今日は見事な秋晴れの中、仕事で奈良北部の某大学にやって来ました。キャンパスのカエデが彩り鮮やかに紅葉し、日差しに透かして輝く紅色の木々が実に見事でした。多分、奈良公園などの紅葉も同じように色づいていることでしょう。それにしても、近くに寄って一枚一枚をつぶさに観ると、黒っぽかったり斑点があったり、本当に目がさめるような美しい葉というのは100枚に1枚も無いのではないか、と言うくらい少ないのに、少し遠目に木全体を観るとあのように見事に見えるのはどうしてなのでしょうね。本当に不思議なものです。
さて、そんな街中にも選挙ポスターを貼り付ける立て看板が作られ、いよいよ選挙近し、という感じになって参りました。うちの選挙区なぞ候補者が3人出るか出ないか、というようなところなのに、ポスターが10枚以上貼れる板を建てるのはもったいない話だと思いながらいつも観ているのですが、多分ポスター枚数に合わせて板の大きさを調整したりしたらかえって手間がかかりますし、また、張る場所が小さくなり過ぎたら目立たなくて役に立たない、というようなこともあるのでしょうね。うちのような田舎の選挙区だと出る人もほぼ決まっているので、大方の住民にとっては今更ポスターで名前を確認する必要すら無いのですが、まあ今回ほど盛り上がりに欠ける選挙もそうはないでしょうから、こういうものでもいいから少しでも盛り上がりに寄与できれば、と思うのもまたありでしょう。
ところで、解散前日の20日付で、NHKと民放テレビ局に対し選挙報道の公平中立などを求める要望書を政府与党が出していた、という事を報じる内容のニュースをネットで観ました。テレビ局によっては、メディア批判が高まる中、萎縮効果はある、とのたまい、さる大学教授はメディアへの明白な「恫喝だ」と批判したそうですが、私がこれを観て感じたのは、まだまだそうやって政治から注文を受けるほど、テレビというのは影響力のあるメディアであったのだな、ということでした。ネットさえあればテレビを必要としない生活に慣れてしまったため、どのメディアが国民に対して影響力を持っているのか、判らなくなっていたりするのですが、実際現時点でどれ位の影響力を保持しているのか、客観的な状況を知ってみたいとは思いました。
さて、そんな街中にも選挙ポスターを貼り付ける立て看板が作られ、いよいよ選挙近し、という感じになって参りました。うちの選挙区なぞ候補者が3人出るか出ないか、というようなところなのに、ポスターが10枚以上貼れる板を建てるのはもったいない話だと思いながらいつも観ているのですが、多分ポスター枚数に合わせて板の大きさを調整したりしたらかえって手間がかかりますし、また、張る場所が小さくなり過ぎたら目立たなくて役に立たない、というようなこともあるのでしょうね。うちのような田舎の選挙区だと出る人もほぼ決まっているので、大方の住民にとっては今更ポスターで名前を確認する必要すら無いのですが、まあ今回ほど盛り上がりに欠ける選挙もそうはないでしょうから、こういうものでもいいから少しでも盛り上がりに寄与できれば、と思うのもまたありでしょう。
ところで、解散前日の20日付で、NHKと民放テレビ局に対し選挙報道の公平中立などを求める要望書を政府与党が出していた、という事を報じる内容のニュースをネットで観ました。テレビ局によっては、メディア批判が高まる中、萎縮効果はある、とのたまい、さる大学教授はメディアへの明白な「恫喝だ」と批判したそうですが、私がこれを観て感じたのは、まだまだそうやって政治から注文を受けるほど、テレビというのは影響力のあるメディアであったのだな、ということでした。ネットさえあればテレビを必要としない生活に慣れてしまったため、どのメディアが国民に対して影響力を持っているのか、判らなくなっていたりするのですが、実際現時点でどれ位の影響力を保持しているのか、客観的な状況を知ってみたいとは思いました。