ベッラのブログ   soprano lirico spinto Bella Cantabile  ♪ ♫

時事問題を中心にブログを書く日々です。
イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

水島さん、よく言った・・・

2014年04月11日 | 政治

★ 今日初めて水島さんは本音を言った!!




★ でも毎年毎年、そのたびごとに戦わなければならない。
  今こそ全力で拡散することだ。

  ヨーロッパなど「移民政策」で失敗したことも事実として紹介しなければならない。
  「どこそこの国を入れなかったらよい」なんて事実上、できないことだ。
  本音でできることからやっていこう。
  移民対策阻止、外国人労働者阻止、

★ また「偽人権法」がささやかれてもいる。
  シバキ隊などをかばうマスコミや政治家、日本人を犠牲にしてきれいごとを言う政治家や文化人は要らない。
  一代や二代の話ではない。日本を護り少子化についても条件を整備しながらじっと待つことと西田昌司議員は言っている。
  その通りと思う。
  水島さん、今日は「安倍さん以外誰がいる」という絶叫はなかった・・・ホッとしました。

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古谷経衡氏 ~ 最近耳にする『○○という政治家を支える、信じる』といったもの

2014年04月11日 | 政治

★ 古谷氏は最近から三橋貴明氏の研究所で経済を学んでいらっしゃる、という若手の著述家です。

FROM 古谷経衡(著述家/経世論研究所 客員研究員)

 ここ最近、耳にする言葉として多いのが「○○という政治家を支える、信じる」といったものです。
とり分け、現政権が発足してから、そういった声は「保守派」と呼ばれる人々から多く聞こえるようになりました。

 2009年から約3年間、異例の民主党政権が続き、震災復興、外交、経済など全く落第点であったのは言うまでもありません。
その「失政続き」だった民主党政権が終わり、自民党政権が復活し、しかも殊更外交的には「保守色」が強い、と思われる安倍政権が再登板したのですから、主に「保守派」が現政権に対して、過剰な期待を抱いたとしても、非難するべきではありません。

 しかしながら、第二次安倍政権も発足から今年度で丸二年を迎えるわけで、その政策内容が、必ずしも当初「保守派」が想定したものとは違っている、とみなされる発言や政策が際立ってきました。

 私は政治評論家ではありませんので、詳細に「当初想定した公約」と「現政権のそれ」を比較し、どこがどう違っているのか、ということを分析することはしません。しかし、「保守派が当初想定した公約」と現実のそれが時間を経るにつれて徐々に食い違いの色彩を濃くしていくとき、やおら盛り上がりを見せている言説こそが、冒頭で紹介した「○○という政治家を支える、信じる」といったものなのです。この「○○」の中には、安倍首相とか、色々な人の名前を入れて差し支えありません。

 たぶん、間違った政策を行っているとしても、特定の政治家を「信じ」「支える」ことによって、その間違いが将来訂正されていくか、あるいは特定の政治家そのものを国民よりも「上位」の存在として認識しているかのようです。このような態度や表現には大変な違和感を感じます。

 ここで、民主主義の基本に立ち返りたいと思います。そもそも、特定の政治家を「支える」「信じる」という姿勢は、主権者である国民の態度として、あるべき姿なのか、ということです。

 フランスの啓蒙思想家であるルソーは、『社会契約論』の中で「一般意思」という造語を用い、「政府は国民(人民)が合意する一般意思(共通利益、共通利害)の下僕でなくてはならない」と考え、後世の近代民主主義に大きな影響を与えたことは言うまでもなりません。

 簡単に言えば、国民の間で形成された共通利益の「下位」に政府(や政治家)が存在し、実際の政策の実行により、国民の共通益に従う、という考え方です。このような社会や国家の姿は、それまで『王権神授説』(王権は、神が与えた神聖なもの)に代表され、王権が正当化されていた中世、近世期の欧州や後のアメリカで、市民革命の理論的支柱になった考え方であります。

 一方、日本では、明治維新以降の近代化によってこのような近代啓蒙思想の影響を強く受けたことは言うまでもありませんが、明治憲法は「天皇陛下が制定し国民に与える」(欽定憲法)という形式をとり、その下に「輔弼」(助ける)機関として政府が位置づけられています。とはいえ、明治天皇は「君民一体の原則により、日本国民の一般意思を代弁するお方」と解釈すると、やはり明治憲法下における政府も「一般意思の下僕」であることには変わりありません。戦後制定された日本国憲法については、言うに及ばずであると思います。

 政府は一般意思の下僕である、という考え方に基づきますと、冒頭の「○○という政治家を支える、信じる」という言説は大変おかしなものになってくることに気づかれた方も多いと思います。
 なにしろ、政府(と政治家)は、「一般意思の下僕」なのですから、「支える」とか「信じる」とかいう表現自体、そもそも馴染まないものだからです。

 「一般意思の下僕」である政府(と政治家)には、国民の合意で形成された「一般意思」を忠実に、その意に沿うように実行するかどうか、という「点検」と「監視」こそ求められるのであって、「支える」とか「信じる」という性質のものではありません。

 繰り返すようですが、「一般意思の下」に政府や政治家が存在するのであって、我々の上位に彼らが存在しているわけではありません。
国民は彼らを「監督」する立場にあるわけですから、「支える」とか「信じる」という表現は政府や政治家を「一般意思」よりも一段高い、上位のものと認識している事となり、どちらかといえば先に述べたような中世の考え方に近いような気がします。

 つまり、世襲で就任した王様を「支える」「信じる」という領民と同じような感覚になります。
確かに中世の領民は王権に服属していましたので、「支える」「信じる」でもいたし方ありません。
しかし近代人である我々は、「一般意思の下」に政府(と政治家)を従えているのですから、彼らに求めるのは「支える」ではなくて「監視する」が正しい態度でしょう。

 社会学者のマックス・ウェーバーは、中国のことを「家産制国家」と表現しました。
「家産制」の「家」とは王朝、「産」は土地や人民などの財産を指します。
つまり、中国は歴代王朝(皇帝)という個人が、土地や人民などの財産を私物化して支配している、という意味で簡単に言うと「家畜」に近いようなニュアンスを持っています。
 このような「家産制国家」は、中国に限らず、北朝鮮や中東の産油国など、現代でも開発途上国にまま、見ることのできる国家体制です。
そこにすむ人々は、どんな暴虐な支配者でも、「支える」「信じる」という選択肢しかありえません。中国共産党がどんなに酷い政治を行っても、「家産制国家」の中では、人民は(皇帝=共産党)の私有物なのですから、異を唱えることなどできないのです。

 北朝鮮の金正日や金正恩に対する賞賛や、中国共産党に対する美辞麗句の中で、必ずといっていい程「人民は党中央を支える」「偉大なる指導者を信じて主体強国の建設に邁進しよう」などというフレーズが登場するのは、これらの非民主国の指導者が「一般意思」の存在そのものを否定しているからです。

 翻って、わが日本はどうでしょうか。民主主義国家であるわが国では、「一般意思の下僕である」政府や政治家が、「一般意思」に沿わぬことをすれば、懲罰として次の選挙で落選させることができます(2012年の政権交代のように)。
一方、「一般意思」を存分に汲み取って良い政策を行った場合には、褒章として次の選挙でも政権や政治家の地位を保証してやることができます。

 日本国民は政府や政治家のより上位にいる監督者なのですから、彼らの行いが「当初国民と合意されていたものと違う」のであれば、それを厳しく点検し、必要であれば懲罰しなければなりません。その対象は、安倍首相であろうと、別の政治家であろうと、同じことです。安倍政権が間違った政策を行った場合、我々にはそれに懲罰を与える義務があり、及第点であれば次の選挙でも政権を任せるという論功行賞が行われるのは当然のことです。
 政府や政治家は、「支える」「信じる」対象ではなく、「監視する」対象であることを、近代民主主義国の国民である我々はもっと自覚する必要があります。

 つい先日、1966年に静岡県で起こった一家四人殺害事件、通称「袴田事件」の再審(裁判やり直し)が決定され、受刑者であった袴田巌さんが約半世紀ぶりに釈放されました。
同様の再審決定案件は近年相次いでおり、1990年に栃木県で起こった「足利事件」、1948年に熊本県で起こった「免田事件」、1997年に東京で起こった「東電OL殺害事件」は、いずれも有罪が確定していた受刑者が再審決定により、無実となって釈放されたケースです。

 これらの免罪事件は、主に警察による強引な自白と、検察のずさんな主張を鵜呑みにした裁判官の判断力不足、などが主な要因ですが、私は警察や国家権力が悪いんだ、と殊更主張したいわけではありません。

 人間は、誰でも間違いを犯す、ということをいいたいのです。しかも、検事や判事といった社会的地位のある人が、複数人、複数回にわたって、間違いを訂正する機会があったにもかかわらず、それらが黙殺された結果、このような世紀の冤罪事件が発生したのです。

 刑事事件と政策・行政は違いますけれども、我々はどんな政治家であろうと、人間である以上、かならず間違いを犯すことを前提に政府や政治家をみつめなければなりません。

「○○という政治家を支える、信じる」という姿勢は、遅れた前近代的な政治意識だけではなく、たぶんに「願望」が入り込んでいます。
つまり「○○という政治家は良い人だからそんなことしない」などの手前勝手な「願望」に基づいた「期待」の表現です。


 しかし、すでに述べてきましたように、政府(や政治家)は「一般意思の下僕」なのであって、その人が善人か悪人なのかは一切関係がありません。「一般意思に従って」政策・行政を進めるかどうか、が重要なのであって、個人の性格はどうだって良いのです。
「あの王様は名君だから信じます」などという、中世の発想で政府や政治家をみる発想を捨て、聡明な監督者として日本を益々強国にするため、国民全員で頑張っていきたいものです。
 

★ そうなのです!! 古谷さん、本当にその通りです。
  このごろチャンネル桜のニュース動画、必ず水島さんの「お説教」「安倍さんしかいない」という絶叫が入っていて、聴いていて苦しい。
  あの「謎の人物、東田剛」さんや三橋さんのお話でやっとホッとします。

  私は昨年の「竹島の日」から、安倍総理が参加しないことをずっと残念で批判までしました。
  でもそれが「言ってはいけない」ような雰囲気を感じたのです。
  まず「経済政策」が先で、参議院の選挙で自民党が勝ってから、それまでは見守るなんてよくネットで書かれていました。

  でも私は最初から自民党支持者じゃないのです。
そんな私までどうして巻き込むの、と素朴な、そして無視されたような感じでした。

  参議院選挙では中山恭子さんを支持したし、その前の衆議院選挙では三宅博氏を支持、自民党には投票していません。
  なぜ考えを押し付けられるの、と思いました。でもせっかく保守とされる安倍さんが総理になったのだから、と控えましたが。

  それが黙っていられなくなったのです。
  私は自民党では西田昌司さんの講演をよく聴きに行きます。
  西田さんは安倍総理実現に尽力されてきました。
  また民主党政権の時は命がけで売国議員を追及しました。
  その立役者たる西田先生を安倍総理は遠ざけたばかりか、反対をきかず竹中氏を「諮問委員」にして重用したのです。
  党内で議論もできない、そんな状態をききました。

  自民党や旧たち日がいい政策をすすめても「安倍総理の手柄」のように称えられました。
  これって変じゃない? 宗教じゃあるまいし。
  それに安倍夫人の傍若無人ぶりは、たまらないレヴェルでした。
  安倍夫人の勝手な暴走も諌めず、あいまいなままにして、一方で「安倍讃歌」・・・これは正直言ってたまったものじゃない!!

  安倍さんのすべてを否定したりはしていないのに、水島さんですら「ひとつが気に入らないからと言って全否定したら、
石破がでてくる」なんて絶叫、水島さんも気の毒なのです。
  TPPや消費増税は水島さんは「安倍さんはまだ決めていない、周囲がそうするのだ」と言い、デモも私も参加したのですが、
  安倍さんは「とっくに決めていた、迷っている演技をしていた」と青山さんの怒りをかった。
  水島さんの誠意は「面子を崩されたあげく恥をかかされた」のですが、それを一言も言わず、「わかっていたのに言えなかった。
  これからは正しい報道をしたい」と視聴者に詫びておられました。

  でも水島さんは「安倍さんでないと」という絶叫を続けています。大変見苦しい、もういいかげんに気が付いて、と思いました。
  このごろの安倍さんの政策は、水島さんも「間違っている」とハッキリ言っていますが、それでも「安倍さんしかいない」と絶叫。

  「日本」がよくなればそれでいいのです。
  それだけなのです。是々非々で考える、それだけです。

★ 謎の人物「東田剛」氏の書いた「替え歌」に一節です。安倍さんの気持ち?を「忖度」しているような・・・。

   ただ銀狼の直言が 怖かった (銀狼って西田昌司議員)

   ただ社長の応援が 怖かった (社長はチャンネル桜の水島聡氏)



  

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ホロストフスキーの歌で「春のひととき」を。

2014年04月11日 | 歌曲

★ ホロストフスキー、「春のひととき」・・・故郷を歌う




【歌詞の大意】
しばらくの間、
私の悲しみ、 重い、灰色がかった雲、
止むなら

私の最愛の故郷に飛んで行きたい、
ここから私の最愛の故郷に。



★ グランドピアノ、全開するのはピアノ独奏の時なのですが伴奏で全開、ホロストフスキー、声の勝利。
  曲はラフマニノフ「春の奔流」・・・雪や氷の厳しい冬から活気あふれる春の喜びが。



【歌詞大意】
野原はまだ雪に覆われているが
春の水はもうざわめいている
眠たそうな岸辺を流れて
流れ、きらめき、そして歌う
「春がきましたよ」と。


★ 50歳を過ぎたホロストフスキー、輝かしい声と音楽的詩情、
  ロシアの至宝です。

 



★ やはり忘れられないイタリアの至宝、今は亡きカップッチッリが歌うヴェルディ『ドン・カルロ』ロドリーゴ役




・・・これぞ憂国の士の歌、「漢」カップッチッリ!! 共演はドン・カルロ役にホセ・カレーラス、指揮はカラヤン

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