北海道のブロ友の方が「無礼講」と「オフレコ」の類似点をお書きになっていた。
それを読んで「なるほど」と思った。このブロ友のお方は大変インテリで、短い文であってもハッとする知性を感じ、読むたびにその文のあちこちに深い知恵と知識があふれている。
保守のお方ではないが、このお方の落ち着いた中でも凛とした気品と深い知識が何度も心をうつ。
この方の文では、「無礼講」「オフレコ」とも、内容は日本の「村社会」の名残りでもある、ということだ。こういう発想になるほど・・・と思った。
「無礼講でいきますよ」と言われても、それを本気にはほとんどしないだろう。
(昔の三国志などの「義兄弟」の間柄以外は)、今ではそれぞれ自分を制する。
ましてや政治関係で「無礼講」「オフレコ」は通じる、と思うほうがおぼっちゃまだ。
仲良しの女子学生が喫茶店で「ここだけの話だけれど」「何よ、言ってよ、誰にも言わないから」「ほんと?絶対に言わない?」なんて言って「実は○○君が好きなの」なんて言おうものなら、後日いろんなところでヒソヒソかもしれない。
「無礼講だ」と言われて目上の人に友達言葉で説教のようなことを口走る、ことも普通はしない。
ニコニコしてお互いに親近感を持つことはするが、言葉を選ぶ。
相手を傷つけたり嫌な思いをさせないように、微妙でも距離をおくのがエチケットであり、自分を守ることになる。
しかし同性愛その他で思い切って激しい批判の言葉をいうのは、本心であったにせよ、どこかで自制ができなかったのか、(自民党内部の秘密とされる会合での内容も漏れるのだ)
しかし「鬼の首をとったように」どっと責めるのも悪意があるように思えてならない。
実のところ、あまりいい気はしない。「放送禁止用語」も数多く、言葉の専門でもあるアナウンサーでも失敗がある。
英語はないが、西洋の外国語(ドイツ語など)では名詞に「女性名詞」「男性名詞」「中性名詞(イタリア語ではない)」があるが、最近「どちらでもない名詞」が出てきている。苦肉の策であろう。
女性の活躍については時代とともに考えが違ってくるのだろう。
しかしどこかで理不尽なことに利用されないように、と願う。
ドイツ語の名詞の性(男性・女性・中性) イタリア語の名詞の性(男性・女性)
この前にブログに書いた「自衛隊の20代前半の女性が男性自衛隊員の複数に強度のセクハラを受けた」ことについて、
野党の国会議員や左派の活動家と一緒の写真があったというだけで、何十というひどいコメントをツイッターに書き込まれていたこと、今回ひどいコメントを入れたのは「保守系」ということがわかるが、ひどいコメント合戦をするのは「右でも左でもいる」ことだ。その中には一流大学を出たチャンネル桜に出演している保守の女性の学者も書き込んでいたのに、「知性とは?」と疑ったものだった。
気の毒に、被害者の女性がツイートで説明をしていて痛々しい。(ここでの心無いコメントも見るに堪えない。転記しませんが)
五ノ井里奈 gonoi rinaさんはTwitterを使っています: 「世間の皆様へ https://t.co/wiMWmyfaCP」 / Twitter
私もそうした頭コチコチの人たちにとって気にいらないコメントを書いたら(フェイスブックで)ひとでなしのように強い言葉で反発を受けた。
そういう時は相手にしないようにしている。話をしても「わかる気がない」からである。
こういうことでけっこう悩んでいる人は多い。そしていつのまにか「表現の自由」に手かせ足かせとなる。
実は「書く前」からこれらを予想し、ソフトな表現を心掛けるようにしている。
バカバカしい結果になって不快さを味わうのはごめんだからだ。
ブログのティールーム
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