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改めて、朝鮮慰安婦問題  文科系

2015年02月14日 17時33分48秒 | Weblog
①まず、政府が先頭に立って慰安所設置に務めたこと、朝鮮で募集に当たったこと、少なくとも内地募集では誘拐があったこと、等を当時の政府文書で示したい。

 1937年12月21日付で在上海日本総領事館警察署から発された「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」から。
『 皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件
 本件ニ関シ前線各地ニ於ケル皇軍ノ進展ニ伴ヒ之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中処頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ
        記
領事館
 (イ)営業願出者ニ対スル許否ノ決定
 (ロ)慰安婦女ノ身許及斯業ニ対スル一般契約手続
 (中略)
 憲兵隊
 (イ)領事館ヨリ引継ヲ受ケタル営業主並婦女ノ就    業地輸送手続
 (ロ)営業者並稼業婦女ニ対スル保護取締
武官室
 (イ)就業場所及家屋等ノ準備
 (ロ)一般保険並検黴ニ関スル件
 
右要領ニヨリ施設ヲ急キ居ル処既ニ稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナルカ之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ルニ付乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度(以下略)』

この文書を受けて1938年3月4日に出された陸軍省副官発で、北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」より

『 支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ』

 
②次に、当ブログで僕がずっと語ってきたネット右翼諸君への批判を書きたい。
 ①のように内地では誘拐に類するやり方があったと当局が述べているのだし、中国では強制連行があったと歴史家・秦郁彦が語っている。これは、朝鮮でも同じような事が十分に予想される状況証拠になろう。

③次いで、僕が最も力説してきたのはこのことだ。朝鮮は1873年征韓論・西郷隆盛の出兵騒動を経て1875年江華島事件以来東学教徒鎮圧など数々の皇軍暴力を経て、1910年に植民地にされた。その後はまたさらに、35年間植民地だった。その間日本への反乱、反抗行為は絶えず、女囚房も含めた政治犯刑務所なども「大盛況」であった。こういう国の女性が「任意の自由意思で売春婦になった」と植民地にした側の人間が現在語っているのだが、あまりにも違和感がある。1929年の世界大恐慌以降は、日本でも「娘売ります」があったことを考えれば、朝鮮半島では同じ事がもっと多かっただろうと十分に推察できるからだ。つまり、植民地宗主国が広義にはそういう事態を多く作ってきたとも言えるのである。政治犯として家の主などが殺された例なども数知れずだったのだから、少なくとも広義の強制は絶対にあったと言いたい。

 以上から、平時の「(保護者の意思も含めた)任意自由意思の売春婦」のように日本人が語るのは、道義的には全く許されないどころか、犯罪的行為とさえ思うものだ。ドイツが、占領したフランスに今ヘイトスピーチをやるのと同じ行為であるという事実を、少しは考えてみたらよい。 
コメント (16)
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当ブログ当初5年の発展を振り返る    文科系

2015年02月14日 05時40分04秒 | その他
 当ブログは、この秋で発足10年になります。大学時代からの友人(管理人さん)の呼びかけで僕ともう一人が応え、管理人さんの友人、御親類なども参加したことなどから、下記のように大変な発展をしてきました。「名もない私人の政治名ブログ」としては、異例の数字だと自負しています。以下は発足5年の頃にこの発展を振り返って、「どんなものが読まれるか」、「こんなブログでありたい」などの私見をまとめたものです。管理人さんは長くご病気、御親類の名随筆家の一人は家庭内事故で書けなくなり、もうお一人の優れた論文書きの方は癌で亡くなられて、それぞれ永久欠席。今でも、痛恨の極みです。僕が嫌いで去って行かれた途中参加の方も何人かいらっしゃるようですが、それに対する責任も僕なりに取ってきたつもりです。


『 私見、ここに何が期待されている?  文科系  2010年02月22日 | その他

 このブログも05年11月発足から、そろそろ5年を迎えようとしている。アクセス数で言えば、週間人数でこんなふうに発展してきた。閲覧数は、これらの数字に3~4ほどを掛けていただけばよいだろうか。こんな事から始めて、標記のことを考えてみた。

 当初の1年はアクセスの多い週で400人ほどであり、200人台の週もざらにあった。多分、ほとんどが昭和区9条の会の方々だったのだろうと思われる。ただ、急に多くの投稿を読まれたという週があった。400人ほどの方が、 閲覧2000とか、時に3000を越えるというような週も混じったからだ。当然のことだが、ここの人々に「これは読みたい」という強い好みがあるということだろう。
 週アクセス500人を越えたのは発足1年半弱ほどのことで、1000人を越えたのがさらに1年ちょっとを経た発足2年半の08年初夏のころだった。その後は小幅の一進一退を経て、去年の夏の初めに1500を越え、8月にはやがて2000人へと増えるにいたった。ちょうどあの衆院選挙を控えた頃のことである。そして、現在までそのピークを基本的に続行中であるうえに、この1~2月には2500人近い人が10000回前後閲覧するというような過去最高の峰が3週続いた。

 さて、どんな投稿が望まれているのだろう。「私見」、自分なりの分析をまとめてみたいし、皆さんからもご意見を聞いてみたい。素直に次のように考え、望むからだ。エンタテインメント映画よろしく読まれさえすればよいと言うのではなく、自分としてなんらかの意義ありと思って書かぬモノは一つもないのであって、より多くの方々にこれらをお読みいただきたいと願っているからである。

①投稿の形としてはこんな事が言える。
a 自分なり誰かなりの意見、感想などは好まれない。ただしこういうものであっても、投稿で継続される論争は好まれる。
b よく調べられた事実報告(紹介も含む)が好まれる。最近では例えば、「女性秘書監禁事件」の週刊朝日記事紹介など二つの投稿とか、昔で言えば「激流中国」(の本の連載紹介)などは、非常に多くの方に読まれた。自分なりに興味がわいた新聞報道記事などの紹介も、結構読まれると実感する。
c 随筆とか俳句などは結構人気があるし、具体的事項でテーマを明示した短い論文のようなモノもここでは案外多くの人に読まれている。後者の例としては、09年11月15日からの1週間が過去ダントツのアクセス数(2719人)だったということなどが挙げられよう。

②内容的には、こんな事が言える。
a 流石に選挙前の何ヶ月かは、いつも急に読者が増える。ここの性格上そういう記事が増えるからだし、そこに関心も集まるからだろう。ただし、一政党支持のような投稿がでると、すぐに批判が返されてくるという特徴も、ここにはある。
b 俳句、随筆に人気があるというのは、文化に関わるからだろう。政治評論も時事問題も、そういう意見、感想も、文化のような形式で書けると良いのだが。因みに、「随筆」と銘打ってあるとそれだけでの検索ヒット訪問も相当あるようだ。
c スポーツは特に人気がある。野球もそうなのだけれど、拙稿で恐縮だがサッカー記事で外れたことはない。きちんと調べたモノをいくらか書き連ねた週は、必ずアクセス、閲覧ともにその週の内に急増していくことが分かる。因みにこういう急増が、歴代アクセス・ピーク時には必ず関わっていると言っても良い。また、なんらか活躍した個人名からの「検索訪問」も多い。
d 以上にも述べたことだが「Jワード検索」などに上がっているような氏名、事項が投稿名称に付けてあったりすると、急にアクセスが増えることがある。これは是非、投稿者の方々に念頭に置いていただきたいことである。

 継続は力であると、つくづく思う。ただし、マンネリでないちょっと能動性のある継続ということだろうと、急いで付け加えたい。最近は、長く続いた新聞などのどこもが下降線一途なのだし、ブログといえども友人仲間、団体仲間の域を出ていないといったものがほとんどなのだから。このブログは、グーブログ140万弱のうちで、3000位を割りはじめており、こういう性格のモノとしては異例なものであろうと、僕は密かに自負している。

 最後に僕個人のここへの決意を少々。今まで同様、基本は1人称文体で行きたい。文芸文が無人称文章よりも人々に好まれるのは、人の顔が見えるからだろう。また、丸公を扱う政治というものは、個人の顔が見えにくいから無責任にも見えたりして好かれないという特徴もあるのではないか。全ての人の生活を左右するほどに極めて大事なモノなのに、投票率数十パーセントなどというのが良い例証になるだろう。そして、人の顔が見えないということは、文化の匂いも少ないということだろう。文化というモノはどうしても個人の感性、5感を抜きには語れないものだからだと思う。こうして僕としては今までと同様、9条に関係なくというように投稿していきたい。9条に関係ない人間の営み、感性などは実際にはおよそあり得ないんじゃないかという、そんな感じで。』
コメント (2)
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