たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『アンネの青春ノート』より_なぜ?

2019年03月18日 22時49分31秒 | 本あれこれ
「「なぜ」という小さなことば、それは、わたしがまだとても幼くて、ろくに話もできなかったころから、それは強い響きをもっていて、わたしをとらえて離しませんでした。幼い子は、大げさにいえば、この宇宙に存在するすべての物が珍しいので、なんでも質問することは、よく知られていることです。

 わたしの場合、まさにそうだったのですが、わたしは、小学生になっても、質問を受けた人が答えられること、答えられないことを問わず、ありとあらゆることを聞かずにじっとしてはいられなかったのです。

 答えること自体は、たいしてわずらわしいことではなかったでしょうが、わたしの両親は、わたしの質問をただの一度も無視したり、はぐらかしたりすることはありませんでした。一つ一つに、それはていねいに、わかりやすく答えてくれました。しかし、そのうちにわたしは、見知らぬ人までいじめだすようになりました。が、他人は、少数の例外をのぞいて、「子どもの果てしない質問」をがまんできません。

 わたしとて、それが受ける人にとって迷惑であることを知らなかったわけではありませんが、「知るためには聞かなければならない」「求めよ、さらば与えられん」という金言を、自分につごうのいいように解釈しては、しつこく質問を続けたのです。でも、もしこれがほんとうだったら、わたしはとっくに、しかるべき大学の教授にでもなっていたはずですがー

 しかし、小学校の高学年になったある日、わたしは、どんな質問をだれにもでしていいわけではないことと、だれにも答えられない「なぜ」があることを知りました。そのとき以来、わたしは、頭に浮かんだ質問を人に発するまえに、とくにそれが技術的なことでなく精神的なことの場合は、自分自身でじっくりと考えることにしているのです。その結果、わたしは、それから数年後に、歴史的な大発見に到達することができたのです。すなわち、他の人に聞いてはいけない質問は、自分自身で必ず解くことができる、ということです。

 この発見について、すこし突っ込んでお話ししてみましょう。もしもみんなが、「なぜ」という質問が頭に浮かんだら、それを口にだすまえに、まず自問してみたら、どういうことになるでしょうか?

 きっと、今よりももっともっと正直で、ずっとずっと慎み深い、いい人たちになれると思うのです。なぜなら、正直に善良になるいちばんいい方法は、たえず自分をよくみつめ、チェックしつづけることだからです。

 みんなにとってもっともいやなことは、自分の欠点や悪い面、他人にいやがられるくせ(これはだれだって持っています)を、自分で認めることです。子どもばかりでなく、おとなだってそうです-この点について両者の間になんの相違もありません。

 良識派といわれる人たちの多くは、子どもを教育するのは親の責任だ、親は子どもの欠点や、人に好かれない性質を発見したら、びしびし叱り、逆に良い方向性は極力伸ばすように、親が手を貸してやらなければいけないと考えています。でも、これは明らかに間違っています。子どもたちは、小さいころから自分自身をみがくべきで、進んで真の個性を示さなくてはなりません。

 具体的にいえば、なぜ、わたしは仲間はずれにされるのかしら?男の子に人気ないのかしら?なぜわたしは期末試験でよい点が取れないのかしら?と反省し、その欠点を矯正する努力をすべきなのです。
 
 こんなことをいえば、多くの人たちは、十代の少女がなにを生意気なことをと、一笑に付されるかもしれませんが、わたしは、それほど大きく的をはずれてはいないと信じています。

 どんな小さな子どもでも、ひとりの人間であり、良心もあり、それなりに正直に扱われて育てられるべきです。小さな子どもといえども、なにか道にはずれたことをしでかした場合、もっとも厳しい方法で、つまり自身の良心で、すでに自分を罰して苦しんでいるのです。

 それなのに世の両親たちは、14、5歳になった子どもが、自分たちの常識からすこしでもはずれたことをしでかすと、
「なぜ、こんなばかなことをしでかしたんだ」といってはげしく叱って、はなはだしい親にいたっては、おこずかいを減額したり、おしりをぶったりします。こんなことは百害あって一利なしです。子どもはただただ反発してしまうだけでしょう。そこで両親には、表題のことばが必要になってきます。
「なぜ、あんなことをしでかしたんだ」と、本人を詰問するまえに、「なぜ、こういうことになったんだろう?」と、自分でよく考え、しかるべき後に、本人と冷静に、合理的に話し合うべきだと思います。そして、さりげなく子どもに間違いを示すべきです。こういう方法をとれば、重い閥などよりも、ずっと良い結果が得られるでしょう。体罰なんか、こっけいでしかありません。
 
 なにやら知ったかぶりに、くどくど述べてしまいました。でも、要するにわたしが言いたかったのは、どの子どもの生活においても、「なぜ」という小さなことばが、それは大きな役割を演じている事実です。

「知るためには聞かなければならない」という金言は、たしかに真実であります。そして、とくに子どもの場合、「なぜ」ということばが浮かんだら、まず自分でじっくりと考えるように適切に指導されれば、金言は、さらにその重みと輝きをますことになるでしょう。考えることによって向上した人は多くても、より悪くなった人はひとりもないと思うのです。」

(アンネ・フランク『アンネの青春ノート』小学館、1978年8月20日初版より)

 

アンネの青春ノート (1978年)
アンネ・フランク
小学館

待つだけ無駄でした

2019年03月18日 15時23分55秒 | 日記
 一通目も二通目も結局そもそも応募要件となっていた資格をもっていないし、ペーパードライバーだから駄目ですよ、ということでした。二通目はハロワはともかく受け付けられないとすぐに電話があったのでまだいいです。一通目は二週間待った結果ハロワを通して確認したところようやく書類選考で不採用ということのようです。紹介状出してもらう時にどちらも伝えてもらっていたはずで車の件はそれを上回るだけの経験なりがあればという話だったはずです、その資格をもっていないとできない仕事かどうか知りませんが最初に伝わっていたわけでそれが理由でそもそもやっぱりダメでしたということなのか、そこはあいまいです。知りたかったら行政文書の開示請求してくださいとのこと。そんなことをしても無駄だとしっているのでそんなことにエネルギーとお金を使ったりしません。なんかダメですね、車社会。ペーパードライバーが生きていくことはできななそうだとわかってきました。今さら悔やんでも仕方ないですが先月同じ採用試験日なら通えないとわかって書類を送った方に行けばよかったかもしれません。一応大きな地方都市なので、選択肢はずっと多いし、必ずしも車を求められません。駅まで徒歩30分でバスは一時間に一本が壁となって人生開けてこないならまた家を出ることを真剣に考えねばです。よかったら応募しなおしてくださいと連絡があった二通目のところが本当に応募要件を広げてまた募集をかけなおしたそうです。そこにまた書類を送るのか、今は気力がわきません。ひたすら取りつかれたように断捨離の日々。こんなにどっさり荷物を残して逝かれてしまうと後に残った者は大変ですね。父親が買っただけで満足したと思われる大判の名画全集も古本屋で売れなかった処分するつもり。母親が遺した本には全部日付と名前が入っているので売れないし、妹の荷物もまだまだ。家賃のひっ迫感はありませんがせっかくの経験を活かしたい、もう少し経験を積み上げたいという気持ちがあります。でも家からは通えない。また家賃で苦労するしかないのか。帰郷してから慣れない田舎暮らしにずっと気持ちは沈んでいます。心配した同級生がランチかお茶しようって声かけてくれてありがたいです。自転車で行けるところに行き尽くしました。これからどうしましょう。それにしても、ぜひ力を貸してほしいとか、私の話が先方にいっているみたいだとかなんだったのか、力が抜けました。