会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

大雪で温泉三昧が没

2014-12-18 18:34:31 | Weblog
2014年12月18日(木)雪0.7℃~ー3.8℃
 
 “みんなでJR只見線の早期復旧を応援しよう!! 12月特別企画「JR只見線に乗って 深沢温泉で温泉三昧!」の案内が奥会津五町村活性化協議会から届いた。

この協議会では地域の協力を得ながら、利用促進対策として只見線乗車体験を企画している。
JR只見線乗車、代行バスなど移動にかかる運賃は協議会で負担する。昼食代及び入浴料は個人負担。

疲労回復や健康増進に効果があるといわれる深沢温泉。サウナも完備した「季の郷湯ら里」と日帰り温泉施設の「むら湯」、温泉に浸かってゆっくりと時間を過ごすことを楽しみにしていたのだが、この大雪で只見線が運休となり温泉三昧は没となってしまった。残念だがまた特別企画が届けば只見線早期復旧の応援のために参加したいと思っている。  

昨日から降り積もった雪が玄関前から表通りに出る路地、駐車場などすっぽりと覆っている。隣組は7軒。そのうち高齢者、寡婦など独居老人が5軒。私たち夫婦と息子夫婦で雪片付けするしかない。腰痛で辛いが誰かが雪を片づけてくれるわけでない。自分達でするしかない。 会津は大好きな土地だが年をとると雪片付けが難儀であり、冬だけは雪片付けしなくてもよい土地に移住したくなりますね。 雪国のみなさんはこんなことを考えたことはありませんか。
 雪捨て場は玄関前から20m位離れた裏の畑。ライトを付けながら頑張ってなんとか歩けるようになった。入浴後の晩酌はうまーーい。


飛騨 白川郷

2014-12-15 19:59:47 | 旅行
2014年12月15日(月)雪・曇-1.0℃~ー2.2℃
 
旅行3日目(12月2日)からりと晴れた朝。船着き場から再びバスに乗車して旅行が始まった。右手に伊勢湾を眺めながら紀勢・伊勢自動車道、東名阪道を経て東海北陸自動車道と内陸部へと走った。美濃路・飛騨路のアクセスポイント美濃インターチェンジを降り美濃関物産館で昼食となった。

 関は全国の70%近くの家庭用刃物を製造している文字通り日本一の刃物産地です。美濃関物産館では包丁はもちろんはさみ、カミソリ、
ナイフの切れ物から鉈や鎌そして台所周りの便利な小物類まで数え切れないほどの商品が並んでいた。少し高かったがステンレスの剪定鋏を購入。この他小さなはさみなど小物を購入。
 また、美濃は1300年の昔から紙をすき続けてきた。書院紙をはじめとする美濃和紙は丈夫で使い込むほど味わいが深まることで全国へ流通していまる。店内には和紙の原紙をはじめとして、便箋、葉書、画仙紙、懐紙、和紙絵の画材などの趣味の和紙から人形、文箱などあった。

「合掌造の白川郷を訪ねて」
 
 関ドライブインを後にして東海北陸道を一路萩町白川郷へ。近づくりにしたがって高所となり空は灰色となり、雪が降り出した。初雪。
 観光駐車場に着いたころは、ぼさばさと本格的な雪降りとなっていた。白川郷でも初雪だったと店の人が話してくれた。
 この集落は春や夏に訪れ、県重文明善寺、国重文和田家、長瀬家、神田家など屋内を見学したり、裏通りをゆっくり、のんびり歩いた。


 白川郷は1995年に「人類の歴史上重要な時代を例証するある形式の建造物、建築群技術の集積、または、景観の謙虚な例」として世界文化遺産に登録された。その中心となる合掌造り集落群は村の中央やや北側に位置する萩町地区にあり、その周囲の伝統文化の体験施設や歴史資料館等では、自然と共に生きる昔ながらの生活の知恵を垣間見ることができた。


映像ではライトアップした雪をかぶった合掌造りを見て、一度冬に訪れたいと思っていた。実際に雪景色の白川郷は??????。
天候が悪く会津若松へ帰るのが遅くなるということで集落の見学時間が40分。傘をさして写真を撮る。アングルを決めてなどの余裕はなかった。午後4時あわただしく乗車して東海北陸自動車道・北陸自動車道・磐越自動車道を経て会津若松市へ。予定では午後9時50分だったが、雪のため大幅に遅れて午後11時過ぎ到着。約800kmの行程はさすがに疲れた。 第15回会津若松市親善交流会の旅行記は終わります。お付き合いありがとうございました。


1月からは土・日にはライトアップするそうだ。そのような時に訪れてみたい。宿を予約するのがなかなか難しいのだが。
ネットから晴れた時の雪の白川郷は

ホテル浦島では ちょっとした時間のずれ

2014-12-14 20:13:57 | 旅行
2014年12月14日(日)雪-1.0℃~ー2.2℃
 
 会津に本格的な冬がやってきた。小雪がちらちらと降る。休みなく降り積もる。家並も道路も木々も真っ白に覆ってしまった。取り残した身不知柿が雪の中にぽつぽつと顔を出していいる。何かむなしい。これから長い冬が始まるのか・・・・・。
 第47回衆院選の投票日。妻と共に近くの小学校へ行き清き一票を投じた。


「まぐろの解体ショー」
 旅行2日目(12月1日)夕食はバイキング。午後6時から9時まで。
ほとんどの人が定刻前からレストランに並び、混雑する中を歩き回って好きな物や飲み物を選ぶ。小生が忘帰洞から戻ると相部屋の先輩2人が風呂入りに行った。食事は午後7時45分過ぎになっていたのでレストランは並ばず、食べたいもの飲みたいものを自由に選べた。(アルコール飲料は有料)





午後8時から二度目のまぐろ解体ショーが始まった。座ったテーブルが解体ショーのすぐそば。まじかに料理人の包丁さばきを眺め写真を撮った。大トロも中トロも赤身も食べ放題。また中落ちをスプーンでかき取って食べた。酒がとっても美味しく飲めた。
 風呂も食事もマグロもちょっとした時間のずれがラッキーということもある。
 翌日の朝風呂、朝食も少し時間をずらしたことで混雑することなく過ごすことができた。旅行する時は、大勢の人と同じにしない時間の使い方をしてみてはどうでしょうか。
 
 旅行3日目(12月2日)午前8時。念願の大洞窟温泉に入浴できた素敵な思い出をいっぱい胸にしまって船上からホテル浦島に別れを告げた。




 

南紀勝浦温泉 ホテル浦島

2014-12-13 16:41:38 | 旅行
2014年12月13日(土)雪0.3℃~ー2.2℃
  船に乗ってホテル浦島へ・念願の「忘帰洞」
 旅行2日目(12月1日)この旅行で世界遺産の熊野古道や白川郷は大きな見どころだが、私にとってはホテル浦島に宿泊して大洞窟温泉に入ることが参加した理由である。



くじら博物館を後にして勝浦温泉へ。ホテル浦島は那智勝浦港 観光桟橋から送迎専用船に乗り約5分でホテルへ入館した。大太鼓を打ち、従業員が整列して歓迎。入り口には大きな看板。本館2階に案内され、事務局からの諸連絡の後、ホテル従業員より「館内ご案内図」をもらう。種々説明を受けるがあまりにも広いので戸惑ってしまう。客が迷わず移動できるように1Fロビーより誘導ラインが引かれている。茶色は忘帰洞へ、えんじ色はエレベーターBへ、緑色は山上館およびエスカレーターへ、青色はなぎさ館へ、カーキ色は日昇館へ。





前日はビジネスホテルだったのでシングル部屋だったが、ホテル浦島ではに日昇館で相部屋。年配の方2人とご一緒する。
二人とも高級カメラを持参し写真に詳しく話が弾んでいるようなので、夕食は後にして一人で念願の大洞窟風呂(忘帰洞)へ行った。混んでいるかなと思ったらほとんど人がいなかった。夜は男湯は女湯より狭いと聞いたが広い広い風呂だった。洞窟のごつごつした岩肌、いくつもある風呂、ゆったりと入浴を楽しんだ。夜だったので海は眺めることができなかった。
女湯と男湯がチェンジする明日早くこの風呂に入ろうと思った。




午前5時から入浴できると聞いたが、午前6時頃入浴したら4~5人だけ。奥の大浴場は結構入浴者がいた。少し時刻をずらすことで独りで洞窟と海を満喫できた。ラッキーでした。5時ころはすごく混んでいたらしい。
岩窟から遠くに朝焼けの雲が見える太平洋を眺めることができてこの温泉に来た望みがかなった時である。西側にある洞窟なので夕日がもっとも美しいのだろうと思ったのでもう一度訪れたい。「忘帰洞」とは紀州藩主の徳川頼倫公に「帰るのを忘れさせるほど」と誉めて名付けられたそうです。
他の温泉地では味わう事が出来ない大洞窟の迫力と、荒波せまる太平洋の景色を十分にご堪能できたので大満足。


 よくばって朝日を見たいので忘帰洞から東にある山上館32F天海の湯」へ大急ぎで移動して日の出を撮影した。この風呂は小さくて10人程度。それでも誰も居なかった。ほんとうにラッキーの連続。部屋に戻って支度を整え朝食をすませ出発時間に間に合わせるのは忙しかった。何しろ山上館から宿泊しているの日昇館までエレベーターでの乗り降り、幾つかの廊下を歩くだけで15分以上を費やす。若ければ10分で移動できるのだろが・・・。


大地町立くじら博物館

2014-12-12 17:30:14 | 旅行
2014年12月12日(金)曇4.9℃~ 1.9℃
 
 今日は昼食を外食し一日がかりで「神棚」「玄関」の注連縄づくりをした。3年目になるがよくわからない。講師やベテラン会員に手伝ってもらったりして仕上げることができた。
  6月6日(金)に平成26年度 会津若松市北公民館主催事業「永和ものづくり楽校」が開講し、季節の伝統食(かりんとう)、伝統の技竹細工や一閑張り、民俗を学ぶ衣・食・住、1泊の移動学習(里山のアトリエ坂本分校に学ぶ)、そして最大の目玉「神棚」「玄関」の注連縄を編むと14回目の活動で閉講式を迎えた。それぞれ講師の指導で伝統の技を学び、楽しい時間を過ごすことができた。カワスゲの青さとかおりが残る注連縄を飾って新年を迎えられることは受講生として嬉しい限りである。企画運営にあたった担当職員、実行委員長はじめ役員の方、講師の方々に感謝したい。  このような講座は他の公民館では企画されていない。来年度もこの楽校に参加したい。
「くじらショー」

 旅行2日目(12月1日)那智の滝から鬱蒼とした木々の中、石畳の階段転ばないように気をつけて世界遺産熊野古道を大門坂へ下った。待ち受けていたバスに乗車して大地町立くじら博物館へ移動。海岸にはかって活躍した捕鯨船、広場にはシロナガスクジラの全身骨格標本が展示されていた。





 館内1階大ホールには様々な鯨類の骨格標本、2階生物学的にみた鯨(耳あか、ひげ板など)、3階人と鯨の関わり(道具、絵巻、資料など)。
屋外プールではイルカショーが終わっていたので鯨ショーを見学。4~5m位の鯨4頭が水中から飛び上がったり、近くまで泳いできて愛嬌を振りまいた。水しぶきがかかって大きな声をだしたり、演技がうまくいくと拍手をしたりと観客はショーを楽しんだ。




 太地は日本における捕鯨発祥の地だと言われています。日本人が何千年も前から鯨類を利用していたのは多くの考古学的事実からわかっていますが、組織的な産業活動として成功させたのは、史実によって確認できる限り、太地の和田頼元(わだよりもと)が最初だと考えられています。
武士の出であった頼元は、兵法の観点から捕鯨に取り組みました。船乗りを組織し、山見と呼ばれる探鯨台を設置し、旗や狼煙(のろし)による通信網を整備するなどの戦いの技術を駆使して、鯨を捕獲したのです。

現在はIWCによる商業捕鯨が禁止され僅かに近海捕鯨が水産庁の規制の下で行なわれていますが、かつては町民の大多数が捕鯨や捕鯨関係の仕事に従事し、活況を呈していました。しかし、捕鯨禁止後は水産業の衰退が著しく、町は鯨を中心とした観光に力を入れ、くじらの博物館をはじめ、古式捕鯨時代の施設を整備し、新しい町造りをはじめました。「古式捕鯨発祥の地」として世界一のスケールを誇るくじらの博物館。実物大のセミクジラ模型や捕鯨の歴史を学ぶ展示などがあるほか、海洋水族館なども併設している。




世界遺産 那智の滝と熊野古道

2014-12-11 19:23:31 | 旅行
2014年12月11日(木)曇2.6℃~ -1.6℃
 
 気温が下がり雨、みぞれ、小雪、大雪となっていく。灰色の空は気分的にも落ち込んでしまう。長い会津の冬がやって来る。
スコップ、スノーダンプ、雪べらなどに雪が付きにくくなるスプレーを吹きかける。ポリタンク、ホームタンクには灯油を満タンにする。
白菜、大根、ネギなど冬野菜を少しばかり備蓄する。今、できることをやってみた。
「頑張った熊野古道」

 旅行2日目(12月1日)松坂市を後にしてドライブイン「かにせん」で昼食。昨日とは違って到着時間に間に合うように準備されていて無駄な時間もなく暖かくておいしいせいろ飯を食べることができた。

 からりと晴れた青空。1枚上着を脱ぐほどの暖かさであった。 那智の大滝と熊野那智大社は、熊野古道、南紀勝浦大洞窟温泉(忘帰洞)とともに前々から来たかった場所であった。
 3年前の台風の被害で、滝の近くの大社は離れたところに移築されていて、前に観光パンフレットでみたのとは違っていた。
 那智の大滝は水量も多く瀑布の音が聞こえる。青空がくっきりと見えてよかった。やはりすごい滝でした。
 
 今回は滝を見ただけで、移築された大社までは上る体力がなく熊野古道を下った。市長や若い人は大社に参拝し、その後熊野古道を下った。
 大門坂への熊野古道は杉並木と石畳約600mであったが、下るのがなかなか大変であった。昔の人は熊野詣でこの古道を上り下りしたのだろう。信仰とは苦行を乗り越えるのだ。


今回はこの古道ののほんの一部を歩いた。約40分くらいだったが疲れた。


 <参考までに>
○ 熊野古道とは、主に以下の5つの道を指す。
 紀伊路(渡辺津-田辺)
 小辺路(高野山-熊野三山、約70km)
 中辺路(田辺-熊野三山)
 大辺路(田辺-串本-熊野三山、約120km)
 伊勢路(伊勢神宮-熊野三山、約160km)

○ 熊野那智大社社伝に「神武天皇が熊野灘から那智の海岸“にしきうら”に御上陸されたとき、那智の山に光が輝くのをみて、この大瀧をさぐり当てられ、神としておまつりになり、その御守護のもとは、八咫烏の導きによって無事大和へお入りになった」と記録されております。

命の根源である水が豊富にあふれ落ちる「那智大瀧」を、この熊野に住む原住民の人々も神武天皇御東征以前からすでに神として奉祀されていたとも伝えられていますが、いずれにいたしましても古代からこの大瀧を「神」としてあがめ、そこに国づくりの神である「大巳貴命」(大国主命)をまつり、また、親神さまである「夫須美神」(伊弉冉尊)をおまつりしていたのであります。

その社殿を、お瀧からほど近く、しかも見晴しのよい現在の社地にお移ししたのは仁徳天皇五年(三一七年)と伝えられています。
この時、大瀧を「別宮飛瀧大神」とし、新しい社殿には「夫須美大神」を中心に、国づくりに御縁の深い十二柱の神々をおまつりしました。
やがて仏教が伝来し、役小角を始租とする修験道がおこり、古来の神々と仏とを併せてまつる、いわゆる神仏習合の信仰が行なわれるようになりました

松阪城跡と御城番組屋敷

2014-12-10 18:50:57 | 旅行
2014年12月9日(火)曇5.2℃~ -2.2℃
 
   退職公務員連盟北会津支部福利厚生部主催の第1回ボウリング大会がサンシャインボウルで開催された。昨年までは囲碁大会だったが参加者が高齢になり集りも悪かった。今回誰でも参加できるボウリング大会となった。
2ゲーム、靴、飲み物1本で1,000円。安いか高いか分からないが、ボウリングが盛んな時は2時間待ちでもゲームをしたことを思い出した。また、ボウリングが静かなブームを呼んでいるのだろか、若い人達もゲームを楽しんでいた。

10ポンドのボールをもって試技第1投。ストライク。周りの人から喝采。自分でびっくり。10数年ぶりだったのでいざゲームが始まるとストライクは2回だけ、スペアが3回、後はガーターなどめちゃくちゃだった。19名参加で5チーム。私の組は高齢者。みんな似たり寄ったりで笑いながらゲームをした。若い人がいるチームは勢いがあり高得点を出す者もいて拍手、拍手。  時には孫など連れて家族でボウリングを楽しむのもいいかなと思った日であった。  

「ガイドの案内で公園を歩く」

 旅行2日目(12月1日)ホテルを出発して「龍泉寺へ」

 当山は、昔から「お伊勢に七度 熊野に三度 愛宕さんへは月参り」とうたわれ、火防安住、商売繁盛、良縁祈願所として当地の人々から信心を集め「あたごさん、あたごさん」と親しまれています。ご本尊は、火防(ひぶせ)の霊神『愛宕大権現』と御分身の敬愛慈悲佛『愛染明王』をお祀りする寺院です。また、三重四国八十八霊場の「第八十番札所」であり、伊勢乃国・松阪霊地七福神「毘沙門天」をお祀りする寺院。

 この寺の片隅に蒲生氏郷の碑があった。わずか2年だけの藩主だったので扱いもこの程度かと思ってしまった。それでも商都まつさかの礎を築いた蒲生氏郷公を偲んで開催する氏郷まつりは、今年11月3日に53回目を迎えて実施した。
蒲生氏郷を中心とした武者行列も行われている。
 
 蒲生 氏郷は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。 蒲生賢秀の三男。初名は賦秀、または教秀。また、キリシタン大名でもあり、洗礼名はレオン。子に蒲生秀行
天正12年(1584)、羽柴秀吉により松ヶ島城に封ぜられた蒲生氏郷が、飯高郡矢川庄四五百(よいほ)の森の独立丘陵に目をつけ、夜を日に継いで同16年(1588)に入城できた平山城がかつての松坂城です。
 
 氏郷の松坂在住はわずか2年でしたが、郷里日野町や伊勢の大湊などから商人を招き、商業による町の繁栄に意を注ぎ、のちの“商都まつさか”の基を築いた。その後1590年には92万石の太守として会津に移封された。
誇らしげにそびえ立つ石垣は、松阪のシンボル的存在。桜や藤、銀杏が石垣を彩り、四季を通じて市民に親しまれている。城跡からは城下町の面影を残す町並みを一望できる。平成23年2月7日 国の史跡に指定されました。


松坂城跡が公園になっており、一番印象深かったのは松坂御城番のことであり、当時とあまり変わりなく今も生活している組屋敷が残っていたことである。
 ネットで調べると
 「松坂御城番、紀州藩士(40石(こく)取り)20人とその家族が住んだ組屋敷で、文久3年(1863)に建築された。市道を挟んで並び立つ東西2棟の主屋(しゅおく)からなり、周囲には槇垣(まきがき)が巡る。

 主屋は、平屋建、桟瓦葺(さんがわらぶき)で、各戸は間口5間、奥行5間を標準とし、これが東棟に10戸、西棟に9戸分連なる。

 当初は、東西合わせて20戸あったが、明治35年、松阪工業高校創設当時、西棟の北端2戸が仮教室として使用された後、1戸が切り詰められた。

 各戸の平面は、向かって右手を1間幅の土間とし、左手には田の字型に8畳2間、6畳2間を配し、式台(しきだい)を構える。

 市道に面する表側には前庭を設け、裏側には幅1間の角屋(つのや)が付く。

 屋敷は現在も子孫の方々により維持管理され、整然と住まわれている、全国的にも類例の少ない武士の組屋敷である。

 松阪市では、1戸分を借用して復元整備し、平成2年4月より一般公開している。」

松坂市との交流会

2014-12-09 18:20:02 | 旅行
2014年12月8日(月)晴4.8℃~ -2.4℃
 
 久しぶりに朝から青空が出て晴れた日。城西コミセン管理運営委員会役員と事務局員11名で女性は室内、男性は屋外と手分けして年末大掃除を気持ちよくできた。繁茂していた桜の大枝を伐って始末した。来春の桜の開花が心配だが・・・・・・。



「盛り上がった懇親会」

 彦根城散策で予定時間より多くかかったため松坂市に着く時間が遅れた。交流会は午後6時からだったが、バスのホテル到着が午後6時過ぎ。部屋で休むことなく会場へ。松阪市では今年の会津まつりに市長や議員、蒲生氏郷顕彰会員、観光協会員など大勢参加してくれた。松坂市長は蒲生氏郷公役で騎乗などで会津若松市との交流機運が盛り上がった。
 今回の交流会では、市長はじめ議会関係者、観光協会、蒲生氏郷顕彰会、松坂手づくり甲冑愛好会、松坂青年会議所などの関係者40名が時間に遅れた私たちを快く迎えてくれた。
 訪問挨拶、歓迎挨拶、松阪市紹介(映像)、記念品交換などセレモニーを行い乾杯と進んだ。
「飛鳥の間」「天平の間」「平安の間」を一つの大広間にし、各テーブルに若松市民と松坂市民一緒になって懇親を深めた。
 料理も飲み物も美味しかった。肉もでたが松坂牛かどうかわからない。期待したが??


 
【松坂市映像紹介】
 松阪市(まつさかし)は、三重県の中部に位置し、伊勢湾に面する市である。松阪牛の生産で知られる。気候は比較的温暖。
江戸時代は伊勢商人を輩出した商業町であり、現在も紀勢本線や近鉄大阪線・山田線沿線を後背地に持つ三重県の経済拠点の1つである。江戸時代は紀州藩領であった。
 <面積>623.77km² <総人口>166,059人(推計人口、2014年11月1日)  <人口密度>266人/km² 
会津若松市と同様城下町であり、伊勢街道や和歌山街道を行き交う多くの旅人で賑い宿場町として大いに栄えた。松坂城はじめ歴史的な史跡、社寺も多い。産業では松坂牛のほか「松坂茶」「イチゴ」「しめじ」「なし」「ストック」「なばな」「モロヘイヤ」「松坂赤菜」などの農産物、松坂木綿、松坂萬古焼きなどの伝統工芸品がある。
 また、主な人物としては蒲生氏郷、本居宣長(35年かけて古事記伝を執筆した国学者)、三井高利(三井財閥を築いた松坂商人)、小津安二郎(世界的な映画監督)など

彦根城 (城サミット)

2014-12-07 18:22:29 | 旅行
2014年12月7日(日)晴3.1℃~ -1.8℃
 
 「大急ぎの彦根城散策」

 あわただしいドライブインでの食事を終えて、高速道路で敦賀IC→彦根ICと移動し彦根城へ。ここでは第2回城サミットを見学する予定であったが時間的余裕がなく、市長、議長、市区長会長、同副会長など主だった方だけが表敬訪問した。(昨年第1回城サミットを実施)
 一般の市民は彦根城を自由に散策。
 バス駐車場から坂道を上る前に、ゆるチャラ「ひこにゃん」の出迎えを受けた。


 特別史跡彦根城跡は 彦根山(金亀山)を利用して築かれた平山城(ひらやまじろ)で1603年から20年を経て完成した。入場口から天守まで約50mの高低差があります。天守に向かう山道は築城当時の姿を保存している。城地面積約0.25㌶(75,800坪)、周囲約4km。
 現在も、山頂には国宝の天守があり、その周囲を巡るように重要文化財の各櫓(やぐら)が残っており、麓には下屋敷をはじめ内堀や中堀などが当初の姿を留めています。簡単に天守閣まで行けると思っていたが、坂と石段が続いていて天守閣の入り口まで行くのに難儀した。

 
 入場券を求めて三層の天守閣へ並んで入った。これが失敗。小さい城に大勢の観光客。5分、10分、15分経っても大混雑で3層の頂上に行けない。集合時間まで時間的余裕がない。あきらめて引き返した。その後「玄宮楽々園」を見学する予定も止めざるをえなかった。
 日曜日だったのでこのような混雑が起きたのうだろう。天守閣に上ろうとしなければよかったと後悔した。


 
 全国的に見ても保存状態の良好な城跡で、昭和31年7月19日、国の特別史跡に指定されました。
なお、下屋敷は昭和26年6月9日に「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されています
新日本観光地百景のひとつとして琵琶湖八景『月明彦根の古城』として知られている。
 近江彦根藩の第15代藩主 井伊 直弼(いい なおすけ)は、幕末の譜代大名。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。


 いままで姫路城、熊本城、松本城、弘前城、犬山城、大阪城などの城址を散策したが、この彦根城の井戸曲輪(いどくるわ)をみたことがなかったので写真を撮ってみました。黒門から本丸へ向かう坂道の途中に設けられた小曲輪。弧状に築かれたこの曲輪の北東隅に塩櫓が築かれ、周囲は瓦塀。塩櫓の近くには方形と円形の升が現存しており、石組みで集められた雨水を浄化して貯水するタイプの井戸と考えられる。 

越前蟹 解禁

2014-12-06 17:23:48 | 旅行
2014年12月6日(土)曇 3.1℃~ -1.8℃
 
 気温が上がらず寒い一日だったが、障子紙を剥がしたままの出窓があったので妻と二人で貼った。格子だけだった戸に新しい障子紙を貼ったことで外気が遮られて室温が2~3度違った。まだ張り替えなくてはならない障子戸があるがあまり使わない部屋なので来年の仕事に残した。
「ドライブイン越前やべ清で」


 今回の旅行では初日の朝食が弁当。そして昼食は「かに御膳」。旅行の第1日目(11月30日)が越前蟹の解禁日だったのでおいしい蟹が食べれると期待した。食事処は日本海越前海岸,河野海岸に面したドライブイン「越前やべ清」だった。このドライブインは日本海の新鮮な地魚を魚一筋45年,越前がにからタラバがにまで カニの専門店。

ホームページによると
 生魚・鮮魚・海産物・お土産品コーナー
  ・お食事収容人数1500名様(1F・2F)
  ・大型駐車場完備(バス50台・乗用車200台)
  ・JR敦賀駅より武生方面へ車で15分、
  北陸道敦賀I.C.より武生方面へ車で15分
  北陸道武生I.C.より敦賀方面へ車で30
 
 非常に大きなドライブインで大型バスが多数駐車しており、食事時間帯が込み合っていた。予定時間内に食事を終えるのがやっとだった。
 越前蟹やタラバカニのシーズンとなったので観光客が殺到した面もあるが、店全体の対応がまずくあちこちでトラブルが起きていた。
お客の肩に茶碗蒸しをこぼしてしまったり、先客と後客への 配膳の仕方もまちまちでトラブルの一因。
 
 大型ドライブインであっても従業員への指導を徹底しなくては評判を悪くしてしまう。会津でも対岸の火としないで観光客への対応をしっかりしなくてはならない。