『見た目は似ているが、中身は全く違う』
からこそ、ただのコピーなのだ。・・・・・・・(「Pの視点」からP@RAGAZZO様の文)
陶磁器などの世界では『写し』というものがあって、
そこに魂とか精神の理解や憑依があれば
原型よりもむしろ高い評価を受けることがある。
たとえばマイセンは
景徳鎮の磁器の白さ、
柿右衛門の絵付けの鮮やかさに
大きく影響を受けた。
しかし、マイセンは
、、、景徳鎮であれば、
この真っ白な磁器を造る為に試行錯誤を重ね、
その魂を得たのちに、
ヨーロッパ的、ドイツ的に解釈した
『写し』を創り上げたのである。
マイセンを
景徳鎮や柿右衛門のただのコピーだ
と
言う者は居まい。
ドラエモンからベンツまで、、
支那のコピーは常にその表面のみで
原作の魂を踏襲しない。
これを買う人物の品性までをも
疑わせるものである。
上記の文は「Pの視点」のP@RAGAZZO様の2011・12・9のエントリーから、転載させて頂いた。
もともとお書きになったのは「中国のコピー」を批判されたものであり、この文の終わりには、コピーした車の写真があり、その写真だけで私は大笑いしてしまった。
車の写真で笑うなんて!本当におかしくて笑いが止まらない。
でも、ここに転載された文は、西洋音楽を勉強する私たち日本人音楽家への警告でもある。
例えばイタリアのベルカント唱法をそっくり、最初は真似て勉強する。
若い時は声の輝きもあり、イタリア人の歌手とそう違わない、しかし、全盛期を過ぎた歌手はどんな世界的名声を得ても、メッキがはがれる如く、痩せた音色になってしまっていることだ。
これはなぜ?といつも思っていた。
世界で活躍していたかつての日本人歌手は、イタリア人そのものの音色と発音で歌っていた。
全盛期を過ぎたら、声の変調だけでなく、何かビシッとしまったものが失われていることが多い。
しかし、最近ぐらっぱ亭様がお聴きになったレオ・ヌッチなど、全盛期よりもっと素晴らしく、聴衆の心を掴んでいるではないか、これは一体何なのだ。
イタリアのベルカント唱法を同じように極めても、「日本人だ」という本心で歌うことを若い時から考えていれば、コピーにならない。
これを教えて下さったのが、永井智子先生であり、また分野は違っても、ヨーロッパの名画に対し、東洋の「静」なる美でその魂を描いた画伯、平山郁夫氏。
ただ、ひとりよがりな勉強をしては基本から誤る。
声楽ではベルカント唱法という伝統的な発声法を徹底して勉強してからのことだ。
イタリア人の名歌手、あのカップッチッリですら、6年間、発声だけしか教えてもらえず、先生のところから「夜逃げ」したほどの厳しさだったこと。
そしてそれを「維持」するのは、それらを「獲得」するより、何倍も難しいことだ。
P氏のお書きになった文からも、それを想う。
「マイセン」は「景徳鎮」や「柿右衛門」から基礎を学びながら、ヨーロッパ的な別の高さを得ている。
なぜ、このことをP氏はご存知なのか、不思議なかたである。
直感的なのか、それともP氏の仕事上から得た知恵なのか、・・・私は、これからの若い人たちにこれを伝えたい、と思った。
☆ 下記のコメントで、若々しいヴィットリア様との「忘れられない対話」があります。憂いというお名前で来られましたが、
さまざまな苦労を重ねて、強く生きていかれる姿勢に感動したコメント、私は貴重な思い出になっており、またこのP様のエントリーであるように「マイセン」のごとく、鍛えられ、清らかで毅然たる美しい魂を感じ、いまだに目頭があつくなってきます。
・・・アプリ様が私のことさんざん笑っているのもあります!