アンダンテのだんだんと日記

ごたごたした生活の中から、ひとつずつ「いいこと」を探して、だんだんと優雅な生活を目指す日記

バイオリンはピアノよりなぜこうも高い??

2010年07月08日 | バイオリン
「千住家にストラディヴァリウスが来た日」を読んで、億単位の借金をして楽器を買うという事態を思い描き、ちょっとくらっと来た。

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金持ちの道楽で、もしくは投機目的で数億出すというなら、そんな話を聞いたって私の心は微動だにしない(^^;; ここはあくまで、そんな金額の持ち合わせがまったくないにもかかわらず、
・その楽器を使って練習し、表現芸術のより高い頂を目指すために
・その楽器を使って演奏し、聴く人のより深い感動を生むために
いわば魂の必然からくる純粋な実用のために買った千住さんの話として。

実用品としてのピアノがそんな値段になることはない。「リストが愛用したピアノ」とかいうような骨董品としてのものを別とすれば、スタインウェイのフルコンだって2000万円とか出せば買えるだろう。それに、いくらピアニストだって、自宅に最高級のフルコンがなくちゃいけないってわけじゃないと思う(よく知らないけど)。

バイオリンを作るのは、そりゃたいへんだろうけど、ピアノがたいへんじゃないわけではない。複雑さ、材料の分量から言えば、製造コストはだいぶピアノのほうが嵩みそうだ。実際、入門クラスの楽器で比べればバイオリンはピアノより一桁安い(例えば50万と5万)。

それが、「どこいらへん」から話が違ってくるのだろうか、音大に入るなら少なくとも300万とか、プロになるなら数千万とか?? プロの「プ」の字がついたころには明らかに逆転している。

まず思いつく理由として、
・バイオリンは、古いものに価値がある。
・バイオリンはより職人手作り的であり、ピアノはより工業製品的である。
・バイオリンは、マイ楽器を持って本番演奏を行う。
というのがある。

前者二つの理由により、最高級品は数が限られ、一方、三番目の理由により、どうしてもよい楽器がほしいという人は多くなる。需要と供給の関係により、値はつりあがる。

需要と供給の関係がアンバランスのときは、値のつりあがり方には限度がなくなるもので、すでに原価とはもちろん、そのものの価値とすらかけ離れた高みへ駆け上がってしまう場合がある。ヤフオクにかけられたプラチナチケットみたいなものだ。

このへんのことについては、私がバイオリンを習ったりする前から知っていた、あるいは想像できていた話である。

しかし千住さんが買ったストラディバリはオークションにかけられたわけではなく(遺言により、ちゃんと活用してくれる演奏家に買ってもらうようにとなっていたため)、もちろん投機目的ではなく、単に千住さんにとって「億単位のお金」を払っても買う価値があると判断され、購入されたわけだ。およそ家以外の個人的に購入する実用品で、こんな値段のものがほかにあるだろうか。

ところで、こんなことを言っている私にしてからが、すでにマイピアノより高いマイバイオリンを持っている。これは、しばらく前の自分からしたらまったく想定の範囲外のことだ。なにしろ、私のピアノの技量がたいしたことないのはもちろんだけど、それでもバイオリンとピアノを比べたら現状、ピアノのほうがはるかにマシなんだから。

いろいろな価格帯のバイオリンを出して比べていたとき、当初このバイオリンは範囲外だと思っていたので、ちょっと弾いて終わりにするつもりだった。なのに、いったん弾き終わって台に戻してからも、なんか気がつくとまたそのバイオリンを触ってしまうのだった。

時間をかけて手作りされたもの、特に技術も魂も入っているものというのは、人の心を惹きつける力があると思う。他の価格帯のバイオリンとは一目見て違う作りの良さ、丁寧さ。細かいところがきちんとできていて、あたたかい。美しい。抵抗できずにまた手にとってしまい、それで弾いてみると、しっくり馴染む。このバイオリンと仲良くなりたい、連れて帰りたいと思ってしまう。いとおしい。

ピアノの試弾会のとき、ベーゼンドルファーのグランドが「連れて帰りたいくらいよかった」と私は言ったことがあるのだが、それとはやはりちょっと違う。そのセリフは必ずしもその個体を意味しているわけではなく、ベーゼンドルファーのその型番の製品というつもりで言っていたと思う。ピアノも、工業製品と呼ぶにはずいぶん個性的なものなので、同じ型番でも違う部分はけっこうあるのだが。

ピアノとバイオリンで、「その出会い」を逃してもまた買える状況(予算など)を作って改めて店に足を運べば、同等の出会いがあるであろうという安心感は格段にピアノのほうがある。もっとも、それは意識の上にある違いであって、感触、感覚的なものはそういう計算に左右されているわけでは必ずしもないような気がする。もっと、こう…自分とピアノより、自分とバイオリンのほうが、距離が近いのだ。

千住さんが、ストラディバリ「デュランティ」に初めて会った日のセリフはこう書かれている。
「優しい顔をしている」「かわいい」「本当に、かわいい」
「何か生き物の存在を感じた。手の感覚に、やわらかいような温もりさえあった」

ま、比べるのはおこがましいのだが、千住さんが「温もり」「優しい」と表現していることには素直に共感を持った。ほんとに、そうだろうな、と自分の体験からの直線上に想像できる。

また、千住さんの先生の言葉(実際にストラディバリに会うよりずっと前に言われたこと)として、「立派なストラディヴァリウスに会うといい。それは、あなたの師にさえ、なる」というのも引用されている。これは、同僚Mさんが教えてくれた「いい楽器を持つと、楽器が助けてくれるんですよ」とまったく同趣旨で、レベルは違うが…あまりにかけ離れていて形容することも不可能だが…日々私も感じていることである。別に音程のことだけじゃなくて(笑)いろいろ語ってくれているみたい。私のほうに聞く耳が育ってないだけでね。

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