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サラーとネイマールの「違い」   文科系

2019年01月14日 12時45分30秒 | スポーツ
 昨日のイングランド・ゲームで、リバプールが1対0で勝って、首位を守っている。その1得点が、プレミア全体で大論議になって、話題を呼んでいる。まず、リバプールのエースでエジプト人のサラーがペナルティーを取って上げた1得点について、シミュレーションという非難が出てきた。これを同僚のある選手がこう弁護したのである。
『彼は「そういう選手」では、断じてない』

 どうだろう。同僚からこう庇われる選手と、世界的有名選手として3本の指に入るだろう、天下のネイマールとを比べてみて欲しい。

 この超有名ブラジル選手は、ブラジル流儀のマリーシア(狡猾という意味)とやらをW杯ロシア大会で世界に見せ過ぎたせいか、全世界から「そういう選手」と観られてしまった。世界の子どもサッカーで「ネイマール!」と叫びつつ、大げさに倒れてみせる遊びまで流行させたというニュースは既に有名である。
 こういうことの結末なのでもあろうが、このネイマールの最も最近の話でこんな事もある。彼が「元のバルサに戻りたい」と言い出したのだけど、古巣バルセロナは「要らない」と応えたと言う事件が起こった。
 彼がサッカー界の伝統的習慣を破って秘密裏に強引に今のパリサンジェルマンに移ったことから、ここでも道義のない汚い選手と観られてしまったのだろう。この移籍は、彼の代理人のようなことをしている父親の仕業、責任が一番大きいとも語られてもいるが、そんなこともあってネイマールの人気はすっかり地に落ちたのである。ダーティーな移籍、入団は、江川卓など、日本の野球界でも幾多の大事件になってきたが、ネイマールの場合はもう、江川のようには立ち直れまい。これでもって彼を取るのは、ブラジルとちょっと似たところがある落日のイタリアサッカー界、クラブぐらいで、イングランドなどはもうネイマールを金輪際取らないはずだ。

 さて、サラーとネイマール、この問題をもう一歩深めて考えてみたい。
 カネと商売がらみゆえ勝ち負けだけに異常に拘ったマスコミ絡みの「興業スポーツ」と真のスポーツとの、スポーツ観の世界的対立の問題なのだと言いたい。そして、「興業スポーツ」には少年たちに憧れさせるという意味でも明日はなくじり貧で、後者こそ国民皆スポーツという理念とも結びついて発展性がある。そんな風に僕は考えて来た。
 日本の真剣なサッカー少年もブラジル流儀とイングランド流儀と二派に分かれるようだが、岡崎や吉田そして香川もイングランドに拘ってきたのは、単に「最強リーグステイタス」というのではなく、以上のような問題絡みなのだと僕はずっと理解してきた。
 例えばイングランドの目の越えたファンに、岡崎はこう観られ、こう語られて来た。
「気品のある選手だ!」

 岡崎のフェアな敢闘精神がこう観られているわけであって、岡崎自身もこう語っている。
「イングランドの激しい走り合いや体当たりがやりたくって、ここに来たんですから・・・」
なお、この「気品ある選手」というのは、英国の新聞が使った表現であって、この事の次第については、以下の拙稿を参照されたい。16年5月3日「気品ある選手」。これの出し方はこうだ。まず、右欄外の今月分カレンダーの下にある「バックナンバー」と書いた年月欄をスクロールして、16年5月をクリックする。すると上の今月分カレンダーがその月のものに替わるから、その3日をクリックする。これで、エントリー本欄がその日のエントリーだけに替わるから、お求めの物をお読み願える)

 僕は、一部スポーツ・マスコミが作るスポーツのバラエティー化の風潮をいつも苦々しく思っている。無意識にと言うことも含めてスポーツを大きく汚してきた側面があると考えて来た。
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随筆  「音楽」の友達   文科系

2019年01月14日 00時45分03秒 | 文芸作品
 
 今朝、ギター仲間Nさんからこんなメールがあった。冒頭の文言からして、その嬉しさのほども分かろうというもの。
『おはよう? こんな時間に目を覚ましてしまった。でも善は急げ、朗報です』
 午前二時四四分発送とある。

 【昨日レッスンが終わってからAさん宅に行ってきました。彼から「一度私の『月光』を聴いて欲しい」ということで。大変驚いた。半年くらい前に聴いたのとは違い格段に上達されていたので。ゆっくりたんたんと、そしてしっかりとしたテンポとタッチ。私も要望されて『月光』を弾いたが、確実に私の負け。でも嬉しくって涙が出てきた。絶対に人前で曲を弾かなかった彼が「自分の演奏を聴いて欲しい」という気持ちになったというのが、嬉しかったなぁー。(以下略)】

 この二人、あるギター教室の七十に近い同門生で、Nさんとは同じ歳、Aさんは一つ上。去年の早春、発表会の打ち上げ会で知り合ってから二年足らずのお付きあいだ。そして、打ち上げ会の一二日あとに我が家に三人が集った「ギター遊び・飲み会」以降しばらくして、ある事件が起こった。Aさんが教室を辞めてしまったのだ。この事件の微妙さを部外の方々に分かってもらうのはとても難しいのだが、こんなことだと推しはかってきた。
 まず、Aさんが教室の先生に大きな不満を持ち始めた。どうも、僕たち二人の批評から『先生が、この年寄りとしてはこんなもんだろうとだけ扱ってきた』と思い至ったらしい。僕らの関係もナーバスなものになってきた。特に、僕の古いアルペジオ楽譜二枚にショックを受けたとしきりに語られる。定年後先生につく以前、一人習いの昔から、ちっとも上手くならないのでいつも基礎に帰って弾き込んできてぼろぼろになった二枚であった。これのことも含めて、彼はおおむねこんな思いを抱いていたのではないか。
〈習って二十年。ちっとも前進しなかったのはタッチがいい加減だったからだ。練習時間と熱意とでは誰にも負けぬと自負してきたが、それもどうもあやしい。俺のこのギター、これから一体どうしたら良い!〉
 以降の彼は、僕とは話したくないようだった。今分かるのだが、僕が何気なく口に出した言葉が彼をずいぶん傷つけてもいたようだ。

 そして、彼との接触を委ねたNさんからこう聞いたのが、去年の晩夏。
「別の先生について、音だしの基礎練習だけをやってきたらしい」

 秋には、Nさんの努力で三人の下呂温泉一泊旅行が実現した。Aさんは、僕らが思いもしなかったことだが、Nさん持参のギターでその音だしだけを披露してくれた。見違えるようにしっかりしたタッチだった。Nさんが事実通りに褒めていたし、僕も言葉に注意しつつ何かを言ったと思う。この時の彼の心境! 帰宅翌日のメールにこうあった。
 「正直言ってお二人の前でギターを弾いた時は、清水の舞台から……の心境。緊張感を凌駕した恐怖感。結果、弾き終わって『汗びっしょり』でした。お二人に対する敬意のつもりで弾きました」
 ギター、「音楽」へのなにかとてつもない愛着を僕に感じさせた。
 その後しばらくして「曲の練習に、『月光』に取りかかられた」と聞いていた。

 この三人で出発した「ギター遊びの会」の方は二回目以降もずっと続き、来新春で春夏秋冬ともう二回り、八回目になる。常連出席も男女八名と賑やかなパーティーに育っている。Aさんがここに戻って来ること、これがNさんと僕の暗黙の誓いのようなものだ。その理由は自分でもよく分からないが、こういう「音楽」の場所に彼がいないのは、おかしい。
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