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ゲーゲンプレスのスイッチ、憲剛   文科系

2019年01月17日 15時14分44秒 | スポーツ
 川崎の強さの元がゲーゲンプレスそのものだと観ていたが、それを解説してくれる中村憲剛のインタビューを読むことが出来た。「Jリーグ サッカーキング」2月号、J1、2、3各リーグ優勝チーム特集号である。なお、サッカーキングという雑誌はとても内容がよいと思ってきたところから、最近の僕はもっぱらこれを愛読している。ちなみに、サッカー雑誌も良貨が悪貨を駆逐して欲しいと愚考してきた。この国のサッカーファンの質に関わる問題だと思うから。

 初めに、ゲーゲンプレスの定義をしておく。この得点戦術の元祖ドルトムント時代のユルゲン・クロップ監督の解説はこういうものだ。
①相手陣地に押し込んだ時、相手が自ボールを奪って攻めに出た瞬間こそ、そのボールを奪えればゲーム中最大の得点チャンスができる。これが、この得点戦術そのものの着眼点である。
②そこから、敵陣に攻め入った時にあらかじめ①を意識しつつ攻めることになる。例えば、身方後方になるべくフリーな相手を作らないようにしつつ攻める。奪われた時にボールの受け手になる人間を作らないようあらかじめ意識して準備をしておくということだ。DFラインを押し上げて縦に陣地を詰め、そこに身方を密集させる「コンパクト」が、このための布陣にもなる
③その上で、ボールを奪われた瞬間に敵ボールに近い数人が猛然とプレスに行き、他はパスの出先を塞いで、パスが出せないようにする。この「攻から守への切替」をいかに速くしてボールを奪うかが、ゲーゲンプレスの要になる。言い換えれば、そうできる準備を、敵に攻め入った時いかに周到にしておくか、そういう組織的訓練がゲーゲンプレスの練習になる。

 さて、憲剛の優勝総括を聞いてみよう。
『例えば、鬼木体制になってからの変化として、守備の楽しさを覚えたと話している。・・・・ボールを失った瞬間に、素早く切り替えてボールを取りに行くこと。そして球際の局面で力強さを出すことである。・・・それこそが鬼木監督が掲げているサッカースタイルなのだ。・・・もちろん、守備に楽しさややりがいを見出したと言っても、それが目的というわけではない。守備が目的ではなく、目的はあくまでもゴールである。「攻撃のための守備」というのが鬼木体制における合言葉だ。・・・「相手がボールを取った瞬間に、取り返しに行く。息をつかせない。今は、それがチームの戦術にもなっているし、周りの身方も早く反応してくれる」・・・そんな守備のスイッチ役としてプレッシャーを掛ける仕事には、時に嬉しい見返りもある。相手のボールを狩りに行き、そのままゴールに(この場合は、堅剛自身のゴールに)繋がる形がそれだ。・・・』

 川崎は風間時代にはどうしても優勝できなかった。それが鬼木時代になったとたんに、2連覇。この繋ぎ上手チームの優勝への画竜点睛こそ、以上のゲーゲンプレスの取り入れ、『「攻撃のための守備」というのが鬼木体制における合言葉』であると分かるのである。

 一時のACLなど、アジア相手にも当たりが弱かった日本クラブが、これを急激に強め始めた時代が、ちょうどゲーゲンプレスの日本取り入れ時代と重なるのである。最初の森保広島、次いで鹿島、今の川崎・・・。ただ、川崎の時代はまだしばらくは続いていくはずだ。憲剛の後にも怪物・家長がいるし、小林のフォアプレスも止むことはないだろうし。
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小説 「死に因んで」(その2)   文科系

2019年01月17日 12時54分15秒 | 文芸作品
 宴たけなわの頃、前から予告しておいたのだが、ある随筆を読み始めた。もちろんその場でも皆の了承を取って。俺が現役時代から二十年ほど属している同人誌に、ちょうど一年ほど前にのせた作品である。一年前に書いた作品を、予告・了承を取り付けていた初めての朗読でやったのだから、中途半端な気持ちでなかったのは確かだ。ちなみに、全文を書いてみれば、こんな作品である。

── 死にちなんで
 心臓カテーテル手術をやった。麻酔薬が入った点滴でうつらうつらし始めてちょっとたったころ、執刀医先生の初めての声。
「これからが本番です。眠っていただきます」。
 ところがなかなか眠りに入れない。眠っても、間もなく目を覚ます。痛い。するとまた、意識が薄らいでいくのだが、また覚醒。そんなことが三度ほど繰り返されたので、「痛いです」と声をかけた。執刀医の先生、かなり驚いたように何か声を出していた。
 さてそんなときずっと、いやに冴えている頭脳である思いにふけっていた。大事故の可能性もある手術と、聞いていたからでもあろう。手術自身はちっとも怖くはなかったのだけれど、こんなことを考えていた。
「このまま死んでいっても良いな。死は、夢を見ない永遠の眠り、か」
 知らぬ間に生まれていたある心境、大げさに言えば僕の人生の一つの結実かも知れない。
 小学校の中ごろ友人を亡くして、考え込んでいた。「彼には永遠に会えない。どこにいるのだ」。ひるがえって「僕もそうなる」。それ以来自分が死ぬということを強く意識した。ほどなくこれが「永遠の無」という感じに僕の中で育っていって、何とも得体が知れぬ恐怖が始まった。この感じが寝床で蘇って、何度がばっと跳ね起きたことか。そんな時はいつも、冷や汗がびっしょり。そしてこの「症状」が、思春期あたりから以降、僕の人生を方向付けていった。「人生はただ一度。あとは無」、これが生き方の羅針盤になった。大学の専攻選びから、貧乏な民間福祉団体に就職したことも、かなり前からしっかり準備した老後の設計まで含めて、この羅針盤で生きる方向を決めてきたと思う。四人兄弟妹の中で、僕だけが違った進路を取ったから、親との諍いが、僕の青春そのものにもなっていった。世事・俗事、習慣、虚飾が嫌いで、何かそんな寄り道をしなかったというのも同じこと。自分に意味が感じられることと、自分が揺さぶられることだけに手を出して来たような。
 ハムレットの名高い名台詞「生きるか、死ぬか。それが問題だ」でも、その後半をよく覚えている。「死が眠りにすぎぬとしても、この苦しみが夢で現れるとしたら、それも地獄だし?」というような内容だったかと思う。この伝で言えば、僕のこの「症状」ははてさて、最近はこんなふうに落ちついてきた。
「夢もない永遠の眠り。それに入ってしまえば、恐いも何もありゃしない」
 どうして変わってきたのだろうと、このごろよく考える。ハムレットとは全く逆で、人生を楽しめてきたからだろう。特に老後を、設計した想定を遙かに超えるほどに楽しめてきたのが、意外に大きいようだ。ギター、ランニング、同人誌活動、そしてブログ。これらの客観的な出来はともかく、全部相当なエネルギーを費やすことができた。中でも、ギター演奏、「音楽」はちょっと別格だ。自身で音楽することには、いや多分自分の美の快に属するものを探り、創っていく領域には、どういうか何か魔力がある、と。
 この二月から、ほぼある一曲だけにもう十ヶ月も取り組んできた。南米のギター弾き兼ギター作曲家バリオスという人の「大聖堂」。楽譜六ページに過ぎぬ曲なのだが、ほぼこの曲だけを日に二~三時間練習して先生の所に十ヶ月通ってきたことになる。長い一人習いの後の六十二からの手習だから通常ならとっくに「まー今の腕ではここまででしょう。上がり」なのだ。習って二ヶ月で暗譜もし終わっていたことだし。が、僕の希望で続けてきた。と言っても、希望するだけでこんなエネルギーが出るわけがない。やればやるほど楽しみが増えてくるから、僕が続けたかったのである。こんな熱中ぶりが、自分でも訝しい。
「何かに熱中したい」、「人が死ぬまで熱中できるものって、どんなもの?」若いころの最大の望みだった。これが、気心の知れた友だちたちとの挨拶言葉のようにもなっていたものだ。今、そんな風に生きられているのではないか。日々そう感じ直している。───

 今思えば、随筆のタイトルのせいもあろうかして、こんな場所の皆がこれを良く聞いていたと思う。朗読の中ほどまでは全く静かだったからほっとしていたのだ。そのあたりから一人二人がお喋りを始め、それが急激に広がっていった。残り三割ほどになったとき、実際はそうでもないのだろうが、俺には誰も聴いていないとしか感じられなかった。この作品が自分にとって大事なものだという気持ちが強すぎて、そう見えたのだろう。とにかく、こんな行動に打って出てしまった。朗読を止め、適当にお札を出して机の上に叩きつけながら、「こんな会、もう出てこん!」とか、「だから日本の男は嫌いだー」とか、何か捨て台詞のようなことを叫びながらそこを飛び出して行った。来たときと同様に電飾などにぎやかな繁華街を引き返していた時もその間中、燃え上がり渦巻いていた怒りを鎮められないでいた。それどころか、逆に懸命に油を注いでいたように思う。唱えるように繰り返したこんな言葉を今でも覚えているから。
〈あんな会、もう、出てやるもんか! 俺には、出る意味が、全くない。あれほど念を入れて予告し、了承も取り付けてきたのに………〉   

 さて、翌日からは、悶々とした日々が続いた。こんなに親しい、あるいは親しくなった連中とのこの場所に出ないならば、全員をしっかり見知った百三十人(中学から高校で入れ替わり分がダブっている)ほどの同期会自身にも出辛いことになる。普通に考えれば俺の態度が礼を失することも明らかだ。謝罪などは、反省点があるととらえたらいくらでもできる性分だが、およそその気になれないのである。そんな数日が続いた後に、笠原から手紙が届いた。この会の成り立ちをせつせつと振り返ったうえで、こう結んでいる。
「ジェントルマンであるのが、最低のルールです。………次回○月○日には皆さんの元気なお顔を期待しています」
 成り立ちを振り返ったのは「お前と二人でやって来たのだぞ」という意味と、「お前も世話役、ホストだろうが」との意味も込められているのだろう。対して、十日ほど悩み抜いた末にとうとう、こんな結論を記した手紙を出したのだった。
「こういう手紙、ご案内をいただいたことに、まず心を込めて感謝したいと思います。『昔からの友達』なればこそとね。あーいう非常識な去り方をした以上そちらからはほかっておかれても普通だと、僕も思いますから。………今後はそこに出ません。そして、同窓会も出ないと決めました。………まー僕もすごく短気になりました。人生が短くなるごとに、生き急いで、見ている世界が狭くなっているのでしょう」

 こうして、俺の中で事が一段落したその夜に、この終始をそのままに連れ合いに持ちかけてみた。問題になっている事柄の内容をもう一歩整理してみたかったからだし、同期生たちと会えなくなるという後悔、未練も残っていたのである。
「この前、同期の定例飲み会に絶縁状叩きつけるようにして席を蹴ってきたって、話したよなー。何回か読んでもらった『死にちなんで』という随筆の朗読絡みだとも。あれからこんなことがあってね………」
 怒りの内容、笠原の手紙、そして俺の返事、順を追ってすべてを話し終わった。と言っても、この頃の俺はすらすらとは話を進められない。言葉を探して言いよどんだり、言い忘れていた話にぶち当たって前に戻ったりで、そんな時は相手の腰や腕がむずむずしているのが手に取るように分かる。さてそのむずむずが溜まりに溜まって、どんな返事が返って来るだろう。思いもしないほどきっぱりとした、明快なものだった。これには、逆に俺が驚いたほどだ。
「あなたのアイデンティティー絡みなのだから、譲りたくなかったらそれでよし。というか、あなたにはむしろ、この外って置く方を勧める!」
 俺は一瞬、彼女の目を見直した。こういう時、場面における連れ合いの迷いのなさには、時に驚くことがある。が、すぐに俺への忠告含みと受け取ることができた。感情が強くて近ごろ特にトラブルを起こしがちな上に、世間への見方がどこか普通ではないかして譲りすぎてしまうことも多く、誤解とか損とかを招いてきた俺を知り抜いているからの忠告なのである。もっとも彼女の方は、家族とごく少ない古くからの友人以外は疎遠になっても一向に構わないという、俺とは正反対の所がある。まー「袖すり合うも多生の縁」という諺などは、金輪際思いつかないような種類の人だ。案の定、こんな達観した説明が追加されてきた。
「この随筆が貴方にとってどれだけ大切なものか、他の人たちに分かるの? あなたって、テレビもサッカー以外は観ないし、同人誌でもこれと関わりの少ないことはほとんど書いてないはず。この随筆のギター場面でも単なる音楽好きとだけ取られることもあるよねー。確かこの作品の合評会でも『問題提起の重さの割に、ギター場面が軽い』とかの声も出たとか。貴方のギター生活を毎日観てる私には、とてもそうは思えないけどね。とにかく、これであっさり謝ったら、単なる礼儀知らずか、酔っ払いと思われるだけじゃない」
 なるほどと思った。流石出会ってこの五十数年、ありとあらゆるケンカをし尽くしてきている仲だけのことはある。世間との付き合い方も対照的だからこそ、こんな的確な判断、表現が出てきたのだろう。そしてさらに、こんな老婆心までが続いたものだ。
「ただね、もし向こうが改めて出てくれと言ってきたら、どうするの?」
 これには即座にこう答えたのは言うまでもない。
「だったら、改めて出席して、あの随筆を読み直すよ」
 そう口に出しながら、こんな思いを巡らせていた。こういう人間がいると主張し尽くすのも、良いことだろう。特に、日本の男たちには。だが、「出てくれ」ともう一度言ってくるだろうか? 対する彼女の方はと言えば、この時はこんな見通しを持っていたようだ。俺には思いつきもしなかったことだが。

(次回終了)
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