★ 高校時代は声楽やピアノのレッスン、そして読書をした。わけがわからない内容だったけれど、夢中だった。
そしてそれから長い日々が過ぎ、毎日の多忙さのなかでふと政治に目がいったのは「尖閣」の事件からだった。
ここで立ち止まって青春時代?にかえったようにゲーテとシラーを。なんとツイッターで「名言」を発見!!
必死で読んだ高校時代より、今になってわかるような気がする名文を掲げてみた。
シラー
・@Schiller_v_F 崇高を伴わなければ、美はわれわれの品位をわれわれに忘れさせるであろう。
不断の享楽による弛緩のために、われわれは性格の頑健さを失うであろうし、生存のかりそめの形式に解きがたくむすばれながら、われわれの普遍の使命とわれわれのまことの祖国を見失うであろう。「崇高について」
・@Schiller_v_F 人間はつねにつねによりよい未来を語る 夢にもつ
金色の目的にむかってひたすらに突進する。
世界は老衰と更新をくりかえすが
人間はひとすじに向上の希望を抱いて精進する。「希望」
・ @Schiller_v_F
けれど目立たぬほまれにこころ足りて女性たちは現在の花を摘み
やさしくまめやかにそれを育てる。
いそしみの範囲はせまくとも自由にみち知識と詩歌の限りない世界では
男子よりも富んでいる。「女性の気高さ」
・@F_V_Schiller_jp
勿論私たちは、力に満ちた天才が自分の職業の限界を、自分の活動の限界にしていないことを知っています。
しかし中位の才能は、自分の受持である職業の中で、その乏しい力の全量を消耗してしまうのです。
自分の職分を損ねずに趣味のために何かを余らせておくには、平凡な頭では駄目です。-美的書簡-
・@F_V_Schiller_jp
流派を立てるくらいなら、いっそのこと他の間違いをしでかしたほうがよく、権威や他人の力に縋って身を真っ直ぐに立てているくらいなら、いっそのこと自分の力の弱さで倒れるほうがましです。-美的書簡-
・ @F_V_Schiller_jp
我々を取り囲む危険についての無知ではなく、――なぜなら、この危険は所詮止まざるをえないのだから――危険を知ることにのみ、我々にとっての救いがある。-崇高について-
・@F_V_Schiller_jp
私たちは、社会を持続させるためには、社会を自立させてくれる一本の支柱を、解消しようとする自然国家の中から探し出さなければなりません。
この支柱は、利己的で暴力的で、社会の維持よりも破壊を目指しているような人間の、自然的性格の中にも道徳的性格の中にも見出されません。-美的書簡-
・@F_V_Schiller_jp
国家はまさにそれ自身によって、またそれ自身のために、形成されている一つの組織でなければなりません。それ故にこそ国家は、部分が全体のイデーにまで高められている限り、実在しうるのです。-美的書簡-
★ ゲーテは多くのドイツリート(ドイツ芸術歌曲)の歌詞にもあります。一方シラーはベートーヴェン「第9交響曲」~≪歓喜≫やヴェルディのオペラ『ドン・カルロ』のもとになっています。
ではゲーテを。
・@J_W_Goethe_jp
才人は才知を失うことは決してなく、特に不正を甘受している場合にそうである。
その為孜々として努力する新人たちの心の中に憎悪と怨念が湧くのが屡々見られる。
そうすると激しい口論となってくるが、横領者たちはそれを自分たちの都合がいいように自分たちの派閥を堅固にするのに利用してしまう。
・@J_W_Goethe_jp
人間は世界を知る限りにおいてのみ自己自身を知り、世界を自己の中でのみ、また自己を世界の中でのみ認識する。
いかなる新しい対象も、深く観照されるならば、我々の内部に新しい器官を開示するのである。-適切な一語による著しい促進-
・@J_W_Goethe_jp
我々が[・・・]色々な対象を相互に結合すればするほど、我々の内部の観察能力はそれだけ多く訓練される。
これらの認識を実際の行動において我々自身と関係づけることができるならば、我々は賢明であると呼ばれるに値する。-客観と主観の仲介者としての実験-
・@J_W_Goethe_jp
芸術はまことの媒介者である。
芸術について語ることは、媒介者を媒介しようとすることであり、しかもそこから私たちに多くの貴重なものが生じてきた。-箴言と省察-
・@J_W_Goethe_jp
横領によって得られた名声は、しまいに大衆のもとで嫌疑をかけられることが間々あり、実際に事が明るみに出ると、彼らはこのような横領された名声を叱責する。
しかし本来、彼らは自分自身を叱責すべきである。
なぜなら、その名声を与えたのは彼ら自身にほかならないからだ。-地質学論集気象篇-
★ そうだ、そうだ、などと今更ながらわかるような気がする。ヒヨコの10代にわけもわからず背伸びして読んだことの「復習」のつもりが「はじめて読んだ」ような新鮮さ。
・・・ゲーテとシラーが語り合った「石のテーブル」(イエーナにて)
ゲーテは大天才、シラーは人生経験からの努力の人ときいたが、良きライヴァル。(「唐」の時代の李白と杜甫を思う。)
凡人の私は、美味しい紅茶でも淹れて、ささやかな自分の時間を楽しもう。
いつもあなたの精力的なご活躍に
敬服しております。
ところで今回のベッラさんのテーマであるゲーテですが、彼は私が住んでいるフランクフルト生まれで
今や生家は「ゲーテの家」として一般に公開されています。ぜひ一度フランクフルトへお越しください。ご案内いたしますよ。
これからも、ベッラさんのブログ、楽しみに読ませていただきますね。
ではまたまた!
クライン孝子
「保守」になったのは「三国志」からでした。
あの厳しい時代だからこそ、美しい義兄弟の誓いや諸葛亮の「出師の表」など涙ぐみながら読みました。
三宅博先生はたったひとりで朝鮮総連や解同の利権に敢然と戦いを挑まれ、その実践をネットで知った時は「三国志」の趙雲子龍の「全身是肝」を思ったものです。
私は文学は無学無知です、ほとんど「勘」です。
クライン先生の激烈なジャーナリストの経験を知ると、
やはりベートーヴェンのオペラ「フィデリオ」のレオノーレを思います。
ゲーテはシューベルトの歌曲に原詩がよく使われているので、モーツアルトのDas Veilchen も好きで、ゲーテの女性に対する「生涯の悔い」というのは心をうちました。
ドイツでご案内していただくなんて、もったいないほどです。冬は暖かいワインを楽しむのですってね。
最近のドイツオペラは音楽よりも前衛的な演出で、私はガックリです。
美しいドイツ語のワーグナーやモーツァルトには不向きで怪獣の世界に迷い込んだようです。
「表現者」最新刊の先生の論文は素晴らしかった、
ロシアをめぐる陰謀や工作員などロシアオペラにあるので、先生の『言いたい放談』のところにUPしていました。ポーランドを使ってローマカトリックがロシア正教を追い払おうとする、凄いですね。そして皇帝の地位も。
また、最近、杉田水脈先生とお会いしたとき、「パリ」で
ルペンさんに会いたいのでフランス語の勉強をされているそうです。
もうすぐ春、お雛祭りです。ドイツでもどうぞお楽しみください。