「「なぜ」という小さなことば、それは、わたしがまだとても幼くて、ろくに話もできなかったころから、それは強い響きをもっていて、わたしをとらえて離しませんでした。幼い子は、大げさにいえば、この宇宙に存在するすべての物が珍しいので、なんでも質問することは、よく知られていることです。
わたしの場合、まさにそうだったのですが、わたしは、小学生になっても、質問を受けた人が答えられること、答えられないことを問わず、ありとあらゆることを聞かずにじっとしてはいられなかったのです。
答えること自体は、たいしてわずらわしいことではなかったでしょうが、わたしの両親は、わたしの質問をただの一度も無視したり、はぐらかしたりすることはありませんでした。一つ一つに、それはていねいに、わかりやすく答えてくれました。しかし、そのうちにわたしは、見知らぬ人までいじめだすようになりました。が、他人は、少数の例外をのぞいて、「子どもの果てしない質問」をがまんできません。
わたしとて、それが受ける人にとって迷惑であることを知らなかったわけではありませんが、「知るためには聞かなければならない」「求めよ、さらば与えられん」という金言を、自分につごうのいいように解釈しては、しつこく質問を続けたのです。でも、もしこれがほんとうだったら、わたしはとっくに、しかるべき大学の教授にでもなっていたはずですがー
しかし、小学校の高学年になったある日、わたしは、どんな質問をだれにもでしていいわけではないことと、だれにも答えられない「なぜ」があることを知りました。そのとき以来、わたしは、頭に浮かんだ質問を人に発するまえに、とくにそれが技術的なことでなく精神的なことの場合は、自分自身でじっくりと考えることにしているのです。その結果、わたしは、それから数年後に、歴史的な大発見に到達することができたのです。すなわち、他の人に聞いてはいけない質問は、自分自身で必ず解くことができる、ということです。
この発見について、すこし突っ込んでお話ししてみましょう。もしもみんなが、「なぜ」という質問が頭に浮かんだら、それを口にだすまえに、まず自問してみたら、どういうことになるでしょうか?
きっと、今よりももっともっと正直で、ずっとずっと慎み深い、いい人たちになれると思うのです。なぜなら、正直に善良になるいちばんいい方法は、たえず自分をよくみつめ、チェックしつづけることだからです。
みんなにとってもっともいやなことは、自分の欠点や悪い面、他人にいやがられるくせ(これはだれだって持っています)を、自分で認めることです。子どもばかりでなく、おとなだってそうです-この点について両者の間になんの相違もありません。
良識派といわれる人たちの多くは、子どもを教育するのは親の責任だ、親は子どもの欠点や、人に好かれない性質を発見したら、びしびし叱り、逆に良い方向性は極力伸ばすように、親が手を貸してやらなければいけないと考えています。でも、これは明らかに間違っています。子どもたちは、小さいころから自分自身をみがくべきで、進んで真の個性を示さなくてはなりません。
具体的にいえば、なぜ、わたしは仲間はずれにされるのかしら?男の子に人気ないのかしら?なぜわたしは期末試験でよい点が取れないのかしら?と反省し、その欠点を矯正する努力をすべきなのです。
こんなことをいえば、多くの人たちは、十代の少女がなにを生意気なことをと、一笑に付されるかもしれませんが、わたしは、それほど大きく的をはずれてはいないと信じています。
どんな小さな子どもでも、ひとりの人間であり、良心もあり、それなりに正直に扱われて育てられるべきです。小さな子どもといえども、なにか道にはずれたことをしでかした場合、もっとも厳しい方法で、つまり自身の良心で、すでに自分を罰して苦しんでいるのです。
それなのに世の両親たちは、14、5歳になった子どもが、自分たちの常識からすこしでもはずれたことをしでかすと、
「なぜ、こんなばかなことをしでかしたんだ」といってはげしく叱って、はなはだしい親にいたっては、おこずかいを減額したり、おしりをぶったりします。こんなことは百害あって一利なしです。子どもはただただ反発してしまうだけでしょう。そこで両親には、表題のことばが必要になってきます。
「なぜ、あんなことをしでかしたんだ」と、本人を詰問するまえに、「なぜ、こういうことになったんだろう?」と、自分でよく考え、しかるべき後に、本人と冷静に、合理的に話し合うべきだと思います。そして、さりげなく子どもに間違いを示すべきです。こういう方法をとれば、重い閥などよりも、ずっと良い結果が得られるでしょう。体罰なんか、こっけいでしかありません。
なにやら知ったかぶりに、くどくど述べてしまいました。でも、要するにわたしが言いたかったのは、どの子どもの生活においても、「なぜ」という小さなことばが、それは大きな役割を演じている事実です。
「知るためには聞かなければならない」という金言は、たしかに真実であります。そして、とくに子どもの場合、「なぜ」ということばが浮かんだら、まず自分でじっくりと考えるように適切に指導されれば、金言は、さらにその重みと輝きをますことになるでしょう。考えることによって向上した人は多くても、より悪くなった人はひとりもないと思うのです。」
(アンネ・フランク『アンネの青春ノート』小学館、1978年8月20日初版より)
わたしの場合、まさにそうだったのですが、わたしは、小学生になっても、質問を受けた人が答えられること、答えられないことを問わず、ありとあらゆることを聞かずにじっとしてはいられなかったのです。
答えること自体は、たいしてわずらわしいことではなかったでしょうが、わたしの両親は、わたしの質問をただの一度も無視したり、はぐらかしたりすることはありませんでした。一つ一つに、それはていねいに、わかりやすく答えてくれました。しかし、そのうちにわたしは、見知らぬ人までいじめだすようになりました。が、他人は、少数の例外をのぞいて、「子どもの果てしない質問」をがまんできません。
わたしとて、それが受ける人にとって迷惑であることを知らなかったわけではありませんが、「知るためには聞かなければならない」「求めよ、さらば与えられん」という金言を、自分につごうのいいように解釈しては、しつこく質問を続けたのです。でも、もしこれがほんとうだったら、わたしはとっくに、しかるべき大学の教授にでもなっていたはずですがー
しかし、小学校の高学年になったある日、わたしは、どんな質問をだれにもでしていいわけではないことと、だれにも答えられない「なぜ」があることを知りました。そのとき以来、わたしは、頭に浮かんだ質問を人に発するまえに、とくにそれが技術的なことでなく精神的なことの場合は、自分自身でじっくりと考えることにしているのです。その結果、わたしは、それから数年後に、歴史的な大発見に到達することができたのです。すなわち、他の人に聞いてはいけない質問は、自分自身で必ず解くことができる、ということです。
この発見について、すこし突っ込んでお話ししてみましょう。もしもみんなが、「なぜ」という質問が頭に浮かんだら、それを口にだすまえに、まず自問してみたら、どういうことになるでしょうか?
きっと、今よりももっともっと正直で、ずっとずっと慎み深い、いい人たちになれると思うのです。なぜなら、正直に善良になるいちばんいい方法は、たえず自分をよくみつめ、チェックしつづけることだからです。
みんなにとってもっともいやなことは、自分の欠点や悪い面、他人にいやがられるくせ(これはだれだって持っています)を、自分で認めることです。子どもばかりでなく、おとなだってそうです-この点について両者の間になんの相違もありません。
良識派といわれる人たちの多くは、子どもを教育するのは親の責任だ、親は子どもの欠点や、人に好かれない性質を発見したら、びしびし叱り、逆に良い方向性は極力伸ばすように、親が手を貸してやらなければいけないと考えています。でも、これは明らかに間違っています。子どもたちは、小さいころから自分自身をみがくべきで、進んで真の個性を示さなくてはなりません。
具体的にいえば、なぜ、わたしは仲間はずれにされるのかしら?男の子に人気ないのかしら?なぜわたしは期末試験でよい点が取れないのかしら?と反省し、その欠点を矯正する努力をすべきなのです。
こんなことをいえば、多くの人たちは、十代の少女がなにを生意気なことをと、一笑に付されるかもしれませんが、わたしは、それほど大きく的をはずれてはいないと信じています。
どんな小さな子どもでも、ひとりの人間であり、良心もあり、それなりに正直に扱われて育てられるべきです。小さな子どもといえども、なにか道にはずれたことをしでかした場合、もっとも厳しい方法で、つまり自身の良心で、すでに自分を罰して苦しんでいるのです。
それなのに世の両親たちは、14、5歳になった子どもが、自分たちの常識からすこしでもはずれたことをしでかすと、
「なぜ、こんなばかなことをしでかしたんだ」といってはげしく叱って、はなはだしい親にいたっては、おこずかいを減額したり、おしりをぶったりします。こんなことは百害あって一利なしです。子どもはただただ反発してしまうだけでしょう。そこで両親には、表題のことばが必要になってきます。
「なぜ、あんなことをしでかしたんだ」と、本人を詰問するまえに、「なぜ、こういうことになったんだろう?」と、自分でよく考え、しかるべき後に、本人と冷静に、合理的に話し合うべきだと思います。そして、さりげなく子どもに間違いを示すべきです。こういう方法をとれば、重い閥などよりも、ずっと良い結果が得られるでしょう。体罰なんか、こっけいでしかありません。
なにやら知ったかぶりに、くどくど述べてしまいました。でも、要するにわたしが言いたかったのは、どの子どもの生活においても、「なぜ」という小さなことばが、それは大きな役割を演じている事実です。
「知るためには聞かなければならない」という金言は、たしかに真実であります。そして、とくに子どもの場合、「なぜ」ということばが浮かんだら、まず自分でじっくりと考えるように適切に指導されれば、金言は、さらにその重みと輝きをますことになるでしょう。考えることによって向上した人は多くても、より悪くなった人はひとりもないと思うのです。」
(アンネ・フランク『アンネの青春ノート』小学館、1978年8月20日初版より)
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