もうバカな閣僚の妄言など聴く気はない。
ここで明治の福沢諭吉と岡倉天心の著作を並べてみた。
1、福沢諭吉「脱亜論」より
されば、今日の謀(はかりごと)を為すに、我国は隣国の開明を待て、共に亜細亜を興(おこ)すの猶予(ゆうよ)あるべからず、
むしろ、その伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那、朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、まさに西洋人がこれに接するの風に従て処分すべきのみ。
悪友を親しむ者は、共に悪名を免(まぬ)かるべからず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。
2、岡倉天心「アジアの覚醒」より
われわれの父祖の地は、大いなる苦難のもとにある。今や、東洋は衰退の同義語になり、その民は奴隷を意味している。
たたえられているわれわれの温順さは、礼儀をよそおった異国人の卑怯なあざげりにほかならない。
われわれは、商業の名のもとに好戦の徒を歓迎し、文明の名のもとに帝国主義者を抱擁し、キリスト教の名のもとに残酷のまえにひれふしてきた。国際法の光は、白い羊皮紙の上に輝いているが、完全な不正は有色の皮膚に黒い影をおとしている。
☆このふたつは同時に必要な考えだと思う。
福沢諭吉は何と明快に論じているだろうか。
「その支那、朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず」
「悪友を親しむ者は、共に悪名を免かるべからず・・・」ですって!!
その通りなのだ。
そして岡倉天心、
彼はに日本のすぐれた美術がゴミ同然に捨てられている、鹿鳴館文化のような西洋におもねる文化に媚びる風潮に警鐘。
伊藤博文にこれらの日本の文化を保護してほしいと願い、伊藤博文は岡倉の願いを取り入れた。
これは、日本が独自のすぐれた文化をギリギリのところで守れた、日本が日本であること、尊重されることを示す。
また、ソ連が終戦後に千島列島に侵略してきたことや、アメリカの原爆投下先になぜ日本を、「国際法の光は
白い羊皮紙の上に輝いているが、完全な不正は有色の皮膚に黒い影を落としている」これも悲劇そのものである。
福沢と岡倉両氏の考えは今、この日本に必要な知恵である、と思われる。
音楽家の私がふと思いついたまでのこと、笑ってお読み下さい。