日曜日は地元神社で祈年祭(御鍬)に出席しました。
というのも、40歳の厄年ということもあったのですが。
現在の地域に居住するようになって、また、議員となってからより、地域の神社のお祭りに参加させていただくようになりました。お祭りといっても、想像されるようないわゆる「祭り」ではなく、季節の節目に行われる神社のお祭りです。
参加していてはっきりと感じるのは、宗教的儀式ということ以上に、このような祭りを行うことが、それ自体が地域の人と人とをつなぐための「社会的のり」としてあるということです。
祭りの準備を行う際から、祭り自体、そして終わった後の「なおらい」など、その場で地域のいろいろな人たちを顔を接し、コミュニケーションを取ることは、地域社会を構成する上で大切だと感じます。
このようなことは、なにも神事にかぎったことではありませんが、私たちの「社会的のり」に対する意識は、非常に薄まってしまっているのかもしれません。
そのような場所に出て、地域のほかの人たちとコミュニケーションを取ることは、たしかにめんどうくさい部分もあるかもしれませんが、出ることで得ることのできるもののほうが、でないよりも大きいのは間違いないと思います。
ネットなどの情報通信手段を用いれば、NPOなどのように地域外の人との連携で自分の生活が成立するように見えても、地震災害などで大きな被害を受けるような場合は、やはり隣近所のつながりが大切なはずです。
このような「社会的のり」に対しての観点を、自治条例を策定する場合には抜いてはいけないのではないかと考えます。
というのも、40歳の厄年ということもあったのですが。
現在の地域に居住するようになって、また、議員となってからより、地域の神社のお祭りに参加させていただくようになりました。お祭りといっても、想像されるようないわゆる「祭り」ではなく、季節の節目に行われる神社のお祭りです。
参加していてはっきりと感じるのは、宗教的儀式ということ以上に、このような祭りを行うことが、それ自体が地域の人と人とをつなぐための「社会的のり」としてあるということです。
祭りの準備を行う際から、祭り自体、そして終わった後の「なおらい」など、その場で地域のいろいろな人たちを顔を接し、コミュニケーションを取ることは、地域社会を構成する上で大切だと感じます。
このようなことは、なにも神事にかぎったことではありませんが、私たちの「社会的のり」に対する意識は、非常に薄まってしまっているのかもしれません。
そのような場所に出て、地域のほかの人たちとコミュニケーションを取ることは、たしかにめんどうくさい部分もあるかもしれませんが、出ることで得ることのできるもののほうが、でないよりも大きいのは間違いないと思います。
ネットなどの情報通信手段を用いれば、NPOなどのように地域外の人との連携で自分の生活が成立するように見えても、地震災害などで大きな被害を受けるような場合は、やはり隣近所のつながりが大切なはずです。
このような「社会的のり」に対しての観点を、自治条例を策定する場合には抜いてはいけないのではないかと考えます。