フェイスブックで書いたものを加筆してこちらにも掲載します。
メディアなどで、部活顧問の体罰で部員が自殺に至ったという痛ましい事件が話題になっています。
もちろん、このようなことはあるべきこと、過度な肉体的精神的暴力行為はゆるされるものではありません。その視点からすると、たしかに学校側の問題や責任、顧問の責任や問題は追及されるべきものだと思います。
また、ある番組のコメンテーターが、学校の部活は教育活動といっていたのですがその通りと考えます。公立学校の部活では、生徒の人間的成長を支援することが大切にされるべきで、過度な成績追求は控えるべきだと思います。そう考えたときも、学校側に強豪校という肩書のためにチェックが甘くなった部分があるのもたしかでしょう。
一方で、チームとしても、個人の能力としても、ある部分で追い込むことはあり得ることだと思います。そうして精神面を鍛えることも。
例えば責任感という側面について、ベンチで座って試合を見ていると、自分に甘く他人に厳しかったり冷たかったりする子がいたり、チームプレーであるのに自分のことしか考えない、自分のプレーに責任を感じない子供をよく見かけます。そのような子供に言葉をかけるときに、やさしい言葉ばかりではなかなか気づいてくれません。要所で、自分のプレーがチームにどのような影響を与えたのか、自分のことばかりではないのか、そのようなことを厳しく言うべき場面があると思います。このようなことをすべて精神的な暴力と言ってしまうとすれば、それはそれで問題と思います。
考えるべきは、過度な暴力行為がまかり通るような部活運営が許容された背景です。
なぜそのようなことがまかり通ったのか、
ひとつは親や周囲の環境、勝利至上や結果重視の意識がそこにあったから、親自身もそれに自分も加わることで、同じような高揚感を得ることにのっかっていたからではないでしょうか。このことはスポーツの楽しみ方として、全く否定されるべきものではありません。しかし、その感情が過剰になり、許されるべきでない行動に対して、親として、大人としてブレーキをかける意識を弱めてしまっていたことがあると思います。
もうひとつに、個別の学校や部顧問だけの問題だけではなく、他校の競技顧問についても、結局同じ流れ、つまり仲間意識の中にあるために、練習試合の際などにもあっただろう暴力行為に対して意見することもできず、また、教育委員会など意見すべき場所に通報などを行わなかったということもあるのではないかと思います。
つまるところ、本来、多様にあるべきはずの当事者以外によるブレーキが機能不全に陥っていることが、今回のような事件が起こった背景にあると思います。
ブレーキをかけるのはだれか。顧問、コーチの問題はもちろんですが、人としての尊厳も含め子どもを守るブレーキを顧問やコーチにかけるのは親ではないでしょうか。また、それも一人の親だけではなく、チーム全体の親の意識、チームに関わる人の意識も重要ではないかと思います。
また、直接関係しない第三者が動けるように支援をすることもありえます。
今回の事件を報道で見ると、私自身も実例を目の当たりにして実際に行動した経験があり、その際に配慮したりした経験や、自分もジュニアのコーチをしている実感から、部活動に関係する問題について非常に考えることが多くあります。
また、行政や教育委員会においては、学校という場で行われる活動の考え方について、目先の部活の結果ではなく、子どもたちの人格形成も含めて、きちんとした考え方やガイドラインで運営されなければいけないことは当然です。教師が行うべきは、子どもを以下に伸ばすかということ、学校をいかに魅力的な場とするかということではないでしょうか。
仮に、部活の指導で大きな大会へ出場するなどの結果を出していたとしても、暴力行為などが日常化したり、部活に偏った生徒指導を行っていたりするなど、それが鈴鹿市の子どもの育成に沿わないのであれば毅然として対処する、それは教師はもちろんのこと部活保護者に対してもきちんと話し対処するということを行うようにすべきだと思います。
メディアなどで、部活顧問の体罰で部員が自殺に至ったという痛ましい事件が話題になっています。
もちろん、このようなことはあるべきこと、過度な肉体的精神的暴力行為はゆるされるものではありません。その視点からすると、たしかに学校側の問題や責任、顧問の責任や問題は追及されるべきものだと思います。
また、ある番組のコメンテーターが、学校の部活は教育活動といっていたのですがその通りと考えます。公立学校の部活では、生徒の人間的成長を支援することが大切にされるべきで、過度な成績追求は控えるべきだと思います。そう考えたときも、学校側に強豪校という肩書のためにチェックが甘くなった部分があるのもたしかでしょう。
一方で、チームとしても、個人の能力としても、ある部分で追い込むことはあり得ることだと思います。そうして精神面を鍛えることも。
例えば責任感という側面について、ベンチで座って試合を見ていると、自分に甘く他人に厳しかったり冷たかったりする子がいたり、チームプレーであるのに自分のことしか考えない、自分のプレーに責任を感じない子供をよく見かけます。そのような子供に言葉をかけるときに、やさしい言葉ばかりではなかなか気づいてくれません。要所で、自分のプレーがチームにどのような影響を与えたのか、自分のことばかりではないのか、そのようなことを厳しく言うべき場面があると思います。このようなことをすべて精神的な暴力と言ってしまうとすれば、それはそれで問題と思います。
考えるべきは、過度な暴力行為がまかり通るような部活運営が許容された背景です。
なぜそのようなことがまかり通ったのか、
ひとつは親や周囲の環境、勝利至上や結果重視の意識がそこにあったから、親自身もそれに自分も加わることで、同じような高揚感を得ることにのっかっていたからではないでしょうか。このことはスポーツの楽しみ方として、全く否定されるべきものではありません。しかし、その感情が過剰になり、許されるべきでない行動に対して、親として、大人としてブレーキをかける意識を弱めてしまっていたことがあると思います。
もうひとつに、個別の学校や部顧問だけの問題だけではなく、他校の競技顧問についても、結局同じ流れ、つまり仲間意識の中にあるために、練習試合の際などにもあっただろう暴力行為に対して意見することもできず、また、教育委員会など意見すべき場所に通報などを行わなかったということもあるのではないかと思います。
つまるところ、本来、多様にあるべきはずの当事者以外によるブレーキが機能不全に陥っていることが、今回のような事件が起こった背景にあると思います。
ブレーキをかけるのはだれか。顧問、コーチの問題はもちろんですが、人としての尊厳も含め子どもを守るブレーキを顧問やコーチにかけるのは親ではないでしょうか。また、それも一人の親だけではなく、チーム全体の親の意識、チームに関わる人の意識も重要ではないかと思います。
また、直接関係しない第三者が動けるように支援をすることもありえます。
今回の事件を報道で見ると、私自身も実例を目の当たりにして実際に行動した経験があり、その際に配慮したりした経験や、自分もジュニアのコーチをしている実感から、部活動に関係する問題について非常に考えることが多くあります。
また、行政や教育委員会においては、学校という場で行われる活動の考え方について、目先の部活の結果ではなく、子どもたちの人格形成も含めて、きちんとした考え方やガイドラインで運営されなければいけないことは当然です。教師が行うべきは、子どもを以下に伸ばすかということ、学校をいかに魅力的な場とするかということではないでしょうか。
仮に、部活の指導で大きな大会へ出場するなどの結果を出していたとしても、暴力行為などが日常化したり、部活に偏った生徒指導を行っていたりするなど、それが鈴鹿市の子どもの育成に沿わないのであれば毅然として対処する、それは教師はもちろんのこと部活保護者に対してもきちんと話し対処するということを行うようにすべきだと思います。