たんぽぽの心の旅のアルバム

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第六章OLを取り巻く現代社会-⑬余暇と労働-労働の場としての組織と「社会的世界」との関連から

2024年10月10日 01時36分41秒 | 卒業論文

 黒井千次は、労働の中に生きがいを見出すことができなければ私生活へと関心を向けるのは、病床の寝返りに過ぎない、と述べているが、余暇と労働の問題を考えるときの一つの視点として、余暇を媒介として成立する意味的世界も「社会的世界」の一つと考える私化論の立場をここで紹介しておきたい。山岸健は、日常生活を他者への関係づけ、他者への関与を通じて構築される社会的世界という局面でとらえた。[1] 私たちの生活の舞台である日常的世界は、私たちに共通に与えられた時間的空間的世界、「社会的世界」なのである。時間的に、また空間的に、様々なスタイルで存在する人々によって秩序づけられる「社会的世界」において見られる諸活動が日常生活といえるのであった。[2] こうした「社会的世界」を労働の場としての組織との関連で捉えるとどうなるだろう。現代社会において人間の絆が極めて多様化した側面を持ち始めている、と指摘する私化論の立場に立つ片桐雅隆の記述に沿ってみていきたい。

 私化論の立場から見た現代社会における人々を結びつける絆は、伝統的な家、組織、地域などによってすでに与えられた規範に基づいて形成される境界のはっきりし、誰もが自明としうるものではなく、一人一人の人間が自らの意味付与によって築き上げていくもののように思われる。そのような絆によってまとめ上げられる人々の集まりを説明する概念としてD・R・ウンル-の「社会的世界」という考え方をまとめれば、成員資格とか地域的限定など、形式的に決めることのできる境界によってくくられた人間のまとまりではなく、人々が共属していると「内的に理解」し合うことによって成り立つまとまりが「社会的世界」なのである。それには様々なものが含まれる。一人一人の人間が互いの存在を確かめながら作り上げる付き合いの世界、趣味やスポーツなどを媒介とした集団、ファンクラブ、あるいはより抽象的なまとまりとしての思想や学問の共有を媒介として形成される人々のまとまりなどが「社会的世界」の例である。人々が自らの「社会的世界」に参加することは、人々がそのことに意味付けの根拠を見出しているからであり、彼らの日常生活の営みにとって重要だからである。そして、この「社会的世界」を考える上で不可欠なことは、この世界がそれへの人々の関わりにおいて初めて成立するということである。もちろんその関わり方は多様であるが、「社会的世界」への安定した参加者は、その世界の形成と維持に深く関わり、その世界に自らのレリヴァンス[3]を見出し、また供給されるのである。このように、「社会的世界」とは、規模の大小、人々の関わり方の程度、境界の規定など様々であり、それ故に曖昧に定義されたものであるかもしれない。しかし、現代人の行動をくくるものが、すでに与えられた目に見える境界をもった在来の組織や地域などにのみ求めることが難しいとされる今日、それらの枠を超えて成立する人間のまとまりの概念として「社会的世界」という考え方は示唆的である。

 ここで、労働の場としての組織を「社会的世界」との関連で捉えてみる。組織は、成員の資格、境界などのはっきりした人々の集まりである。そして、そこでは、特定の目標、役割・地位に基づいた行動が見られると考えられている。そのこと自体に誤りはない。しかし、私化論の指摘に従えば、生活領域の多様化の指摘される現代において、特定の組織の成員たちはその組織とは相対的に独立したそれぞれの「社会的世界」をもっている。組織とは、多様な「社会的世界」を持った人々の集まりであり、それらの人々の目的や関心の競合する場なのである。そして、組織を様々な「社会的世界」の競合の場として考えた時、初めて労働と余暇の関連を捉える視点にたどり着く。現代社会において余暇は、あくまでも労働との関連において語られる。余暇の発生と労働とは不可分な関係なのである。産業革命以後の原生的労働関係における労働と余暇の関係は、長時間労働を強いられ、時間としての余暇は極めて少なかった。次に余暇を労働政策のひとつとして捉える時期がある。労働への補完的機能としての余暇の位置づけは現代でも多く偏在していると思われるが、現代ではさらに、余暇は労働とは相対的に独立した一領域になりつつある。仕事=労苦、遊び=安楽というような二分した捉え方が一般的になっていることがそれを示している。

 私化論において重要なのは、労働と余暇の関係を単に客観的な時間や空間の問題としてではなく、あくまでそれぞれの領域に人々がどのような意味付けをしているかという点から出発して扱おうとしたところにある。このような考え方は、「社会的世界」という考え方と多くの共通性を持っている。「社会的世界」のまとまりは、組織や地域などの目に見える境界によって区切られるのではなく、あくまで人々がそこに共通の意味づけを見出す限りで成立するまとまりである。余暇を媒介として成立する意味的世界を「社会的世界」の一つとして考えるならば、私化論の捉えようとした現実と「社会的世界」論のそれとは共通するものである。私化した社会を前提として初めて「社会的世界」についての考え方が成立したと言えるかもしれない。[4]

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引用文献

[1] 山岸健『日常生活の社会学』10-11頁、日本放送出版協会、1978年。

[2] 山岸、前掲書、98頁。

[3] レリヴァンス;有意性などと訳される。多義的であるが、個人や集団が自分たちにとって有意味な生活領域を特徴づけるときの評価や判断の基準となるもの。レリヴァンス体系が交差したり共有されるとき、人々の相互理解が可能になるといわれる。(有斐閣『社会学小辞典[新版]』

[4] 片桐雅隆「労働・余暇・私化」山岸健・江原由美子編『現象学的社会学・意味へのまなざし』289-292頁、三和書房、1985年。

 

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