ベッラのブログ   soprano lirico spinto Bella Cantabile  ♪ ♫

時事問題を中心にブログを書く日々です。
イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

父の介護と戦争の時の話  「夕日が招く」危機一髪で救われた命

2010年11月21日 | 生活・介護

老親介護って瞬時の隙が事故につながる。
父がまた、椅子に座るのを失敗、同じ部屋にいながら阻止できなかった。
やっと起こしてそっとベッドに寝かせたが、明日は定期検診。
朝早くからタクシーで通院、そして肺炎球菌の予防接種をしなければならない。
昨年は新型インフルエンザが流行し、肺炎球菌の予防接種をしたくても「薬がない」と言われ、風邪をひかさぬよう、注意した。
そして、明日やっと、という時に、椅子に浅く座ったのか転倒してしまったのだ。

これも私の責任、私が他のことをしていたから。
そう、音楽を聴いていた。
今のところ、父は無事で怪我はしていない。
もし、何かがあれば、私は自責の念にかられ、自分を責め続けるだろう。

朝、父を起こし、着替えをさせる時から父は暴れる。
やさしくおだてながら着替えをさせるが、突然叩いてきたりする。
用心してかからねばならない。

そして洗顔と歯磨き、これは父は大好きだが、まず私の背中をゲンコツで叩いてから、歯磨きをする。
もう慣れたけど、痛い。
洗顔をさせてローションでお肌をパタパタ、これは大好きである。
「今日はどこへ行く?」と毎日きいてくるが、どこにも行かない。
せいぜい近所を散歩させる程度。
私は酸素ボンベを持って、父が歩くのをリードする。

帰ってきて父の好みの香りのよい石鹸で手を洗わせ、うがいをさせる。
新聞を渡すと、奪うようにとって、ページをめちゃくちゃにめくって、大きなゴミのようになる。
新聞は父が現役の時からの「日経」だ。

私がパソコンをしたりテレビニュースなどを観ていると、蹴ってきたり、大暴れである。
仕方なくヨーグルトを食べさせたり、ジュースを飲ませたり・・・。

夜は玄関のカギを開けに行くのでその都度、閉めに行って父を寝かせる。
こうして私は24時間勤務、それでも陽気な自分がわからない。

介護でノイローゼになる、ということをよくきくけれど、確かに追い詰められる時は一日に何度もある。
しかし、それにもまして父が可愛いのだ。
もともと嫌なことはすぐ忘れる私だけど。

戦争中、食べるものがなくて、蛇や蛙を食べたと言う。
日本兵が蛇に近づくと蛇が逃げるほど目の光が怖かった(蛇にとって)らしい。
着の身着のまま、もちろん布団もなく、ジャングルで寝る。
夜になっても気温が下がらない。
父は至近距離から撃たれたらしい。
左の親指を飛ばした。

しかし、すぐに逃げずに撃ち返したという。じっとしていたら次の弾丸が来る。
幸いそこに大雨が降ってきて父はジャングルに逃げ、そこの小川で指が飛んだ後を洗った。
あっというまに大きく膨れてきたが、洗わないと危険だ。

そんな話を聴く時は嫌だった。
戦争を知らない世代の私にとって怖くて嫌な話だった。
でも、だんだん、父を誇りに思ってきた。
「レイテ激戦の勇士の娘」だ、と母に言われた。
女ながら強くあらねばならぬ、と思った。(実際はまだお化けが怖くて、スリラーなど読めない)

今の私を支えているのはこうした父の姿である。
終戦を知らず12月に捕虜になったが、父は英語ができて、捕虜を不当な扱いから守ったという。
家には父が持って帰った大きな米軍のスプーンがある。

そして、戦地へ持っていかず、日本で留守を守る両親に捧げた寄せ書きの国旗がきれいなまま、残っている。
一枚の葉書、「必ず生きて帰ります」という両親宛てのもの。
学徒出陣であった。
父の母はまもなく亡くなった。
亡くなる前まで祖父の背中をさすっていたという。
私はそれを母からきいて、祖父を酷いと思ったが、空襲に追われ、家を焼かれて父の国旗一枚を持って逃げ、ようやく避難した父の両親はそうして気を紛らわしていたのではないか、心の苦痛から逃れようとしていたのではないか、ふたり寄り添って・・・。

父は祖父を大事にしていた、50歳も年が違っただけに、しっかりして祖父を養わなければ、と思ったようだ。
父の母は、4月1日に病気で亡くなった。(後年、それをきいて私はエイプリルフールに参加したことがない)
その時、父は激戦の中にいた。
気が狂って、敵の方に走り出し、亡くなった兵士もいた。
もうここまで、というとき、夕日が招いたという。多分そんな気がしたのだろう。
そして無事な場所に(ジャングル)逃れることができたという。

「夕日が招く」というのは他の人も経験したらしい。
ものすごく大きな夕日だそうだ。
国士を守って下さるそうだ。
それを子供心にきいていたのを思い出し、宗教心などこれぽっちもなかった私が、尖閣などの国難を前にして参拝するようになった。
でも、私のことは祈ったことがない。
大切なことをお願いするのだから、自分のことを祈らないように決めている。

現与党は、自衛隊の医療チームをアフガニスタンに送るのに「手当」を出さない、というのが私にはずっとショックなままだ。
「国内勤務と同じとする」だって?
最も危険なアフガニスタンへ行くのが「国内と同じ」だったら、閣僚でまず行くがいい。

こんなこと書いていたら父が元気に文句を言いだした。
ほっとした。
父を見守りながら書いた。無事なようで文句を言っている。
明日は早くから通院、私も気を引き締めなきゃ! もう、日付がかわって「明日」になってしまった。
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売国奴を裁くシモン・ボッカネグラ~名歌手カップッチッリ!!

2010年11月21日 | オペラ

オペラは難しいとかおっしゃらずに、この名場面を御鑑賞下さい。
私の敬愛する名バリトン、カップッチッリです!
P. Cappuccilli as Simon Boccanegra " The Curse Scene"


ジェノバを治める名宰相、シモン・ボッカネグラは、重臣だったパオロがジェノバを裏切り、窮地に陥れようとしているのを察し、パオロを問いただすがパオロはシラをきる。
そこでシモンは「裏切り者を呪え」とパオロに議会全員がいる前で命じる。
自分で自分を呪うことになったパオロ・・・その恐怖は今の人々からは想像もつかないことだったのに違いない。

これが愛国者であり平和を望んだ作曲家、ヴェルディのオペラである。
実在の名宰相、シモン・ボッカネグラの歴史劇。
1975年、ミラノ・スカラの公演から。


☆当時イタリアは都市国家でした。
ヴェネツイア、ジェノバなど海に面した都市国家はペルシャやトルコの侵略にも厳しく防衛にあたり、宰相は議会にかけて政治をすすめていました。

ヴェルディがこれらの歴史劇を多く取り入れてオペラに書いたのは、イタリアの祖国統一運動が背景にあったのです。
オーストリアの侵略にイタリアはバラバラでした。
作曲家のヴェルディは音楽で戦ったといえるでしょう。

ドイツのワーグナーと同年に生まれ、後はアルプスをはさんで世界の2大オペラ作曲家となりました。
ヒトラーが「わが綱領はワーグナーにあり」と言ったワーグナーのオペラは、金髪碧眼のゲルマン民族を最上とし、英雄伝説を描いたものでした。
祖国統一運動を支持したヴェルディとは、全く違う考えでした。
祖国を思い、誇り高くオペラが展開され、終幕はほとんど天上的ピアニッシモです。
絵画でいえば、ミケランジェロ、と思うのです。

コメント (6)
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バスティアニーニの名唱 ヴェルディ「ドン・カルロ」より ・・・国民の総意で自衛隊は動くが、今はどうか?

2010年11月21日 | オペラ
Ettore Bastianini: Per me giunto ( Don Carlo)

昨夜、思いがけず「バスティアニーニ大好き」様からコメントを頂いた。

この曲はヴェルディ「ドン・カルロ」のロドリーゴが、皇子ドン・カルロに<フランドルに行って民を救ってください>と歌う名アリアである。

シラーの原作「ドン・カルロス」をヴェルディがオペラに書いたもので、このロドリーゴの命をかけた行動は、深く人々の心を打ったものだ。

「バスティアニーニ大好き」様のお父様は自衛隊にいらっしゃる。
そのお父様を案じる心、
そして私は、このエットレ・バスティアニーニの歌をアップした。

往年の大歌手、バスティアニーニの在りし日の名唱をどうぞ・・・。




☆「バスティアニーニ大好き」様のコメントをどうぞご覧下さい。(左のコメント欄)

自衛隊の父を思う子の心・・・空缶内閣に理解できますか・・・。

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