会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

ちょっと会津を2

2012-05-04 19:36:09 | 地域情報
2012年5月4日(金)くもり・雨 昭和の日
 大型連休も後半になった。何処かへでかける予定もない。混雑する道路や観光地への車の運転はあまり得意でない。 城西地区歴史探訪ウオーキングの資料の整理でもして、連休明けたら高齢者マークをつけてゆっくりとドライブでも楽しむことにする。

 
会津については、[新編会津風土記(5巻)]をはじめ[会津の歴史、続会津の歴史]、[会津若松史(12巻)]、[会津若松市史(25巻)]、[会津の歴史上下]、[目で見る会津風土記]、[やさしく書いた会津の歴史上下]など数多くの書物が出版され研究されている。 会津は歴史的にも幾多の変遷を経て現在に至っている。
 

来年度はNHKの大河ドラマで「八重の桜」が放映され全国的にも会津が注目され、観光客も多く訪れることだろう。期待したい。  下町の城西地区の史跡巡りをする人はあまりいないと思うが、葦名氏が会津に下向し城を築くまでのことがわかる稲荷神社を訪ねてみてはどうでしょうか。

会津若松市神指町幕の内の「二本木稲荷社由緒」によれば
<創紀年代は詳かではないが、口伝によれば文治五年(1189年)会津の守護佐原十郎義連は奥州平定の際源頼朝に従って平泉の役に勲功あり、その恩賞として会津を賜りこの地に来たり、油幕を張って仮の城郭としたところから村名を幕の内と名付けたと伝えれている。当時稲荷神社の側には幹囲七尋もある老槻の神木二株が在ったが、この枝を伐り油幕の幕串にする細柱として用いたというから随分古い社である。略>
 

 葦名七代目の会津若狭守平直盛が康暦元年(1379年)鎌倉より会津に下向。幕の内の新城寺に3年居住した。その後、小高木城(黒川城)を築くため会津若松市本町(元融通寺町)に弘和二年(1382年)小さな舘を築いた。(小館)




 直盛が小高木城(黒川城)を築城の時、二本木稲荷に祈願し、薄雪が鹿子斑に降った満願の朝、夢のおさとしがあって使いの白狐が参道一路東に進み足跡を印して城郭の導をつけたといわれ、今の鶴ヶ城の稲荷は二本木稲荷の分神とも伝えられる。
 その後、葦名氏は長きに亘って会津を治めたが伊達政宗によって滅ぼされた。
 天正十八年(1590年)蒲生氏郷が会津に転封され、城を大改築し、城下町を改造したため、葦名時代の城跡などは残っていない。葦名時代の中世会津を研究する会がある。
「会津葦名研究会」といい会員60名くらいで活動している。



  ちょっとだけ 調べてみれば 住む町を