その後の『ロンドン テムズ川便り』

ことの起こりはロンドン滞在記。帰国後の今は音楽、美術、本、旅行などについての個人的覚書。Since 2008

エルンスト ヴァイス (著), 瀬野 文教 (翻訳) 『目撃者』 (草思社)

2013-07-21 07:29:00 | 


 数週間前に新聞の書評で紹介されていた小説ですが、非常に興味深い読み物でした。

 作者エルンスト・ヴァイスは第2次世界大戦中にドイツからフランスへ亡命したユダヤ人作家です。その作家が、若き日のヒトラーの精神医療を行った精神科医の話・記録をベースにして1938年に書いたのが本書。ヴァイスはヒトラーがパリに入場した1940年にパリで自殺し、この物語も長く埋もれていたのですが、1960年代にドイツで再評価され、今回、初めての日本語訳が発刊されたという経緯をたどっています。

 物語はあるドイツ人医師の少年から中年に至るまでの家族の盛衰、精神の彷徨、生き方を描いたものです。主人公は、第1次大戦中に失明した若きヒトラーと出会い、彼を治療した上に、睡眠療法で救世主思想を植え付けて社会復帰を手伝います。そして、以降は、台頭していくヒトラーとドイツ社会が変容、そして主人公の抵抗が描かれます。

 ヒトラーとの出会いと治療の場面は、実記録を基に描かれていると思われるだけに、迫力があります。また何よりも、ヒトラーが権力を握っていくとともに、ドイツ人やドイツ社会が先鋭的にファシズム化していく様は、当時の社会を肌感覚として追体験できるという点で、非常に興味深いものです。ヒトラー出現前からも存在した、普通の人たちが持つユダヤ人に対する偏見や憎悪の感情も、自然に描かれていて、当時の空気に触れることができます。歴史書で得た知識に肉がつくような感覚です。

 訳者あとがきに書いてあったのですが、本作品は米国の団体の懸賞論文に応募するために5週間ほどで書かれたということで、小説としては「話の筋にむらがあり、表現にも緻密さを欠いてしまっている」点はその通りで、私も読んでいて、こなれてないところがあるなあと思うところがありました。ただ、本作品には、そうした洗練さとは別次元での、作者の強い気持ちや当時の息詰まった空気が持つ迫力があります。テーマは人により好き嫌いが分かれるとは思いますが、テーマとして興味のある方には是非、一読を勧めます。

※ Ernst Weiss "Der Augenzeuqe"


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