Maria Callas: Suicidio (La Gioconda)
1950年代、レナータ・テバルディと並んで世界最高のソプラノと讃えられたマリア・カラス、たぐいまれな才能に恵まれ、その舞台はプリマドンナの中のプリマドンナ、と絶賛された。
しかし彼女の声は10年ももたなかった。
100キロあった体重を半分近く減らし、醜いあひるの子といわれた彼女は、美しい白鳥となった。
社交界に出て、声楽家としての節制を怠り、完全に声のバランスを欠いていた。
夫と離婚し、オナシスとの恋とジャクリーヌ・ケネディ夫人が出現して失恋、そして荒れた生活をおくり、54歳でパリにて亡くなる。
私はカラスを聴くため、徹夜で並んでキップを入手したが、もはや彼女の声は虚ろで、十分に客席に通る声ではなく、痛々しかった。亡くなる数年前のことで、日本公演が最後だった。
しかし、ステージでの彼女の尊大な態度は、カラスのファンだったことをやめさせるに十分だった。
アンコールすると客席から「まだ、歌うの」というささやきがきかれた。
彼女の尊大さは心の不安定さからきていたのかも知れない。
そこで私はアントニエッタ・ステッラの歌をなつかしんだものだった。
晩年のカラスは悲惨で孤独な生活だったと伝えられる。
パリに行った時、彼女のアパートを訪ねた。マロニエの葉をそっと手帳にはさんだが、帰国して捨ててしまった。
何もかも不幸な気がしたから。
この動画は、声だけが全盛期の録音を流している。
実際のオリジナルテープの声は蚊の鳴くような悲惨なものだ。それにピアノ伴奏である。
この動画はオーケストラ伴奏になっているが、オーケストラはない。まず声が消されるであろう。
カラスの後ろにはグランドピアノがあり、そこに伴奏ピアニストが座っている。
しかし、音楽は崩していないところが、彼女の音楽への潔癖さであろう。全盛期と同じように歌っているから、動作が合う。
カラスの生涯は、映画でも何本か上映されたが、どれも痛々しく、再度見ようとは思わない。
1950年代、レナータ・テバルディと並んで世界最高のソプラノと讃えられたマリア・カラス、たぐいまれな才能に恵まれ、その舞台はプリマドンナの中のプリマドンナ、と絶賛された。
しかし彼女の声は10年ももたなかった。
100キロあった体重を半分近く減らし、醜いあひるの子といわれた彼女は、美しい白鳥となった。
社交界に出て、声楽家としての節制を怠り、完全に声のバランスを欠いていた。
夫と離婚し、オナシスとの恋とジャクリーヌ・ケネディ夫人が出現して失恋、そして荒れた生活をおくり、54歳でパリにて亡くなる。
私はカラスを聴くため、徹夜で並んでキップを入手したが、もはや彼女の声は虚ろで、十分に客席に通る声ではなく、痛々しかった。亡くなる数年前のことで、日本公演が最後だった。
しかし、ステージでの彼女の尊大な態度は、カラスのファンだったことをやめさせるに十分だった。
アンコールすると客席から「まだ、歌うの」というささやきがきかれた。
彼女の尊大さは心の不安定さからきていたのかも知れない。
そこで私はアントニエッタ・ステッラの歌をなつかしんだものだった。
晩年のカラスは悲惨で孤独な生活だったと伝えられる。
パリに行った時、彼女のアパートを訪ねた。マロニエの葉をそっと手帳にはさんだが、帰国して捨ててしまった。
何もかも不幸な気がしたから。
この動画は、声だけが全盛期の録音を流している。
実際のオリジナルテープの声は蚊の鳴くような悲惨なものだ。それにピアノ伴奏である。
この動画はオーケストラ伴奏になっているが、オーケストラはない。まず声が消されるであろう。
カラスの後ろにはグランドピアノがあり、そこに伴奏ピアニストが座っている。
しかし、音楽は崩していないところが、彼女の音楽への潔癖さであろう。全盛期と同じように歌っているから、動作が合う。
カラスの生涯は、映画でも何本か上映されたが、どれも痛々しく、再度見ようとは思わない。