かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

蘇我入鹿の邸宅跡が見つかった?!

2005-11-13 20:57:34 | Weblog
 昨日は寒かった、と書きましたけど、今朝の寒さはもう昨日の比ではありませんでした。昨日の夕方から、風があまりなく、雲一つない澄み切った青空が広がっていたので嫌な予感はしていたのですが、まさに寒いと言うより冷たいというのが正しい朝になりました。冷え切った空気は温冷覚よりも痛覚が刺激されているようにさえ感じます。霜も降りたみたいですし、いよいよ本格的に冬へ季節が移行しつつあるのでしょう。もっとも昼間はぽかぽか陽気で、昼過ぎから陰ってきてもさほど寒さを覚えないくらい。明日から雨なので少し暖か気味なのでしょう。この雨が過ぎれば、また一段と冷えてくるに違いないのでしょうが、まだ一晩で寝不足解消とは行かなかったので、ひとまず寒さが弛んでほっと一息付けそうです。
 
 そんな秋の深まる中、独立行政法人文化財研究所という文化庁関係の研究機関が、奈良県明日香村での大発見を報じました。恐らく誰でも知っている大化改新の敵役、蘇我入鹿の邸宅跡と思われる遺構が発見されたというのです。場所は甘樫丘(あまかしのおか)と呼ばれる小さな山の東南ふもとで、そこを発掘調査していたところ、掘っ立て柱の跡や塀の跡、焼けた土などが出てきたんだとか。それが何故蘇我入鹿の邸宅と推定されるかというと、日本書紀で「谷の宮門(はざまのみかど)」と呼ばれた邸宅が、この甘樫丘東側にあったとされること。そしてこの発掘場所が、大昔に谷を大規模に造成した痕跡が伺えること、その場所から今回7世紀の建物跡や焼けた土が見つかったこ。それらを総合すると、西暦645年に中大兄皇子と中臣鎌足によって滅ぼされた蘇我氏の邸宅だった可能性が高い、と言うことで発表されたそうです。もちろんまだ建物跡もごく一部しか出てきておりませんし、天皇家を凌ぐ勢威を誇った大豪族の邸宅かどうかは実のところ現段階で断定はできないと思うのですが、今回発見された建物跡をとっかかりにして、今後更に発掘が進めば、闇雲に掘るよりも高い確率で本殿など他の遺構も出てくる可能性は大いにあります。その上で、かつて長屋王邸宅跡であったみたいに、蘇我氏の事が書かれた木簡などが出てくれば、ようやく蘇我氏邸宅跡として教科書にも載るような場所に認定されることでしょう。蘇我氏に関しては、聖徳太子共々判らない事がまだまだ結構あるらしいので、歴史好きの私といたしましても、ほんの目と鼻の先で挙げられたこの発見が、日本の古代史に新たな一ページを加えるものになることを、期待して止みません。
 ただ、今この時期の発表になることに、何となく不純なものを感じてしまうのは、陰謀史観に毒され過ぎ、というところでしょうか? でも私には、何気に考古学の研究機関って、予算編成の時期になると大発見を報じているような気がしてならないのですよ。実はもっと前から発見はしていたんだけど、予算獲得に少しでも有利になるよう発表時期を調整していたりするんじゃ無かろうか、と。もしそういう関係機関にお勤めの方がいらっしゃったら勘弁して下さい。これは、ちゃん報道記録などにあたって確かめた上で書いているわけではなく、あくまで私の個人的な根拠のない妄想ですから。きっとまだ私の頭には、あの旧石器時代の石器を捏造した事件の事や、石舞台古墳の壁画管理ミスなどが、記憶の片隅に残っているんでしょうね。だからあるかどうかも判らない妄想にうつつを抜かしてしまうのでしょう。こう考えると、一度失った信用というのは容易に回復しないものだなと、改めて感じてしまいます。分野こそ違いますが、私もそんな羽目にはならないよう気を付けないと。・・・で、発表時期と予算は本当っに、関係ないですよね?(まだ言ってる(苦笑))


コメント
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