会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

松本城・安曇野方面 第二日目の2

2012-06-07 11:50:55 | 旅行
6月7日(木)雨・晴れ

同級生との旅行の続きをアップします。5月28日(月)
諏訪大社の参拝を終えて高速道で松本市へ。
国宝松本城を見学。3度目。今回は朱塗りの狸橋を渡らず、お堀端を回って黒門から入場した。日本最古の五重天守にふさわしい風格ある環境整備がなされていた。

パンフレットによると《創始》
 『松本城は戦国時代の永正年代初めに造られた深志城が始りです。戦国時代になり世の中が乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の井川に館を構えていた信濃の守護小笠原氏が、館を東の山麓の林地区に移すと、その家臣らは林城を囲むように、支城を構えて守りを固めました。
 深志城もこの頃林城の前面を固めるために造られた。その後、甲斐の竹田信玄が小笠原長時を追い、この地を占領信濃支配の拠点としました。その後天正十年(1582年)に小笠原貞慶が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名を松本城と改めました。』

 戦うための黒い堅固な天守と平和な時代になって造られた優雅な辰巳附櫓・月見櫓。数々の優れた築城技術が今に伝えられている。
 それは天守閣保存に尽力した功労者(市川量造・小林有也など)がいたからである。
彼等は明治時代になってからは、旧物破壊思想のもと、松本城天守も売却競売・破壊の運命にあったのを買戻し保存に貢献した。

 会津の鶴ヶ城も廃城されることが決定していた。町民は廃城に反対し幾度も請願したが陸軍省の考えは替えられなかった。取り壊す前に場内を見たいという町民の願いで明治七年東北ではじめての博覧会を開いた。826円で落札された鶴ヶ城は、博覧会が終わるとすぐ取り壊しにかかり、七月には荒城と化した。
 その後、明治26年(1890年)、仙台の第七十七銀行頭取であった旧会津藩士遠藤敬止が、城郭地全部を陸軍省から払い下げを受け、旧藩主松平家に寄付した。
 松本城を見学しながら鶴ヶ城に想いを・・・・・・。

 松本城を見学した後、安曇野スイス村で昼食。スイス村とは名ばかりでそれらしい民俗衣装を纏った店員もいないし店内の雰囲気も普通のドライブインであった。
大王わさび農場では、黒沢監督が映画撮影をした水車や皇太子と雅子様がご覧になったわさび畑の景色を眺めた。ここも3度目なのであまり感動はしなかった。

今回の旅行の主な場面をランダムに載せました。下記のアルバムをご覧ください。
残雪残る妙高の峰々を眺め長野へ旅行