慢性通 S.Yさんの作品です
どこも悪くないのにいつまでも痛みが続き一向に治らない、というのがある。
慢性通というのだそうだが、それは人によって腰だったり、背中、肩、脚だったりする。あらゆる精密検査をし、良いと言われる方法(漢方薬、体操、ヨガに瞑想、はりにマッサージ)を試し、救いを求めて病院を幾つも受診する。ネットでも病名を調べて病院を探す。
世の中にはそういう人々が多いとテレビの健康番組で知った。
数年前の私がまさにそうだった。半年近くも頭痛が続き、何をしても良くならなかったし、検査をしてもどこも悪くなかった。はたから見たら健康そうだが痛みは当人にしか分からない。思い出してもあの当時は辛かった。痛みをこらえながら老母の介護に通い、娘から頼まれれば孫たちの世話もした。むろん家事もこなした。あとはひたすら横になって痛みとともに時間をやり過ごしていた。幸い、夕方からは痛みが和らぎ夜は眠れた。そして明け方から時間を図ったように頭痛が襲ってくるという繰り返しで、毎日痛みで目が覚めた。
私の病状とよく似た例が二つあった。一つは義妹が患っていた「下垂体腫瘍」という病気。彼女は手術をして良くなったが、完治は難しく、腫瘍が大きくなったら再手術が必要だと聞かされた。私もこの病を疑っていたのだが医師にはきっぱりと否定された。
今一つは「登校拒否」。病状はよく似ているのだが、これは言うまでもなく問題外だ。
けれど、なぜ私が半年近くも苦しんだ痛みから解放されたか。今でもわからない。身近な人々から病院の紹介や健康法などのアドバイスをいただいたが、それを実行する前に痛みは消え去ったのだ。不思議でならない。
それで先の慢性通を扱ったテレビ番組で「はっ!」と気づかされたのだ。どこも悪くないのに痛みがあるのは前頭前野という脳が痛みを記憶して伝え続けているのだと。昨今、様々な病気は脳が関わっているとよく聞く。慢性通の専門医師は下敷きのようなパネル(これを痛みと仮定)を患者と押し合いながら、痛みを押し払う、もしくは痛みを横へ置くというような動作を繰り返した。これは脳を痛みの記憶から遠ざけたり、視点を変えさせたりして、僅かずつ痛みを忘れさせるのだという。そして何より大切なのは、痛みに執着しない、少しでも何かできること(趣味、嗜好)をやってみるということらしい。
私はまさにこれだった。長びく痛みに辟易して、映画や観劇を観たり、美術館やランチの誘いにも出かけた。ウオーキングで遠出もした。家でじっとしていても痛いのだから、どうせ痛いのなら好きなことをしようと開き直っただけのことだった。途中で倒れたら誰かが救急車を呼んでくれるだろうと能天気に考え、一カ月ほど続けていたら治ったのだ。
私の前頭前野が痛みを忘れてくれたということなのか? 半信半疑だが、有難い。
かの「樋口一葉」は頭痛持ちで、物凄い頭痛と肩こりに苦しみ続け、執筆しながら若くして亡くなったという。そういえば昔、眉間に皺を寄せてこめかみに梅干しを貼った中高年女性をよく見かけた。
医学の進歩した今の時代に生き合わせた私は幸運だった。しみじみそう思う。
どこも悪くないのにいつまでも痛みが続き一向に治らない、というのがある。
慢性通というのだそうだが、それは人によって腰だったり、背中、肩、脚だったりする。あらゆる精密検査をし、良いと言われる方法(漢方薬、体操、ヨガに瞑想、はりにマッサージ)を試し、救いを求めて病院を幾つも受診する。ネットでも病名を調べて病院を探す。
世の中にはそういう人々が多いとテレビの健康番組で知った。
数年前の私がまさにそうだった。半年近くも頭痛が続き、何をしても良くならなかったし、検査をしてもどこも悪くなかった。はたから見たら健康そうだが痛みは当人にしか分からない。思い出してもあの当時は辛かった。痛みをこらえながら老母の介護に通い、娘から頼まれれば孫たちの世話もした。むろん家事もこなした。あとはひたすら横になって痛みとともに時間をやり過ごしていた。幸い、夕方からは痛みが和らぎ夜は眠れた。そして明け方から時間を図ったように頭痛が襲ってくるという繰り返しで、毎日痛みで目が覚めた。
私の病状とよく似た例が二つあった。一つは義妹が患っていた「下垂体腫瘍」という病気。彼女は手術をして良くなったが、完治は難しく、腫瘍が大きくなったら再手術が必要だと聞かされた。私もこの病を疑っていたのだが医師にはきっぱりと否定された。
今一つは「登校拒否」。病状はよく似ているのだが、これは言うまでもなく問題外だ。
けれど、なぜ私が半年近くも苦しんだ痛みから解放されたか。今でもわからない。身近な人々から病院の紹介や健康法などのアドバイスをいただいたが、それを実行する前に痛みは消え去ったのだ。不思議でならない。
それで先の慢性通を扱ったテレビ番組で「はっ!」と気づかされたのだ。どこも悪くないのに痛みがあるのは前頭前野という脳が痛みを記憶して伝え続けているのだと。昨今、様々な病気は脳が関わっているとよく聞く。慢性通の専門医師は下敷きのようなパネル(これを痛みと仮定)を患者と押し合いながら、痛みを押し払う、もしくは痛みを横へ置くというような動作を繰り返した。これは脳を痛みの記憶から遠ざけたり、視点を変えさせたりして、僅かずつ痛みを忘れさせるのだという。そして何より大切なのは、痛みに執着しない、少しでも何かできること(趣味、嗜好)をやってみるということらしい。
私はまさにこれだった。長びく痛みに辟易して、映画や観劇を観たり、美術館やランチの誘いにも出かけた。ウオーキングで遠出もした。家でじっとしていても痛いのだから、どうせ痛いのなら好きなことをしようと開き直っただけのことだった。途中で倒れたら誰かが救急車を呼んでくれるだろうと能天気に考え、一カ月ほど続けていたら治ったのだ。
私の前頭前野が痛みを忘れてくれたということなのか? 半信半疑だが、有難い。
かの「樋口一葉」は頭痛持ちで、物凄い頭痛と肩こりに苦しみ続け、執筆しながら若くして亡くなったという。そういえば昔、眉間に皺を寄せてこめかみに梅干しを貼った中高年女性をよく見かけた。
医学の進歩した今の時代に生き合わせた私は幸運だった。しみじみそう思う。