Sviatoslav Richter plays Chopin Scherzo no 3
manimaniさまのために、浅田真央選手のラフマニノフ「鐘」についてご説明したことがあります。
ラフマニノフはアメリカに亡命し、作曲家・ピアニストとして活躍しましたが、亡命のあと、
鬱状態がひどくて苦しんだことがあると聴きました。
そこで、ソ連側に残らざるを得なかった偉大な作曲家や演奏家がいますが、「鉄のカーテン」の
向こうで、西側にその存在を知られるのはずっと後になります。
作曲家のショスタコーヴィチは、スターリン賛歌を強制され、やはり鬱のため苦しみました。
「革命」と呼ばれる交響曲第5番は表面上はスターリン賛美と見せながら身を護り、実は
その旋律の中にオペラ「カルメン」の中にあるセリフのメロディー、それは「気を付けて!」という歌詞のある旋律を取り入れていたのです。誰にもわからなかったのですが、芸術家の中でそれを見抜いた人もいたことでしょう。
ショスタコーヴィチのピアノ曲を数多く初演したのが、最高のピアニスト、スビャトスラフ・リヒテルでした。
信じられない大きなスケール、オーケストラのような圧倒的な演奏は、聴衆の度胆をぬきました。
ピアニストでありながら指揮者のように、多彩に演奏するのです。
聴衆に一点の媚びもなく、アンコールもせず、批評家は「古代ギリシャの勇士が松明を掲げて
舞台を駆け抜けたような演奏」と絶賛しました。
では、ロシアの誇る(当時はソ連だった)最高峰のピアニスト、
スビャトスラフ・リヒテルが演奏している古い動画です。
(ソ連のフイルムなので状態が良くないのですが、それを忘れさせる名演奏です)
弾いている曲はショパンの「スケルツオ」第3番ですが、リヒテルの演奏は、常識で考えるような
ショパンではありません。
まるでブラームスの重厚さを思わせます。
優美なショパンではなく、決然とした素晴らしい演奏です。
家ではドアのノックにKGBかと怯え、電話番号も覚えられず、フランスの公演では会場の花を撤去させ、舞台の飾りもすべてとりはずすことを要求、そして夜は何と幼稚園を借り、そこのアップライトピアノで一晩中練習したと、それにつき合わされた日本人指揮者の岩城宏之氏が書いています。
ソ連の演奏家が外国で公演するときは、必ずKGBが見張り役として、ピッタリとついてきました。
リヒテルは15歳でオデッサの歌劇場の練習ピアニストと練習指揮者として働きました。
父親は銃殺、母は亡命、一家離散でした。
しかし、リヒテルがはじめてアメリカでコンサートしたとき、母親と劇的な再会を果たしました。
リヒテルの妻はソプラノ歌手のリーナ・ドルリアクですが、ずっと夫に付き添っていました。
そして晩年のリヒテルはピアノの上にスタンドを置き、照明はほとんど暗くして、楽譜を見て
弾きました。「演奏が怖い」と言っていましたが、いざ弾くとすばらしいものでした。
これらのことを知ったのは、チェロ奏者のロストロポーヴィチ夫人の『ガリーナ伝記』や
『ショスタコービチの証言』などを読んでからでした。
それからもうひとつ前の世代の名歌手シャリアピンが国宝的芸術家であったにかかわらず、スターリンを批判したとして国外追放になっていたことも『シャリアピン自伝』『蚤の歌』の彼の著作で知りました。
今、中国で心ある芸術家が投獄されたり国外追放または亡命していますが、よく似ています。
中国では伝統ある京劇も攻撃され、名優たちが命がけで伝統芸術を護りました。
また、東欧でも同じことがありました。
民主的で自由な国家は宝ですね。 Bella Cantabile
manimaniさまのために、浅田真央選手のラフマニノフ「鐘」についてご説明したことがあります。
ラフマニノフはアメリカに亡命し、作曲家・ピアニストとして活躍しましたが、亡命のあと、
鬱状態がひどくて苦しんだことがあると聴きました。
そこで、ソ連側に残らざるを得なかった偉大な作曲家や演奏家がいますが、「鉄のカーテン」の
向こうで、西側にその存在を知られるのはずっと後になります。
作曲家のショスタコーヴィチは、スターリン賛歌を強制され、やはり鬱のため苦しみました。
「革命」と呼ばれる交響曲第5番は表面上はスターリン賛美と見せながら身を護り、実は
その旋律の中にオペラ「カルメン」の中にあるセリフのメロディー、それは「気を付けて!」という歌詞のある旋律を取り入れていたのです。誰にもわからなかったのですが、芸術家の中でそれを見抜いた人もいたことでしょう。
ショスタコーヴィチのピアノ曲を数多く初演したのが、最高のピアニスト、スビャトスラフ・リヒテルでした。
信じられない大きなスケール、オーケストラのような圧倒的な演奏は、聴衆の度胆をぬきました。
ピアニストでありながら指揮者のように、多彩に演奏するのです。
聴衆に一点の媚びもなく、アンコールもせず、批評家は「古代ギリシャの勇士が松明を掲げて
舞台を駆け抜けたような演奏」と絶賛しました。
では、ロシアの誇る(当時はソ連だった)最高峰のピアニスト、
スビャトスラフ・リヒテルが演奏している古い動画です。
(ソ連のフイルムなので状態が良くないのですが、それを忘れさせる名演奏です)
弾いている曲はショパンの「スケルツオ」第3番ですが、リヒテルの演奏は、常識で考えるような
ショパンではありません。
まるでブラームスの重厚さを思わせます。
優美なショパンではなく、決然とした素晴らしい演奏です。
家ではドアのノックにKGBかと怯え、電話番号も覚えられず、フランスの公演では会場の花を撤去させ、舞台の飾りもすべてとりはずすことを要求、そして夜は何と幼稚園を借り、そこのアップライトピアノで一晩中練習したと、それにつき合わされた日本人指揮者の岩城宏之氏が書いています。
ソ連の演奏家が外国で公演するときは、必ずKGBが見張り役として、ピッタリとついてきました。
リヒテルは15歳でオデッサの歌劇場の練習ピアニストと練習指揮者として働きました。
父親は銃殺、母は亡命、一家離散でした。
しかし、リヒテルがはじめてアメリカでコンサートしたとき、母親と劇的な再会を果たしました。
リヒテルの妻はソプラノ歌手のリーナ・ドルリアクですが、ずっと夫に付き添っていました。
そして晩年のリヒテルはピアノの上にスタンドを置き、照明はほとんど暗くして、楽譜を見て
弾きました。「演奏が怖い」と言っていましたが、いざ弾くとすばらしいものでした。
これらのことを知ったのは、チェロ奏者のロストロポーヴィチ夫人の『ガリーナ伝記』や
『ショスタコービチの証言』などを読んでからでした。
それからもうひとつ前の世代の名歌手シャリアピンが国宝的芸術家であったにかかわらず、スターリンを批判したとして国外追放になっていたことも『シャリアピン自伝』『蚤の歌』の彼の著作で知りました。
今、中国で心ある芸術家が投獄されたり国外追放または亡命していますが、よく似ています。
中国では伝統ある京劇も攻撃され、名優たちが命がけで伝統芸術を護りました。
また、東欧でも同じことがありました。
民主的で自由な国家は宝ですね。 Bella Cantabile