家主義に陥らないためにも大切な論点だと思うから、敢えてくどくどと書いた。ただし、シャリーアを基礎とするイスラム国家は、こういう国家観とは全く異なるはずだ。今後日本でも、こういう論議はとても大切になるだろう。イスラム相手にも、おかしな安倍の台頭、マスコミ支配によっても。
さて、案の定、僕への援軍が現れた。それも、中日新聞紙上に。本日付「中日新聞を読んで」に名古屋大学の愛敬浩二教授が「私もシャルリである」と題した中日新聞批判記事を書いている。僕とはちょっと違った観点からなのだが。
人間に他者を裁く(注)資格など根本的にないはずで、イスラムには『自分自身を含めて世界を相対化するユーモアの精神』が欠けているという批判と言えようか。政教分離の政治の世界における言論の自由というものも、もともとこういう相対主義を前提としたもののはずなのだ。それを、自分の「(宗教の)絶対者」という観点から「(政治世界の)言論の自由によって傷つけられた」という人が存在するとしたら、ましてそういう人が政治世界の言論に暴力で応えるとしたら、そういう人々、宗教は批判されずには済まないはずではないか。宗教を信ずることを批判しているのではない。その宗教原理を政治言論の世界の中に持ち込んで、暴力として振る舞い返すことを批判しているのである。愛敬氏はイスラム国だけではなく、イランのホメイニ氏による「死刑宣告」の例をも挙げて、こういう批判を展開していた。ご一読を。
近代になって日が浅い日本は、こういう政治原理に関わる思考がまだまだ随分と浅いと思う。政治の公論を損得の論議にしたり、ネトウヨ諸君のようにポジショントークと決め込んでみたり。だから、安倍などが台頭してくるのだが。といっても、近代の歴史が長い英米仏の体制側マスコミ主流は、その権威も既に地に落ちているのではあるが。イラク戦争理由でころっと騙されたかのアメリカマスコミが、今大きな顔をしている事態は僕には全く信じられない思いである。その自己批判もないのに、シリアがどうとかこうとか? よく言うよと思う。日本マスコミも近くそうならなければよいのだが、近ごろ怪しいものである。中日新聞だけはまだ大丈夫なようだが。
注 この場合の「他者を裁く」は、人間個人にはできないことで、裁判のような意味だろう。「貴男は死刑」だとか、「懲役○年」だとかのように裁くことと読んだ。これは、「国家が(やむを得ず)やるものである」ということだ。言論に対する反論は言論でするから、これは裁くことにはならないとも理解できる。
なお、上の「国家が(やむを得ず)やるものである」とは、こういう意味である。国家の主人公は国民だから、その国家が国民を裁くというのが論理矛盾だということだ。例えば社会契約説国家論は、そこをこう説明していると聞く。主人公である国民が契約しあって国家にそういう権限を与えたのだと。この論議は、つまらない国家主義に陥らないためにも大切な論点だと思うから、敢えてくどくどと書いた。ただし、シャリーアを基礎とするイスラム国家は、こういう国家観とは全く異なるはずだ。今後日本でも、こういう論議はとても大切になるだろう。イスラム相手にも、おかしな安倍の台頭、マスコミ支配によっても。