文楽の魅力に迫る!
橋下大阪市長の「文楽」に対する扱いがあまりにも異常で、あのドナルド・キーン氏も「蛮行だ!」と批判されている。
今日はわが「円卓」のさらりんさまから、さすが、という心強いコメントがあり、その全文を掲載、みなさまにぜひ読んで頂きたいとその全文を掲載することにした。
その文中に出てくる作曲家、黛敏郎の「文楽」、これはチェロで演奏されるが、これも是非お聴き頂きたくUPした。
Mayuzumi- Bunraku
ベッラさま こんにちは。
今朝は黛敏郎の「文楽」を聴いております。
チェロ一本から生み出される音が、
見事に義太夫の節回しや三味線のバチ捌きを表現しており、
文楽の舞台へと誘われる気持ちになります。
黛敏郎はフランスからの帰国の折、
下水道に落ちているマロニエにさえ
フランスの伝統が転がっていると言ったと言いますが、
豊饒な文化とはそういうことなのではないかと思います。
文楽は大阪で生まれ大阪で育ち愛されてきました。
豊饒な上方文化の大きな魅力のひとつです。
もう二度と観に行かないと橋下は宣言しているようですが、
大阪の市長たるもの文楽の魅力を語れ!と思います。
歌舞伎もそうですが文楽も能も、
古典芸能と言われるものは下調べが大切ですし、
何度も観ることでその芝居の深さや魅力に感動するのだと思います。
自分の分からないものはいらないという姿勢が見えて、
この人は本当に権威と権力を勘違いしていると感じます。
ふと文化の語源とされるラテン語の「colere」を思い出しました。
今は英語の「culture」となり
知性を磨き精神を鍛錬するという意味に使われますが、
「colere」には「天と地を耕す」の他に、
「守る」「敬う」という意味もあったそうで、
文化芸術から遠い市長さんだとつくづく思います。
さらりんさま、貴重なお話をありがとうございました。
colereはラテン語だったのですね、イタリア語では「尊敬」なのです。
橋下は伝統文化を理解できない、しようとしない、人間的に狭いように思えます。
わからないならわからないでもいいのですが、それを侮蔑し、補助金を出さない、自分で稼げ、なんて、文楽はいつも満員とききます。すべておカネ、お金では買えない貴重な文化もあります。
伊藤博文が岡倉天心に「古美術を保護してほしい」と頼まれ、ゴミのように捨てられようとしていた「弥勒菩薩像」など、今や人々の心や目を癒し、楽しませ、感動させることができます。
私はオペラの演技では「人形浄瑠璃」を観るようにN先生に教えられたことがあります。
リアルなテレビ画面のようなものでなく、大変深い芸術と美しさを象徴的に感じることができます。
また、黛敏郎氏の音楽から限りない日本への愛と尊敬を感じます。畏れをも感じます。
心の底に日本人であることの誇りも、その音楽の中に強く感じます。
このような伝統芸術には尊敬をもって接し、また下調べなど勉強もして鑑賞すればもっと味わいを得ることができます。
「3分でできるインスタント」しか認めない、吉本の笑いがあればそれでいい、なんて市長は哀れです。(ベッラ)
橋下大阪市長の「文楽」に対する扱いがあまりにも異常で、あのドナルド・キーン氏も「蛮行だ!」と批判されている。
今日はわが「円卓」のさらりんさまから、さすが、という心強いコメントがあり、その全文を掲載、みなさまにぜひ読んで頂きたいとその全文を掲載することにした。
その文中に出てくる作曲家、黛敏郎の「文楽」、これはチェロで演奏されるが、これも是非お聴き頂きたくUPした。
Mayuzumi- Bunraku
ベッラさま こんにちは。
今朝は黛敏郎の「文楽」を聴いております。
チェロ一本から生み出される音が、
見事に義太夫の節回しや三味線のバチ捌きを表現しており、
文楽の舞台へと誘われる気持ちになります。
黛敏郎はフランスからの帰国の折、
下水道に落ちているマロニエにさえ
フランスの伝統が転がっていると言ったと言いますが、
豊饒な文化とはそういうことなのではないかと思います。
文楽は大阪で生まれ大阪で育ち愛されてきました。
豊饒な上方文化の大きな魅力のひとつです。
もう二度と観に行かないと橋下は宣言しているようですが、
大阪の市長たるもの文楽の魅力を語れ!と思います。
歌舞伎もそうですが文楽も能も、
古典芸能と言われるものは下調べが大切ですし、
何度も観ることでその芝居の深さや魅力に感動するのだと思います。
自分の分からないものはいらないという姿勢が見えて、
この人は本当に権威と権力を勘違いしていると感じます。
ふと文化の語源とされるラテン語の「colere」を思い出しました。
今は英語の「culture」となり
知性を磨き精神を鍛錬するという意味に使われますが、
「colere」には「天と地を耕す」の他に、
「守る」「敬う」という意味もあったそうで、
文化芸術から遠い市長さんだとつくづく思います。
さらりんさま、貴重なお話をありがとうございました。
colereはラテン語だったのですね、イタリア語では「尊敬」なのです。
橋下は伝統文化を理解できない、しようとしない、人間的に狭いように思えます。
わからないならわからないでもいいのですが、それを侮蔑し、補助金を出さない、自分で稼げ、なんて、文楽はいつも満員とききます。すべておカネ、お金では買えない貴重な文化もあります。
伊藤博文が岡倉天心に「古美術を保護してほしい」と頼まれ、ゴミのように捨てられようとしていた「弥勒菩薩像」など、今や人々の心や目を癒し、楽しませ、感動させることができます。
私はオペラの演技では「人形浄瑠璃」を観るようにN先生に教えられたことがあります。
リアルなテレビ画面のようなものでなく、大変深い芸術と美しさを象徴的に感じることができます。
また、黛敏郎氏の音楽から限りない日本への愛と尊敬を感じます。畏れをも感じます。
心の底に日本人であることの誇りも、その音楽の中に強く感じます。
このような伝統芸術には尊敬をもって接し、また下調べなど勉強もして鑑賞すればもっと味わいを得ることができます。
「3分でできるインスタント」しか認めない、吉本の笑いがあればそれでいい、なんて市長は哀れです。(ベッラ)
税金と言う観点とは違い、「銭勘定」でしか
語れない、無節操な男です。
「読書」も「鑑賞」も「銭勘定」と言う育ち
でしょう。
これは、躾けの部類ですから直りませんね。
私のコメントに動画をつけてupして頂きまして、
有り難うございます。
この「文楽」を聴くたびに感じていたのですが、
ベッラさまが人形浄瑠璃を学ばれたとお聞きし、
芸術(音楽)の中に古今東西を問わない普遍性のようなものがあるだと実感しました。
貴重なお話を有り難うございました。
私が最初に文楽の美しさに感動しましたのは、
土門拳の写真の中でした。
文楽の黄金時代とされる戦時下の昭和16年から撮り始め、
昭和20年の戦火による文楽座の焼失の後は、
自宅の防空壕にガラス乾板を埋めて守ったといいます。
その時代の息吹を写真に写る人形や遣い手の表情から、
圧倒的な存在感で感じることができます。
日本を愛し日本人を愛した土門拳の写真は、
日本の美しさを通して日本人の心を映し出しています。
『人形の世界は、写真の世界と同じく、無言のしじまが支配する国なのである』
そう土門拳が書いた言葉が至難な芸事を想像させ、
静謐な中にある激情が迫ってくるように感じます。
猿はちゃんと勘定できなくて、わかったふりをして笑われます。
でも橋下は向上心がないのか、薄っぺらい男ですね。はやく政治家をやめてほしいし、彼を担ぐ黒幕が恐ろしいです。
とほほ・・・でもさらりんさまがそうおっしゃるのですから今夜にでもネットで見ます。
またコメントしますので。
こうして私の知識が増えて行く、うれしいことです。
生き生きしています。
私は恥ずかしいですがまだまだです。
まあ、こんなものでしょう。
だって経済のことも苦手で、最近知ったことも多いのです。
教えて頂きありがとうございます。
「日本人」として共感を覚えながら観るのは何と言いますか・・・誇らしいことです。
土門拳の写真への感想を寄せて頂きまして、
有り難うございます。
彼の写真の中の子供たちは、
本当に生き生きとしていますよね。
子供の持つ生命力を感じさせる写真だと思います。
土門拳は幼い次女を不慮の事故で亡くしているのですが、
その亡き子の面影を探してシャッターを押していたと、
長女の池田真魚さんが仰っておられました。
『二千年来、雪山を超え、流砂を渡り、
黄塵にまみれて、層々と東漸する文化が、
日本列島という防波堤に遮られて、
波瀾と曲折を繰り返しながらも、
この列島の風土に沈静する』
『自己の内部に充分に淳化発酵させて、
いわば上澄みとしての日本文化が生まれる』
古寺巡礼の中に書かれた土門拳の言葉ですが、
この淳化のための良質の酵母が、
列島の風土であり、ほかならぬ我々日本人なのであると言います。
ベッラさまがお感じになられた「誇らしい」思いを、
私も改めて感じております。
これから意識して見るようになりました。
ありがとうございました。