映画「蜜蜂と遠雷」に出てくる「春と修羅」は、藤倉大さんが小説を読み込んで読み込んで作曲したわけだけど、
映画「蜜蜂と遠雷」 ~ 金子三勇士 plays マサル・カルロス・レヴィ・アナトール
のライナーノーツによれば、マサルバージョンのカデンツァが一番悩んだとある。
←私はそのオリンピック出場できません
つまり、小説には、マサルがオクターブのパッセージ、超絶技巧、みたいなカデンツァを弾いたとあるので、
いかにもカッコイイ若いピアニストの「どや」なカデンツァをオクターブ入れて書かなきゃいけない。
でも
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さて、その「いかにも」なカデンツァをどう書くか。おそらく現代で作曲を勉強していたら、オクターヴのパッセージって音楽史的にもかなり抵抗があると思う(その辺は重要なヨーロッパ音楽史が辿った近代の歴史に理由はあるのだが)、オクターヴを駆使したカデンツァ、
マサルはおそらくカッコつけな演奏をするだろうから、カデンツァもパーソナルというよりは派手なんだろう。
でも僕が書くからには僕個人的には好きにならないといけない。…
----
ということで、オクターヴで派手にするというこっぱずかしさ(?)との折り合いに悩んだらしい。
私は「現代で作曲を勉強して」いる人じゃないので、オクターブにどう抵抗があるのかよくは知らないけど
(私は弾けないけれども)
と思っていたというころに「ピアノ・ノート(チャールズ・ローゼン)」を読み返したら、最初のほうに早速オクターブの話が出てきた。
素晴らしく素敵なピアノを弾くピアニストの中でも、オクターブ速弾きに関しては得意な人とそうでない人がいて、たぶん奏法にもよるんだけど、たとえばグールドは超低い椅子に座っているから、上からかぶさるように嵐の超絶オクターブを弾くわけにはいかない。それでリスト編曲のベートーベン運命を録音するときはまず両手で超絶オクターブを弾いて、後から左手部分を録音したとか(ほんとなんだろうか?)
(若き日の)ホロヴィッツはめっちゃ得意で、勇壮なオクターブ奏法で聴衆の人気をかっらったんだけど、それをやっかんだアルトゥール・ルービンシュタインが「オクターブ・オリンピックに勝ったね」と皮肉ったとか。
ともかく、ピアノをこれでもかというくらい響かせ、聴衆にも人気のある連続オクターブだけれど、ベートーベン「皇帝」のあたりから始まり(でもそんなに速くはなかった)、リストやタールベルクのあたりで極まり(ショパンやシューマンはあまり使わない)、現代の作品にはあまり使われなくなった。
この「現代の作品にはあまり使われなくなった」というあたりが藤倉さんのいっていることなんだろうけど、廃れた理由は「オリンピック」つまり肉体のすばらしさを競う祭典にするのってそれは音楽ですか的な意味合いなのだろう。
しかし、ここでチャールズ・ローゼンが書いているように、「技術的な難しさとは本質的に表現を豊かにするものだ」ということで、例えば音程が大きくジャンプして上がるときには、緊張感というか、表現力が強いけれどそれは、歌うことを考えればエイヤといかなければいけないのは自明で、だから聞いているほうにもそのエネルギーというかテンションが伝わるわけで、肉体的にたいへんな連続オクターブも同様。
とはいえテンションあげっぱというのも芸がないし、やはり曲の中でいろんな陰影があってこその表現だし、どうバランス取るかはセンス? なんでもオクターブにすればいいってものではないよね。
悩んだだけあって、マサルバージョン(といいつつ藤倉さんが作った)のカデンツァはうまく…派手なオクターブは使っているんですけど盛り上がったところに必然性がちゃんとあって効果音的に出てくる(しかもくどすぎない・長すぎない)ように収めているように聞こえる。
タールベルクさんもこのくらいの節度というかバランス感覚があったら人気が現代まで続いていたかもw
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のライナーノーツによれば、マサルバージョンのカデンツァが一番悩んだとある。
←私はそのオリンピック出場できません
つまり、小説には、マサルがオクターブのパッセージ、超絶技巧、みたいなカデンツァを弾いたとあるので、
いかにもカッコイイ若いピアニストの「どや」なカデンツァをオクターブ入れて書かなきゃいけない。
でも
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さて、その「いかにも」なカデンツァをどう書くか。おそらく現代で作曲を勉強していたら、オクターヴのパッセージって音楽史的にもかなり抵抗があると思う(その辺は重要なヨーロッパ音楽史が辿った近代の歴史に理由はあるのだが)、オクターヴを駆使したカデンツァ、
マサルはおそらくカッコつけな演奏をするだろうから、カデンツァもパーソナルというよりは派手なんだろう。
でも僕が書くからには僕個人的には好きにならないといけない。…
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ということで、オクターヴで派手にするというこっぱずかしさ(?)との折り合いに悩んだらしい。
私は「現代で作曲を勉強して」いる人じゃないので、オクターブにどう抵抗があるのかよくは知らないけど
(私は弾けないけれども)
と思っていたというころに「ピアノ・ノート(チャールズ・ローゼン)」を読み返したら、最初のほうに早速オクターブの話が出てきた。
素晴らしく素敵なピアノを弾くピアニストの中でも、オクターブ速弾きに関しては得意な人とそうでない人がいて、たぶん奏法にもよるんだけど、たとえばグールドは超低い椅子に座っているから、上からかぶさるように嵐の超絶オクターブを弾くわけにはいかない。それでリスト編曲のベートーベン運命を録音するときはまず両手で超絶オクターブを弾いて、後から左手部分を録音したとか(ほんとなんだろうか?)
(若き日の)ホロヴィッツはめっちゃ得意で、勇壮なオクターブ奏法で聴衆の人気をかっらったんだけど、それをやっかんだアルトゥール・ルービンシュタインが「オクターブ・オリンピックに勝ったね」と皮肉ったとか。
ともかく、ピアノをこれでもかというくらい響かせ、聴衆にも人気のある連続オクターブだけれど、ベートーベン「皇帝」のあたりから始まり(でもそんなに速くはなかった)、リストやタールベルクのあたりで極まり(ショパンやシューマンはあまり使わない)、現代の作品にはあまり使われなくなった。
この「現代の作品にはあまり使われなくなった」というあたりが藤倉さんのいっていることなんだろうけど、廃れた理由は「オリンピック」つまり肉体のすばらしさを競う祭典にするのってそれは音楽ですか的な意味合いなのだろう。
しかし、ここでチャールズ・ローゼンが書いているように、「技術的な難しさとは本質的に表現を豊かにするものだ」ということで、例えば音程が大きくジャンプして上がるときには、緊張感というか、表現力が強いけれどそれは、歌うことを考えればエイヤといかなければいけないのは自明で、だから聞いているほうにもそのエネルギーというかテンションが伝わるわけで、肉体的にたいへんな連続オクターブも同様。
とはいえテンションあげっぱというのも芸がないし、やはり曲の中でいろんな陰影があってこその表現だし、どうバランス取るかはセンス? なんでもオクターブにすればいいってものではないよね。
悩んだだけあって、マサルバージョン(といいつつ藤倉さんが作った)のカデンツァはうまく…派手なオクターブは使っているんですけど盛り上がったところに必然性がちゃんとあって効果音的に出てくる(しかもくどすぎない・長すぎない)ように収めているように聞こえる。
タールベルクさんもこのくらいの節度というかバランス感覚があったら人気が現代まで続いていたかもw
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