中野さんの記事、玉音放送に続いて
軍隊生活を連載します。 落石
昭和十九年十二月一日三重県斉宮の第七航空通信連隊に入営した。
昭和十八年十二月徴兵年齢が十九歳に引き下げとなり、
昭和十九年は十九歳と二十歳の徴兵検査が実施された。
私もこの年四月に徴兵検査第一乙種合格となった。
昭和十九年十一月三十日夕方、東京都品川区の小学校に集合した私達、
入営者は、入営部隊も目的地も軍事機密であると知らされず、
品川駅からブラインドを下ろした客車に詰め込まれ、
真夜中の鉄路を東京から西に向かって走り続けた。
翌朝夜が明けると三重県伊勢駅で降ろされた。
ここで近鉄に乗り換えて斉宮駅で降りた。
駅から歩いて十分ここが私の入営する三重県斉宮第七航空通信連隊である。
戦後、斉宮村は明和町となり、今は史跡斉宮跡の斉宮歴史博物館で有名である。
戦後五十年が経った頃、私のNHK時代の先輩宮城孝行さんから、
五十ページのワープロ原稿が送られてきた。
「自分史を書き始めた。軍隊の記録から始めるので読んで欲しい」
宮城さんは大正十二年生まれ、第七航空通信連隊に昭和十九年四月入営。
この年十一月三十日に部隊から仙台教育隊に出発した。
これは戦後宮城さんと話をして知った。
送られた記録を読んで驚いた。
宮城さんには戦後公私ともお世話になったが、
一日違いで同じ部隊の中隊に入ったという偶然には驚いた。
この記録は第七航空通信連隊に入隊から、部隊を去るまでの六ヶ月間の生活が、
詳細にまた克明に記録してある。
戦後五十年、私はこの部隊の三ヶ月はほとんど忘れて記憶になかった。
この記録により私は五十年前に一気にタイムスリップした。
部隊は教育隊であるので常に初年兵を迎える。
三ヶ月の初年兵教育を終わると各地の航空通信連隊に配属される。
私が入隊したのは前日まで宮城さんがいた第五中隊、
隊長も変わらず朝倉中隊長であり、
幹部下士官も変わらず第五中隊に入隊した。
宮城記録の最初のページに第七航空通信連隊の所在地図があった。
戦後発行の地図に宮城さんの記憶している連隊の場所を赤くマークしてある。
私の記憶する部隊の所在地とは違っていると感じた。
戦後五十年初めて三重県斉宮に確認のため出かけた。
近鉄斉宮駅いまは近代的な駅に変わっている。
駅前の案内板は三重県明野町斉宮である。
戦後史跡の発掘が進み斉宮博物館が建設され、歴史の町に発展した。
入営した兵舎は史跡の上に建てられていたが当時は全く知らなかった。
駅から歩き出すと兵舎から毎日ながめていた給水塔がみえた。
地図の赤いマークとは違いもっと駅から近い。
給水塔は兵舎の北端にあった、今は明野町役場の駐車場となっている。
通信連隊を確認のため明野町役場で聞いてみた。
暫くすると担当者がコピーを手にして現れた。
一枚は連隊の場所の地図、一枚は兵舎の建物配置図である。
戦後、戦友会が開かれると、ここを訪ねる人も多いので資料として保存してある。
戦争中、空襲のためほとんど焼けてしまった。
現在残っている建物は給水塔と炊事場、これは今も使われている、
「この配置図で歩いて下さい」と説明を受けた。
北側から見るとこの土地は戦後開拓地となり
畑が作られたが今は少なくなり空き地が多い。
所々に住宅が建てられている。
道路は真っ直ぐに広いまま残っている。
歩き出すと五十年後の浦島太郎であることを実感する。
表門のコンクリート歩哨塔三個残っている。弾薬庫もそのまま残っている。
何回もお世話になった医務室も壊れかけて残っている。
兵舎のコンクリートの基礎はそのままであり、
特に便所のコンクリートは変わらず残っていた。
昭和十九年十二月一日から、翌二十年三月まで四ヶ月この部隊にいたが、
この部隊のことは記憶に残っていなかった。
宮城さんの記録を読み、斉宮を訪ねたことで一挙に五十年前にタイムスリップした。
この日から自分史に挑戦することを決心した。
平成十八年三月「記録 激動の昭和を生きて 宮城孝行著」の本が送られてきた。
B4版上、中、下三巻千ページを越える本である。
宮城氏は私のNHK時代、そして軍隊の先輩でもあり、
戦後も終生の友人であった。
二〇〇一年七十七歳の生涯を閉じた。
七十歳から毎日ワープロでこの記録を書き残した。
四〇〇字原稿祇で四三〇〇枚の記録であった。
残された奥さんがこの記録の出版を考えられ、
今年になり「記録 激動の昭和を生きて」が出版された。
私の自分史もやっと軍隊生活に入るところ、
この本は宮城氏の無言の励ましであることを強く感じた。
戦後六十一年目を迎える今年、苦しかった軍隊は忘却のかなたである。
面白かった記憶のみ残ってしまつた。
つづく