Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

玉ねぎの皮をむきながら

2008年12月13日 | 読書
 ドイツの作家ギュンター・グラスの自叙伝「玉ねぎの皮をむきながら」(依岡隆児訳)を読んだ。2006年のドイツ国内での出版前から、少年時代にナチスの武装親衛隊SSに所属していたことを告白していると報道され、物議をかもした本だ。
 戦争が勃発した少年時代から、戦争をくぐり、1959年に小説「ブリキの太鼓」を出版するまでを振り返った本で、マスコミを騒がせた武装親衛隊SSの件はその一部だ。もちろん看過されるべき問題ではないし、第一それはグラス自身にとっても癒すことのできない傷になって残っているが、全般的な読後感としては、赤裸々な過去の告白に圧倒された。

 数多くのエピソードが詰まっているが、とくに印象に残ったものをあげると、
 ナチス思想に染まっていた少年グラスが勤労奉仕隊に所属していたときに、銃を握ることを拒否した同僚(その同僚は、毎日の点呼の都度、「ワタシタチハソンナコトハシマセン」と言って銃を落とした)がいて、グラスの信念に最初のひびが入ったこと。
 戦争末期に故郷のダンツィッヒ(現グダニスク)にロシア軍が侵攻し、父と母と妹の住む家にロシア兵が入ってきたとき、母は妹をかばって自ら辱めをうけたこと。
 全滅した部隊から離れて逃亡していたときに、ある村でロシア兵が隊列を組んで行進して来るのに遭遇し、銃を撃とうと思えば撃てたが、グラスはそうせずに、こっそり立ち去ったこと。

 こういったエピソードが無数に綴られている。その文体は、ときには自分を「彼」と呼びながら、過去を暴こうとする容赦のなさがある。それが私には驚異だった。ふつう、人は言い訳をするものだ。

 意外なことだが、人生でほんとうに大事な思い出は、10本の指があれば足りるくらいのものではないか。それらの思い出が今の自分を形成している。グラスはそれを語った。
 では、私はできるだろうか。今はできないと認めざるを得ない。でも、いつかはできるだろうか。他人にたいして語るかどうかは別にして、自分にたいして語ることはできるだろうか。そのとき私は、自分をかばわないだろうか。

 この本を読んでいる間、私はドイツ男の体臭を身近に感じていた。無愛想で、他人にたいして無頓着で、自分にこだわる男、私はそのような男が嫌いではない。けれども安易な共感はできない。いや、むしろ、相手から拒絶されている。
 グラスは私と近い存在ではない。グラスを考えることは、必ずしも私を考えることにはならない。けれども、ここで暴かれたグラスという男は、無視できる存在ではない。ここで語られた過去は、私の過去を対置する。
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